白蓮亭の話
支度を済ませ王宮へ向かうと、大門の向こうにすでに雲海座の皆がいるのが見えた。そういえば王宮に宿を得たと言っていた、今から荷を詰めて、舞と芸を完成させるのだろう。不思議がっているシンにそう伝えると、成程、といって門の衛士に用向きを伝えにいった。謁見を得るまでは、きっとまた待たされるだろう。門の前で衛士に止められていると、一座のほうから、子供のぐずる声が聞こえる。ちびの声だ。
「駄目ったら、ちび! 勝手に動いちゃ怒られちゃうの!」
それに対するあの猫の少女の声が聞こえて、ファンはそちらを見やった。ちびは少女に抱きあげられてなお、手足を振りまわしてばたばたと暴れている。
「マオシャ! どうしたの?」
少女に声をかけると、少女はその手を抜けだそうとするちびを必死で捕まえながら、こちらへ来た。周りの衛士達は直に何か言ったりはしないが、煩わしそうな目でそれを見ている。ちびが大人しくならないと、彼らも気を揉むだろう。
「見て回るんだって聞かないの。迷子になったら困るし、お城の人達に迷惑をかけたら、あたしたちいられなくなっちゃう……痛っ」
少女が小さく悲鳴を上げて、その拍子にちびが逃げ出す。返事は待てなかったが、衛士に短く断りを入れて、ファンは門の中へ飛び込んでちびを掴まえた。どうやら少女の手を噛んだらしい、押さえている下がうっすらと赤くなっている。ちびはばたばたと暴れたが、めっ、と小さく叱ると少しばかり大人しくなった。
「ここではちゃんとしてないと駄目だよ、ちび。それに、ひとりで騒いだら危ないからね」
抱き上げたちびの口がへの字に曲がって、じっとこちらを見る。
「ここ、おもしろいのあるの。にいちゃ、さがそう」
面白いもの? と問い返したが、その前に少女がちびを預かりに来て、門の中へ入りこんだファンも衛士に戻るよう言われた。ちびはもうぐずったりしなかったが、宿房のある奥へと連れられて行く間、むすっとしていた。
「どうした?」
シンが戻ってきて、離れていく二人のほうへ目をやりながら尋ねた。
「ちびが王宮を探検したがったみたいで。でも、きっと王様に怒られちゃいますよね」
「王の耳に入る前に、官たちが咎めるだろう。王宮は広いし、確かに走り回られたら大変だな」
それに、あの饕餮の堂に近づくのも良くないだろう。鍛練を積んだ衛士達すら、あの場所では悪寒がすると言っていたし、面白がって札のひとつでも剥がしたら大変だ。まぁ、ちびからしてみれば、ここまで広大な建物は珍しいだろうから、動き回ってみたくなるのもわかる。
どうやら朝儀が開かれているらしく、門を通され中庭の、池泉に面した亭に通された。亭は八角の建物で、柱と手すり、上のほうに透かし彫りの欄間がある他は、庭を見渡せるよう開けていた。白蓮亭と名があったが、もう大分涼しいからか薄赤くなった丸葉が浮かんでいるだけで花はもう終わってしまったらしい。亭の中心に据えられた卓につき、二人はしばらく庭を眺めた。手入れはされているが、きっとここ数年愛でる者はいなかったのではないかと思うほど、閑散としていた。池の水は風に吹かれて、さざ波を立てる。映る空は秋の透るような青を鱗雲が覆う、明るい曇天だ。
しばらくして、侍女が茶を持ってきて、もてなしてくれた。果物に似た淡い香りの茶で、色も淡い。温かい茶に息をついていると、池に架けられた橋を渡り、向こうから西王と白虎とがやってきた。朝儀を終えて官もそれぞれ仕事に入るのか、官舎から声が聞こえ、人の動くのが解った。西王は亭につくと、それまでいた侍女を下がらせ、充分に人を払った。
「待たせたな。とはいえ、青龍、どこの王宮とてこの時間は朝儀だろうが、もう少し後でくればいいものを」
颯と椅子に座り、西王は言う。残された茶器で蓐収が手ずから王の分の茶を淹れている。慣れたような手つきに、ファンは昨日蓐収が言っていたことを思い出した。現王が登極するまでは、彼女も獣だったというから、これも随分と練習したのではないかと思った。
「東王宮では、朝寝を趣味にしていたものでな。いや、疾く耳に入れておきたいと思って、昨日のように出掛ける前にと参上した」
今日は出ん、と短く応え、西王は茶器にゆっくりと口をつけた。おそるおそる、という感じで、少しすすって再びそれを置く。
「で、今日は何の用だ」
「弟子が、ファンが太極だという話をしたが、昨日、妙なことを聞いたというのでな。それがどうも、饕餮に関わるらしい」
蓐収の顔がさっと曇ったが、西王はなお平然として話の続きを促した。
「ここに来る前に御柱に寄ったのだが、それより天とも魔ともつかぬ者に付けられているようだ。それが、昨日現れて、近いうちに饕餮が出るというようなことを言ったらしい」
シンの言葉を聞いて、西王がこちらに鋭い視線を向けた。
「本当か、小僧」
「は、はい!」
上ずりかけながらも答えると、西王はふん、と鼻を鳴らして応えた。
「小僧の言葉に嘘がないとして、そのよくわからん者の言うことを鵜呑みにするのもな」
ずず、と茶をすする音。横で温まった茶器を手で包んで、蓐収が俯けていた顔を上げた。
「……陛下」
「わかっている。そういう話なら何の備えもしないわけにはいかんが、いくら近くとはいえ“饕餮が来る”などというのは、今に限った話ではない。あれがここにある限り、奴はいつだろうとここにくる。来るだろう、というほうが常だ」
「……どうして、饕餮の体を置いておくんですか?」
思わず尋ねていて、ファンは慌てて口をつぐんだ。ほんの少し嫌味に笑みを浮かべながら、西王はこちらを見た。
「黙っている者を置いておいたところで、茶がもったいないだけだ。小僧、言いたいことは言え」
ファンは閉じていた口を少し緩めた。西王の笑みは、きっとこういう言い方、態度が彼の常ゆえなのだろう。再び、同じこと尋ねると、西王は空になった茶器を蓐収のほうにやって答える。蓐収は王のものと同じく空になっていたシンの茶器を寄せて茶をついでいる。
「あれを見たのか」
「……はい。あの石の像は本物なんですよね。邪気も出ているみたいでした」
新旧問わず幾重にも封印のかけられた堂とその中身。さっき西王は、饕餮が来るとしたら体がここにある故だと言った。饕餮は体を取り返そうと、ここにやってくるのだ。なら、その危険を何故、代々の王達は残してきたのか。王宮の一角、自らの懐とも言えるところに。
「小僧、饕餮という怪物がどういうものか知っているか?」
その問いには、ファンは首を振った。元より、ファンの認識は、四凶と言えば天に背いて人を襲ってくるもの、くらいでしかない。
「饕餮は欲の権化だ。全ての欲の固まったのが力を得たのが饕餮と言っていい。全てを欲し、全てを抱え得ようとする」
過去の王の記憶だが、と置いて西王は続ける。
「西の初王は、戦いの末に饕餮の体をああして封じることに成功した。すぐさま砕くつもりだったようだがな。思いとどまった。理由を知るか、青龍」
注がれたものを飲んでいたシンが、いや、と首を振る。
「止めた覚えはうっすらとあるが」
「初王があれを残したのはな。西が他方に比べて、恐ろしく貧しい土地であったからだ。最も人の好まぬ土地を預けられて、西王はあえてあれを残した。――饕餮の身は富を呼ぶのだ」
西王はふうと息をつく。その目にあの魔獣の目と同じ向きを、僅かに、ほんの僅かに感じながら、ファンは西王の言葉に耳を傾けた。