問うる朝
中庭の端のほうから、陽のあたる場所が増えていく。それに合わせて、空気が少し温んできて、ファンは座り込んだまま手ぬぐいで汗を拭った。
「昨日、王宮からの帰りに、またジュジに会ったんです」
「御柱で会ったという者か。何者だ?」
頷き、そして、首を振る。その問いには、彼も答えなかったから。只人ではないことだけがはっきりしている。
「わかりません。でも、そこで言われたんです。師匠がどうして旅をするか知りたいかって。おれはまだ何も知らないって」
知らないと言うだけで、その口はそれ以上の事を教えてくれなかった。きっと全て知っているだろうに。こちらがそれに悩み苦しむのを楽しむかのように、薄く笑みを浮かべて、ただこちらの動くのを見ている。
「そのものは、俺の旅の理由を知っているのか」
ファンは俯く。確かに聞いたが、今となっては真偽のほどがわからない。こちらが一番に心を揺らすだろうとわかってそう嘘をついたのか、それとも、いつまでも答えに至らないからと口にしたのか。だが、真実は機が来れば、シンがきちんと教えてくれると言った。ならば。
「聞きました。でも、いつか師匠が話してくれるなら、ジュジが言ったことは真偽を確かめる必要なんてない。どっちにしたって、おれがそれで戸惑うのを面白がっているんでしょうから」
シンは、そうか、と言って微笑する。何か言いたげに、口が振れたが零れたのは深い息だけだ。何を言ったか問うても、それの肯定否定はきっとできないだろうから。
「ジュジは何者なんでしょうか。御柱の中で、おれは親切にしてもらったし、直接何かされたこともないんです。おれが一人だった時はいくらでもあったのに」
「だが、天社の官にしか開かぬ扉を開け、地下でお前に何かしただろう? 会って見たわけではないが、俺にはどうにも魔の者に思える。お前を狙うとしたら、やはりその線が一番強い」
シンは難しい顔で腕組みした。そういえば、そうだ。今、直接ジュジの姿を見たのは自分だけで、それに心のどこかで彼は自分の前にしか現れないのだ、と思った。
やはりジュジは、シンの言うように魔の者なのか。確かに、四凶や天のことを、ああも軽々と口にする。でも、御柱の中、地下の社、そして、昨日橋の上で見た姿はそれぞれ多少なり違っていたけれども、どこに蚩尤の徴を持っていなかったように思う。
「どこまで知っているんでしょうか。ジュジは、おれがこれまで一座といたことも知っていて、それにこの先の――」
そこまで言って、ファンははっとシンの方を見つめた。あの言葉が真なら。
「饕餮! 師匠、昨日ジュジはおれに“饕餮にやられるな”と言ったんです。もし、それが本当なら、ここにも魔獣が現れるかもしれません!」
そう勢いよく言って、同時に王宮でのことを思い出した。幾重にも封ぜられた、石と化した魔獣を。
「あ、でも、饕餮の体は王宮にあるんですよね。なら、どうやって……」
ファンは腕組みして、じっと地面の小さな草を見つめた。体が無い者に、どうやって捕えられるというのか。代わりにシンが腕を解き、言う。
「確かに、東王宮には饕餮の体があると聞いた。が、西王は意識のほうは取り逃がしたというぞ。相手は四凶だ、体を取られたとて意識が残ればまだ何かやりかねん。神獣も魔獣も、体と意識のその二つに区別はないんだ、どちらも力が凝ってできたものだからな」
「なら、早く知らせないと……」
もしかしたら、饕餮は自分の体を取り返しにこようというのかもしれない。東や南で魔獣が目を覚ましたように、一万年の時を経て動くため、元の体を欲して。シンが頷く。
「そうしよう。西王陛下もまだ動かれはしないだろうから、早い方がいい。……ただ、体を取られれば、力の大部分を取られたに同じだ。出来ることなどそう無いだろう。来るとすれば必ず、何か兆しがあるはず」
互いに頷きあい、二人は長跨についた砂を払って立ち上がった。中庭のほぼ真ん中まで、日向が迫ってきて日が高くなったのがわかる。辺りから、朝餉に粥を炊く匂いと、来た時のような工房からの金を打つ音がする。
浮いた汗を拭い、途中朝餉を頼みつつ、一度再び部屋へ戻る。手ぬぐいをしまい、荷の中から最低限持ち歩く物だけ寄り分けると、ファンは寝台へと腰を下ろした。
「聞いていいのかわからないんですが」
同じように荷を確かめていたシンがこちらへと振り返る。
「どうした。そういえば、まだ何か言われたんじゃないのか」
「おれは、知らなきゃいけないって。四凶がどうして天に刃向かうのか。そして、天はそもそも何なのかって」
シンが眉を寄せた。ファンも言ってから、しまったと思った。天を探ろうなどというのは、不遜極まりないのではないか。否、まず、不遜だと思うところから、天とは何か考えなければいけないのかもしれない。とはいえ、シンがこちらを見て黙ったままで、ファンは慌てて、いえ、と口を濁した。シンは立ち上がり、自分の寝台に腰かける。
「そういえば、そうだ。俺はそれも忘れている。覚えているのは、あの戦いの時には奴らは敵で、おれは神獣になる前奴らに捕えられていた、ということだ」
「捕まって……?」
「ああ。獄にな。で、天が俺を神獣にするとかで、そこから逃がした。それで、初王と会って――駄目だ、はっきりとは思いだせん」
ため息をつき、シンは寝台の上で仰向けになった。
「天は……そうだ、俺は天と何か約束したはずだった。初王のことか? いや、違う。もっと別のことだったはずだ。まったく、嫌な忘れ方だな。斑に記憶が抜けている」
天井を見つめ、シンは自問自答し、呟く。
「そもそも、俺は何故獄に繋がれていた? いや、俺と四凶が対峙していたのはわかる。永い幽囚に、俺はずっと腹を立てていて……」
「師匠?」
声をかけると、シンはこちらを見て、ふっと笑み崩した。
「すまない。だが、そうだな。その答えは今俺には無い。お前が、もしその答えを探すというのなら、俺も付き合おう」
シンは体を起こす。
「天は、気がつけばそこにいたように思う。それで、魔獣を倒すというのと、善き世を作ろうと言ったのは覚えている。だが、そうだ。国を興す前から俺はいた。なら、天が出て来る前も知っているはずなのだが」
駄目だな、と言ってシンは深く息をつき、また寝台へ倒れ込む。
「まだ時間がかかりそうだな。それとも、北に着けば、王や玄武が何か知っているか」
「黒の国の、ですか」
「ああ。あの国には中つ国全ての知識がある。建国からの記録だけでなく、ともすればこの世の開闢、世界の黎明も知る者がいるかもしれない」
再びシンは起き上がり、こちらを向いて頷く。
「旅の道はまだ長いな。言うまでもないと思うが……ついてきてくれるか」
ファンは頬が緩むのを感じた。それなら、問われるまでもない。
「もちろんです。だって、旅の始めだって、おれが師匠にせがんだんですから」
シンが声を上げて笑う。
「そうだったな。それで一度断ったんだった。それで、お前は飛び出していって」
「それは! その時は師匠だって、自分が化生だって嘘をついたじゃないですか」
まるで遠い昔のように思える、旅の始めのこと。あの時から、シンはずっとひとつの目的を持ってここまで来た。自分は途中で、父母と育ての親と、自分のことを知ったのだった。
知らないことはまだ多い。だが、あの町にいた頃知らずにいて今知っていることもたくさんある。今わからないことばかりに思うのは、知らないことすら知らなかったものの、その存在を知ったからだ。
「それに、今はお前の旅にも目的があるだろう。そのジュジとかいう者も、天も、お前の存在とその成長を待っている。どちらもおそらく、ただ愛でるのとは違うだろう。心しなければ。そうか、俺は、それを見届けるのも命のうちだったな」
ファンは頷き、じっと掌を見つめた。太極という命、天の懐で生を得たこの身の行く末。何が待っているのだろう。そして、自分はそれにきちんと立ち向かえるのか。シンのほうを見ると、シンは静かに頷いてくれた。大丈夫だ、というように。
戸の向こうで、宿の者が朝餉の支度が出来た、と声を張る。礼を言って、二人は立ち上がる。食べたら、すぐ王宮へ向かおう。とりあえずは今、目の前にあるものから、解いていかなければ。