解ける朝
微かな物音に、ファンは重たい頭を上げてそちらを見た。シンが帰ってきている。
「起こしたか。まだ寝ててもいいぞ」
申し訳なさそうに笑う師の顔に、安堵と当惑とを同時に覚えた。
「遅くなって悪かったな。心配かけた。……どうした? 寝てないのか」
こちらの顔色を見て、シンが尋ねる。
「少し。色々と考え事をしていて、寝付くのが遅くなったんです」
少し、ばかりではなかった。昨夜のことがずっと心に残って、殆ど眠れなかったのだ。暗闇に溶けていったあの氷の微笑と言葉とが、事あるごと瞬くように戻ってくる。こんな時間まで、シンはどんな話をしてきたのだろう。表情を見る限りは、機嫌は良さそうで、難しい話をしてきたようには見えなかった。あの少年が言ったような中身の話には。ファンはぐっと体を起こし、掛け布団の上に足を出した。
「あ、でも、大丈夫です。師匠は?」
「ん? 俺は何ともないぞ。いや、西王に棋戯に付き合えと言われてな、ずっと打っていたんだ。眠れてはないが、気分はいい」
棋戯、とファンは呟く。話のせいで遅くなったわけではないのか。こちらの呟きに頷いて、シンはぐっと伸びをすると、荷物から手ぬぐいを出した。顔を洗いに行くのだろう。微かに風が吹き込んできて、そちらを見やると窓が僅かにだけ開けてあった。薄く見える朝まだきに、ファンは先ほどまで聞こえていた朝鐘がまだ頭の中で響いているのを感じた。
「ここしばらく怠けていたからな。少し体を動かそうと思うが、一緒にくるか?」
「はい! お願いします!」
問われて、ファンははきと返事をした。飛び上がるように、寝台から降りて自分の荷物をあさる。荷物の中で絡まっていた手ぬぐいを引っ張り出して、戸口で待つシンの方へ振り返る。
「あの、師匠――」
そこまで言って、ファンは言葉を止めた。口を開くまでは、昨日の話をしようと思っていた。でも、ジュジが現れたことを話せば、同時にシンがこれまで隠してきた、旅の理由をも聞くことになる。もしあの言葉が――死ぬための旅というのが本当なら、答えがどちらでもきっと、わかってしまうだろう。違えばいいと思うほど、確かめるのは躊躇われた。あの出来事ごと胸にしまえば、これまで通り旅は出来る。否、あれが真だったとしても、今知ったところで何もできやしないのなら、今は黙し旅を続けるほかないのだ。
「どうした?」
心配そうに覗き込むシンに、ファンは首を振って応えた。何でもない、と。訝しげながらも、そうか、と応えて、シンは外へと歩き出す。旅が終わったら、シンは東王宮へ帰り、自分はバクのところへ戻る。その間に自分の素養が知れればいい。ぐっと成長して帰られれば上々、そうずっと思ってきた。でも、今胸の中にある予感は、それを上から塗りつぶすように心を覆う。シンのこともそうで、自分のことだってそうだ。今もなおわからないことばかりだ。
水場について、釣瓶から借りた桶に水を移す。結ったまま乱れていた髪を解き、水で頬を張るかのように、顔を洗った。今わからないことを逐一考え始めたら、どこまでも際限なくそれは続くだろう。まるで何もないところに立たされたかのようだった。桶の上から顔を上げて、首にかけていた手ぬぐいで水気を拭う。朝の空気がひやりと、濡れた肌に沁みた。
そうして、思う。自分はまだ何も成長していないのではないか。借りた力で強くなった気になって、歩いた道の長さだけ、色々知った気になっているのではないか。くっ付いて旅をして、シンの目を借りてものを見る。ならば、旅に出る前と何が違うのか--
「ファン!」
シンの声にはっとして、ファンは俯けていた顔を上げた。シンは少し向こうに立っている。何度も呼んでいただろうに、今まで気付かなかった。
「中庭を借りた。……来い」
急いで髪を結い、そちらへ駆けだす。中庭のほぼ中央で、シンは手ぬぐいを植木に掛け、立っていた。言葉はない。ファンはその傍へと駆け寄る。
「すみません、師匠――わっ」
急に掌打が飛んできて、ファンは慌てて受け身をとった。痛みは殆どないが、体重の乗ったそれに構えはすぐに崩されて、よろめきながら後ろへと下がる。自分が気を抜いていたとしたって、今のは不意打ちだ。組手なら向こうが受けるのを確かめて打たなければならないのに。ファンは少しばかり腹が立つのを覚えて、シンの方へと弾かれたように向かう。間合いはこちらの方が狭いが、懐へ飛び込んでしまえば関係ない。先に打たれたのと同じように、ファンも掌底を繰りだした。
突き出した腕を体の横に払い避け、シンがこちらの後ろへ回りこむ。続く後方からの素早い殴打をファンも予期して受け、しばらくそれの応酬が続いた。次いで、額の方へ来た掌打を避けて、しゃがみ込んだファンは、空いていた胸から顎に向けて、少しばかり勢いをつけて、掌を突き返した。終始無言、互いの呼吸をはかるような、短い息の音と鈍い打音だけが辺りに響く。体重を乗せて前へ突きだした腕をシンは避け、それを掴んでファンの前方の方へとぐいと引っ張った。元々前に向けていた体の均衡が崩されてファンは転ぶ時のように前へのめる。前へ転がるだけだ、受け身を取るのは容易いが――
ファンは素早く地面に手をつくと、後ろの方へと避けたシンに向かい、足を延ばすように蹴りだした。シンは構えて受けてはいるが、みしり、と充分な手ごたえが返ってくる。
「随分強くなったな。今のは避けられなかった。が」
シンがこちらの足をとって、ぶん、と横に払う。前後へ意識して取っていた均衡が別に向けられて、ファンは投げられるまま、受け身もそこそこに地面へと打ちつけられた。痛みに呻きながら、ファンは師の方を見あげる。
「一度攻撃したら、次を考えておかなければな。相手も当然返してくる」
打ちつけられて引っ込んだ息を取り戻して返事をすると、シンはひと段落した、とばかりに息をついた。そして、こちらの横に腰を下ろし、口を開く。
「何があった。隠していることがあるなら言え、俺に言いたいこともな」
紺青の瞳がこちらをじっと見つめている。出逢った時から憧れた、精悍な眼差し。ここしばらく見ることのなかった目の光だ。迷いのない輝き。
いや、ないわけがない。ただ、見せないだけだ。幾度も王宮を離れたことを悔いながらも、尚も続ける旅の道に、迷いがないわけがない。ファンは体から、心からすうと力が抜けるのを感じた。秘めている必要などないではないか。
「ずっと、聞こうと思ってたんです。いや、ついこの間までは気にもしなかったことですけど」
尋ねれば良かったのだ。聞かずに秘めているところで、結局悩むことになるのだから。どの道悩むなら、少しでも進んだところで悩めばいい。
「師匠は、何のために旅に出たんですか?」
やはりな、とその表情がすまなさそうに緩む。こちらも小さく笑い返したが、きっと眼の前のシンと同じような、自分に向かって呆れているような、そんな笑みになっただろう。シンは少し間を置いた後、ゆっくりと口を開いた。
「すまないが、まだ、言えない。いや、前まではこれにお前を巻き込むのが忍びなくて言えなかったんだが、今はここにきてその望みも由も揺れて、自分でもこうとわからないから、言えないんだ。そうだな。やりたいことは変わらないが、ただそれに辿りつく前に、やらなければいけないことができたという感じか」
「その、やりたいこと……が目的ですか?」
問うと、シンは静かに頷いた。
「蓐収に平手で打たれて、西王と棋に向かって、やっと自分が見ていなかったものに、少しばかりだが目をやれたんだ。どうも俺は事に対して及び腰の上に短慮らしい。元が解らぬままに、先の方だけ手を打っても駄目だと気付いた。目的は、その由を知ってから果たす方がいい。……だから、陛下は俺を四方へとやったのだな」
きっと、昨日のことが無ければ、今シンが話していることは、煙を捕まえるような、要領をえないものだっただろう。でも、この口ぶりならおそらく、あれはどういう意図を持って語られたにしても、真実なのだ。ただ、今はもうそれを恐ろしいとは思わない。猶予のためではない。今こうして、向かい合って話が出来たからだ。
シンは続ける。
「お前が生まれた時を知って悪夢から逃れたように、俺も俺が神獣となった時を尋ねなければならない。失くした記憶を取り戻してな。それがきっと、天の言う“剣の故を問え”ということなのだと思う。もう一度、自分の目的を浚い直して、定めたい。きちんと定まったら、その時は必ずお前に話そう」
はい、とファンは頷き、それに応えた。きっとそれを聞くときには今のような気持ちで、きちんと正面から聞くことができるだろう。
「お前は充分、俺の信用に足りているよ。旅の伴に、お前がいて良かった」
これ以上の言葉は必要ない。二人が口を開いたのはほぼ同時、出てきたのも同じ言葉だった。ただ一言、心よりの礼だった。