白影(1)
夜もだいぶ深くなり、ファンは一座の子供たちに混じってあくびをした。そろそろ宿に戻ろう。随分一座のところでお世話になったから、もしかすると、もう師匠は戻ってやしないだろうか。ファンは、一座の皆にお礼を言って姿勢を直す。
「おれ、そろそろ宿に戻らないと。師匠帰ってきてるかもしれないし」
「お、そうか? 暗いから気をつけろよ、送っていくか?」
ダオレンの申し出に礼を言い、ゆるゆると首を振った。
「大丈夫だよ、街の中だから。あ、でも、つり橋には気をつけるよ」
もう小さな子ではない、留守居もおつかいも充分に出来るのだから。一度起きてからはこちらの膝の上で寝ていたちびをユーリーたちに預け、ファンは立ち上がった。宿は東の離れ山にあるから、戻るには本山町を横断して、つり橋を渡らなければいけない。道は大まかにわかるし、細い道はなかったから、明るい道を選べば戻れるだろう。
「じゃあ、また! 新しい踊り、楽しみにしてるよ」
まかせろ、と応えがあって、ファンは歩き出した。ダオレン達は、神獣の代替わりを新しい舞で祝うために、西都に呼ばれたんだそうだ。実は楽器の引き手たちはここに来るまでにある程度曲を作ってしまったらしい。あとは実際の白虎様に見えて、舞と共に細かに揃え直していくという。だけれど、ダオレンの話で白虎様が女神だと聞いて、引き手のにいや達は驚いていた。虎だと知っていたから、かなり雄々しい曲にしたというから、きっと直すところはいっぱいあるのだろう。
人が出歩く時間も過ぎ、夜の道は人通りが少ない。たまに人が通ると、むしろそちらの方が驚くし、少しばかり怖かった。人の声が絶えると、街を包むのは谷を吹き上がる風の音と火を落とせない工房窯の低く唸るような音だ。たまに混じって虫の声と、夜通しで打っている鎚の音がした。
大通りを跨いで、本山町の東の端。東の離れ山は南に伸びた形をしているから、巽山と言うらしい。衛士のいる大きな吊り橋がそちらへと繋がっていたが、見ると入り口が閉められてしまっていた。衛士もなく灯りも落とされているから、ここを渡ることは出来なさそうだった。王宮の正門と同じことだろうか。ともあれ、他の道を探さなければ。つり橋は他にもいくつかあったはずだ。
町を少し下ると、東への別のつり橋を見つけた。細いつり橋だ。途中で行き交わなきゃならないとしたら大変だ。師匠なら、ならもっと早く渡るべきだ、と言うだろうが、大きいつり橋よりよほど細くて揺れるから、ファンは向こう側に誰かの気配がないかじっと確かめて、そっとわたり始めた。
夜だというのに、谷の風は昼間より温い。半分ほどわたったところで、止せばいいのにふと下を見てしまった。雲に霞んで見えない日中よりも、まったくの闇である夜のほうが谷の深さを感じてしまう。もしかしたら、どこまでも落ちて、獄まで届くのではないか。魔獣達が封じられ、潜むという暗い世界へ。
東も南も、魔獣が現れた。どちらも人の心に付け込んで、その土地に強く爪を立てた。傷ついた人は多い。だから、西の地でそれが起こらないか心配だった。ただ、饕餮は王宮で封印されていたから、もしかしたら何も起こらないかもしれない。それでも不安はじっとりと背を這うように残る。
師匠は何か感じていないだろうか。そうだ。もしかすると、師匠は魔獣達が動き出したという話をしているのではないか。一万年前に天とはじまりの王達と揃って魔獣を封じたように、今回もきっと四方で協力するはずだ。それをお願いに行ったのだろう。とすると、師匠の旅の目的は、中つ国を繋ぐこと――
「青龍の事が気になるかい? ファン。どうして旅をしているのか」
温い風と突然の声にファンは、縄を掴みながら慌てて振り返った。聞き覚えのある声で、思いもよらない人だったから。後ろに立っていたのは、御柱で出逢った少年。
「……ジュジ?」
夜の闇に浮かぶような白い肌。血のような深紅の瞳。腕にはあの時、御柱の社で会ったときにはなかった、不思議な紋様が描かれていた。言葉だろうか? だが、ファンには見たこともない文字だった。
「どうして、こんなところに……ううん、違う。なんで、ジュジが師匠のことを――」
「知っているよ、君が生まれるずっと前から。ボクが彼を知らないわけがない。彼は……きっと忘れてしまっただろうけど」
優しい微笑みに、あの時感じることのできなかった邪気を乗せて、ジュジは優美に微笑んだ。自ら、救済、と名乗った少年。否、少年の姿をした“何か”だ。ジュジはかつてのシンを知っている。シンがどういう存在であるかも含めて。ならば、訊ねるべきことはたくさんあっても、まず問うべきは。
「ジュジ、君は」
誰だ、何なんだ、と言いかけた言葉を制し、ジュジは面白そうに笑う。
「なんだ、ボクのことが聞きたいのかい? 違うよ、キミが知りたいのはもっと別のことのはずだ。さっき、思っていただろう、キミの師匠がどうして旅をするのかって」
微かにつり橋を揺らし、ジュジはこちらに歩み寄る。同時に、ファンは後ずさりした。つり橋の縄を確かめながら、少年と距離を取る。
「彼はね、青龍を辞めたくて仕方がないんだ。また失うことが怖いから。守れないことが怖いから。だけれど、彼は今もう、天から預かった青龍の力で生きている存在だ。つまりは、わかるね」
深まった笑みとその言葉が示す意に、ファンは戦慄した。シンはずっと――
「死ぬために、旅をしているのさ」
風の音が止まった気がした。シンは、師匠は。ジュジの言葉を嘘だと思えれば、良いのに。信じたくない言葉ほど、頭のどこかが強く肯定する。そうに違いない、と。
ああ、だから、シンは言わなかったのだ。知れば自分は、驚き悲しむだろう。今のように。そして、すぐにでも止めようと思うだろう。旅の先を急かした自分を悔いながら、それでも彼の気を変えようとするだろう。シンもそれを読んでいるから、言わなかったのだ。
「死なずに済めばいいとも思っているけれどね。止めたいかい? ファン」
ファンは顔を上げた。何を言わんとしているのだろう、この少年は。
「まぁ、今のキミにはどうにしても無理だろう。気も力も足りないよ。もっと強くなってくれないと」
「強く……?」
よく考えてね、とジュジは笑う。
「とりあえず、饕餮相手に死んでもらったら困るよ。捕まっても駄目だ。気をつけてね、キミはキミのお父さんに似て優しいから」
優しいから、という言葉に甘いという意を感じて、ファンはハッとした。父の死を知っている。やはりあの場に居合わせたのは、ジュジだったのだ。父の魂を弄んだのは。
「ジュジ!」
「キミはまだ何も知らない。四凶が何故天に刃向かうか、まず、天とは何か」
よく考えてね、とジュジは再び繰り返した。そして、ふわり、と浮かぶように、ジュジはつり橋の縄に飛び乗った。
「また、会いに来るよ。饕餮によろしく。旅一座のみんなにも」
細い体が宙に泳ぐ。ファンはとっさにそれを掴もうとした。掴み損ねた腕の向こう、微笑むその少年の目は、まるでこちらを試しているように光った。
風の音が戻ってくる。ジュジはずっと、見ていたのだ。そして、きっとこれからも見ているだろう。足元から崩れそうになるのを必死でこらえ、ファンはつり橋の終わりへと向き直る。足も手も震えている。
ファンは急いで宿へと戻ったが、シンはまだ戻ってきていなかった。話が長引いているのだろうか。もしあの話が本当なら。ファンはぶんぶんと首を振って、それを打ち消した。
シンが遅いのを宿人へ告げ、夜食を断って寝台へ飛び込む。まるで小さな子供のようだった。見えなくなることを逃げたと思うような。それでもすぐに、眠りの中へもぐってしまいたかったのだ。
うすら寒いのに、じっとりと汗をかいた。ただただ朝が待ち遠しくて仕方がなかった。