若き者の音(1)
聖山は鋼や銀に似て、他と紛れもない自分を映して輝く。記憶も力もどんどん遠ざかっていく。きっと自分の歩みが止まってしまっているから。先へ進むそれらに、ついて行けなくなったのだ。
目の前の王も神獣も、かつては古い霊獣であり、西の凶荒に咽ぶ一人の人の子だったはずだ。今、こうしてその姿をこうも変えたのは、彼ら自身が前に進んでいるからだ。ならば、どうだ。自分の姿は変わったか。きっと大いに変わっただろう。しかし、それは前に進んだからではない。本来追いついているべきところより、後ろにいるからだ。否、変わったかもわからない。以前の自分――神獣となる前、暴れるが故、魔獣たちに獄へと繋がれた、一頭の龍はどういう姿をしていただろうか。自分の青鱗は、神獣と化す前はどのような色をしていたのか。
「返す言葉もない。俺はただ浮世を離れようとしているだけなのかもしれん」
嫌だから逃げよう、とは子供のすることだ。わかっている。逃げた先のほうが、よほど辛いこともわかっている。今対峙している状況にいっぱいになっていて、先のことを思いやれないだけだ。だが。
「だが、やはり俺はもう、聖樹の根を枕にして寝れんよ。もはや、己がどうかすら見えていない。弱ったと言われて認めるだけは弱ったのだから。俺は――」
ふと自分の前に影が差し、俯けた顔を上げた。そこには、人の姿になり、手を振りかぶる蓐収の姿があった。布を張るような、高く乾いた音。強かに頬を張られて、シンは座ったまま、突き飛ばされるような形で後ろに肘をついた。
「あなたと言う人は! ……治癒の術がなければ、爪で裂いてやりたいくらいです!」
こちらを思い切り叩いた手をぎゅっと握りしめ、蓐収はそう言った。目にうっすらと涙が浮いているのが見えた。
「……すまない」
「謝らないでください! あなたは弱ったのではありません。もともとの怯弱が顔を出しているだけのこと、意気地のない姿があらわになっているだけです。あなたは、あなたは――」
鼻をすすり、うっすらと赤い目で、王の後ろに控えた蓐収を見つめる。きっと西の地が前の白虎のままだとしても、今と同じように殴られただろう。小さなため息が聞こえて、王へと視線を戻す。若い王は、呆れ笑いを浮かべていた。
「紫晶のだけで勘弁してやろう。おい、青龍。貴様、初めから誰の意も聞くつもりはなかったな。意を曲げる気なく人の意をはかるとはおかしな話だ。まったく。相談の体で、断れんような頼みをするとは、大したものだ」
王は足を崩し、胡坐を組み替える。
「悲劇に酔うなよ、青龍。神の身で、安酒に浸るな。さて、とすれば、誰に言われて始めた旅だ?」
元より、まっすぐ天へと向かおうとしていたのだった。それが、こうして四方を巡るには、東王宮での絶え間ない言葉の投げ合いがあった。
「現東王陛下の命だ。破れば、そのまま青龍を続けるように、という約をつけてな。今自分が思うことを、四方の王の前で開けと」
東王宮を飛び出そうとするシンの袖を引き止めた、細い指、白い手、磨き上がった玉のような瞳。答えると、なるほど、と西王は頷く。
「まあ、あの女の計らいも、貴様がそれでは無駄になりそうだ」
そう言って笑い、西王はぽん、と膝を打った。
「まぁ、いい。西の地は王、神獣共に若輩、押しつけられた記憶でしか、過去を知らぬ。俺達が何を言ったところで、貴様は曲がらんな。北へ行け、もともとそのつもりだろうが、北は御柱より過去に知悉している。貴様が探している、貴様以外に犠牲の出ぬ死に方とやらもあるかもしれん」
続いた乾いた笑いに、シンはただ頷く他なかった。続く道は北へ、神獣の中でも最も古参、玄武の治める地へ伸びた。失くした部分の記憶を、北の知は埋めるだろうか。
「すまない」
頭を下げると、西王は言う。
「おお、もっと謝るといい。うちの神獣を泣かせた分は謝っておけ」
「泣いていません!」
蓐収が慌てた様子で応え、こちらを見た。
「青龍――句芒殿。あなたはいつか、あの少年にもきちんと話してやるべきです。人の子とはいえ、旅の伴、あなたが弱るのは、彼の心をふさいでしまうでしょう。天の欲した子なのでしょう?」
「そうだったな。あの小僧、天が気にいったとはどういうことだ? 天は人を愛でることなどないだろう。何か目的があるはずだぞ、青龍。言われた通りで構わんが、あの小僧の行く末、心した方がいい。貴様の言う、近頃の天変は俺も思うところがある」
「――承知した。いろいろと、すまない。西王、蓐収」
そういうと、西王はつまらん時間だった、と吐いた。重ねてすまない、と言って、シンはおもむろに立ち上がった。そういえば、ファンはちゃんともう宿に戻っているだろうか。この部屋でどのくらい時間が経ったかは知れないが、夜もずいぶん更けたはずだ。
「では、時間を取っていただいたことを――」
「待て、青龍。棋戯は出来るか」
不意の問いにシンは頷いた。随分前の代の王に教わって、共に打った覚えがある。通則が変わっていなければ、まだ出来るだろうが。
「なら、付き合え。つまらん言い合いに今日を終えたくない。官どもは忙しがって、赤子のように見える俺とは遊ぶ暇がないらしいからな」
立ち去ろうとしたシンの横を通り過ぎ、西王が先に神域の扉を内より叩く。向こう側から、控えの衛士の応えがあって、扉が開かれた。
「居室のほうにある。紫晶、茶だ。あまり熱くするなよ」
こちらが立ちつくしていると、西王は振り返り、急かした。
「何をしている、開け放しておくわけにはいかぬ部屋だぞ」
シンは蓐収と共に慌てて部屋を出る。どうすればいいかと、戸惑うこちらを見て、蓐収は小さく微笑んだ。
「お願いします。少しの間だけ」
シンは頷いた。詫びだと思えばいいか、否、詫びとしては足りないだろうが、若い王の退屈を除けるなら好いことだ。通されたのは、王の居室。駒の過不足はないらしい。シンは王の対面の席に静かに座した。
「一万も昔の戦いも、今や盤上にしか残らん」
西王が呟く。
「貴様の王が、魔獣が復活したと言ったとき、俺は西に手のないことに気付いた。西だけではない。どこもそれと戦えるのは、神獣と王くらいだ。その上、西は俺が王となってしまった。なら、少しでも駒が無ければ駄目だろう」
天は軍を排したが、それは恒久に平和だと言われたからだ。しかし、今は違う。確実に、魔獣達は動き出している。ぴしり、と棋戯を打つ小さな音。
「俺は、若い以前に、本当に物を知らん。紫晶もな、大きすぎる神獣の力をこなすにはまだ時間がかかろう。とすると、青龍。いつ死のうが構わんが、お前が抜けた穴が小さいと思うのは、愚かなことだぞ」
小さな灯りに、若い王の顔が照らされる。シンはただ頷いた。言葉として応えるには、胸の内は絡まりすぎている。代わりに、小さな駒が、応えるように鳴った。