西の王、西の守護者(2)
「まずは何より、西の鎮守の新しきを祝いたい。……幾千の昔にお会いしたきりか、先代の妹御。なんとお呼びすればよろしいか」
シンは、西王の傍らの女性に呼びかけ、再び深く拝した。この女性が、新しい白虎だというのか。神獣が死ぬというのも驚きだが、新たに神獣と化すというのも思いもよらぬことだ。しばし見とれてその唇が動かないかと見ていたが、シンが頭を下げていることを思い返し、ファンはあわてて叩頭した。涼やかで儚げな声で、女性は答える。
「構いません。兄と同じように、蓐収、と。……人の姿では、初めてお会いいたします。青龍様」
「ならば、こちらも句芒、と。貴女が兄上の跡を継がれたか。相応しきかな、西の地もこれで安らぐというもの。……後で先代殿の御霊屋を参りたい、教えていただけるか」
顔を上げたシンがそう応え、尋ねると、女性――白虎蓐収は顔を曇らせた。ややあって、蓐収は俯き加減に小さく首を振る。
「墓などあろうはずがありません、句芒殿。四獣とは神霊にして、国の力たるもの。死せばその身は地にとけ、天に還ります。そうでございましょう、お忘れですか」
「――そうだったな。すまない。兄上は国の一部となられたか……それも、国を思われるあの方らしき在り方ともいえるな」
シンもがそれに顔を伏せがちに応えると、蓐収が小さく、貴方は、と呟いた。シンが顔を上げ、その言葉の先を待っている。神獣の妹、という新たな国守りの獣。今は女性の姿をしているが、この人も本性は獣なのだろう。西を守る、新たな白い獣の。僅かに漂った沈黙に、西王が割って入って声を上げた。
「いつまで実のない挨拶を続ける気だ、青龍。俺は用件を言え、と言ったはずだぞ。……紫晶、下がれ。お前は想うばかりで、事を先に進めぬから駄目だ。いくつかある、と言ったな、順を追って話せ。つまらん世辞はいらん」
僅かな躊躇もなく発せられる声に、ファンはやはり身が縮こまるような思いがした。時折辛辣に感じる西王の言葉は、あるべき優しさを欠いているように思う。兎にも角にも国を再興するとなると、こういうふうになるのだろうか。悠々と玉座に座り、こちらを見下ろす王は、むしろ彼の方がよほど獣のようだ。偉そうに、と思ったが、相手は王だ、当然のごとく偉いに決まっている。ならば当たり前の姿なのに、どうもそぐわなく思うのは、王とは優しく、和を尊ぶものと思っていたからか。女性の王ばかり見てきたから、この若い王の刺さるような鋭さは少しばかり怖い。
「ならば、こちらも遠慮はしない、国を旅した王よ。――子の生まれぬはず黄の地の、御柱の社で生まれた子がいる。どうも、天に気に入られてしまったようでな、天意により国を見せて回ることになった。我が弟子としている、ファンだ」
紹介されて、ファンは改めて玉座に向かって頭を下げた。ぽい、と投げるような、よい、という言葉に、顔を上げて西王の顔を見つめ返す。そこにあったのは、先ほどのような薄い笑み。
「おい、小僧。国を見て回って、楽しいか?」
大して年も違わないだろうが、こちらのことを小僧と呼んで、西王は問うた。ファンは頷いて返し、口を開く。シンはさっき、旅した王、と言った。この人も四方を巡ったのか。王は四方への挨拶を必要としないが、ならば、何故の旅だったのだろう。
「はい、楽しいです。大変なこともいっぱいですが、師匠もいます。すべてが新しく、学ぶことはたくさんありますから、旅して良かったと思っています」
そうか、と応えて、西王は一層その片笑みを深めた。楽しい、と言うのは嘘ではない。南都の騒動も、黄の地の夢も、今となればすべて力になった。広がる山野は雄大で、四方それぞれに美しい景観がある。見えて来る中つ国は出会った人々であって、優しく強い大地だったからだ。
ぐっと前に乗り出して、西王は口を開く。
「俺は、旅の間が苦痛で苦痛でたまらなかった。何の力も財もない餓鬼が、一人で巡るこの国は、実に険しいものだ。お前は、路傍の草の味もひび割れた足に沁みる泥の色も知らぬと見た。お前の旅が良いのはな、師が見るように、お前も同じ目で国を見るからだ。真の国の姿が見たければ、誰にも頼るな。天意があるなら、国を回る前に死ぬこともなかろう。……まぁ、旅して良かったというのは本当だな。俺もそう思っている」
舌鋒鋭く、というのがまさに適当な王の言葉のあと、ファンはただ圧倒されて、その場に居尽くした。西王はそれでも事もなげに、蓐収に向かって、何か言う。水、と言ったのだろうか。神獣であるのに、まるで従者のような扱いだ。
王は運ばれた杯の水を飲み干し、続きを、とシンを急かした。
「で、この小僧が何なのだ」
「素養の知れぬ身にして、王と同じく神獣の力を扱う。ひとつと言わず、馴染む限りどれもな。今は俺の力と、朱明――朱雀の力を借りて宿している」
ほう、と西王は面白そうに、こちらを見やる。見せてみろ、という言葉を恐れたが、案の定それは飛び出してきた。ファンは深く息をつき、まずは青龍の気を引き出してみせる。そして、しばらくそれを見ると、次、と急かされた。若干不安のあった朱雀化もなんとかやり遂げる。久しぶりの赤い羽根は心の内を映してか少しばかり陰りが見える。
「面白く、まぁ、便利な力だな。力はその身にひとつと聞いたが、それなら色々できそうなものだ」
まるでものを使うように獣性を話し、西王は、戻していい、と言った。ふっと力を抜くと、今度はまるで力が抜かれたように体が震えた。青龍の気を支えに、再びしっかりと座する。
「なるほど、それで白虎の獣性も与えてみろ、という話か」
西王は肘掛に肘をつき、椅子深くにどっかりと腰を据えた。
「断る。たとえ力がただの道具とはいえ、白虎の力は俺が旅の先に、こいつと出会って手に入れたものだ。そう易々と人にくれてやる気はない。小僧、本当に力が欲しければ、もう一度一人で回って、ここに来い。そうすれば考えてやらんでもない」
肩すかしをくらったような気持ちで、ファンは思わずシンの方を見た。唇を真一文字に結んだ、師の顔。怒っている時に多い顔だが、それ以上にははかりかねた。今何を思うのだろう。もともと力を目当てに来ているわけではないし、シンの謁見のついでであるから、西王の言とこちらの意には多少なりずれがあるが、妙にあてが外れたような落胆を覚えた。
「さて。いくつかある、と言ったな。あとは何だ。後がつかえるから、急げ」
「――こちらが本筋だが、今ここでは話せん。別に時間を頂戴する約を取り付けたいのだ」
シンの目が一瞬こちらを見たのに気がつき、ファンははっとする。それを読んだように西王は応えた。
「いいだろう、後で時間をくれてやる。ここに残って待っていろ。弟子に出来ぬ話があるなら、初めから連れて来なければいいだろうが」
シンの用事は、自分には話せない内容なのだ。太極とは言え、ただの人の子が関わってはいけない話。国の事なら、ファンは出過ぎたまねはできない。だけれど、国とシン個人、旅のことは違うとわかっていても、何故か胸のうちに空寂しい風が吹いた。こちらの表情に気付いてか、シンの唇が微かに振れた。すまない、と言っているように見えたが、どうだろう。
「そういうことか。わかった」
玉座から立ち上がり、西王はこちらに寄って続ける。
「なに、お前の用件のことじゃあない。そっちはまったくわからん。――西がこの有様で、国が倒れぬ由のことだ」
シンの目の前にしゃがみ込み、その顔を覗き込みながら言う。
「紫晶が戸惑っているのもそれだろう。……日和ったな、青龍。この頭に叩き入れられた初王の記憶が確かなら、随分と耄碌したものだ。四方が均等を持って保たれるなら、西が弱ったと同時に、東も弱っていたと見える。なら、今この国があるのも、青龍、貴様のおかげかな」
西王はそう言って立ち上がると声を上げて笑った。嘲笑じみた皮肉に、ファンは立ち上がろうと膝に力をやる。が、立ち上がる前に、シンが袖を引いてそれをたしなめた。
「その通りかもしれん。が、若輩の王よ、そろそろ礼儀を覚える時だぞ」
低く冷たい声でシンは応え、こちらを立たせながら、自身も立ちあがる。
「ならば、弟子は宿へ引かせてもらおう。あまり、覚えさえたい居振る舞いでないのでな」
「おお、そうするといい。若輩結構。こちらも変える気はない」
先に戻っていてくれ、とシンが戸口に向かってこちらの背を押した。ファンはただ頷いた。ほんの少しのけ者にされたこともあるけれど、これ以上、師が蔑まれる姿を見たくなかった。玉座の間の扉が閉まり、ファンは短く、だが重たく息をついた。