夢うつつに遊ぶ
熾き火の爆ぜる音に、シンは完全に目を覚ました。深く寝ていたわけではなく、水のような眠りの上をただ漂うようなまどろみだった。ここしばらくずっと深く寝付けない。何か夢を見ているようなのだ。それから目覚めると、どれだけ寝ても妙に疲れていて、どことなく気分が良くない。心臓が早鐘のように打ち、夜明けがどれだけ冷えてもじっとりと汗をかいていることが多かった。
目を覚ますと、夢はまた自分の頭の中に急いで逃げ隠れてしまう。まるでこちらの手を恐れているかのように。微かに掴み取れるのはいつも、懐かしさと困惑と、後悔とが混ざった、微かな残滓のみ。きっと、建国の時の夢を見ているのだ。内容が知れずとも、それだけはわかる。王を死なせた罪を、無意識が指で掻く。その悲鳴を毎夜聞いているのだ。
シンは深くため息をついた。御柱からここまでの道に、気付いたことがある。あれだけの、あれほどのことであったのに、忘れることなどできようもないのに――自分は建国時の事を確かには覚えていないのだ。朧に霞むように、虫が食ったように。砂像のように、触れれば崩れるような記憶。
「何故だ……」
額の汗を拭うと、シンは体を起こした。微かに頭が痛む。辺りには人々の寝息と、火の燃える微かな音だけしかない。彼らにあるのは安らかな眠りだ。傍らで眠る弟子である少年。この少年は悪夢から逃れ得た。夢の元となる過去を見たことによって。自分も悪夢と過去と向き合わねばならないのに、向こうはこちらの指をすり抜けて逃げてしまう。小さく笑いながら。
「おう、起きたか」
男の声に、シンはそちらを見やった。ダオレン、一座の座長だ。昔、東都に来た一座の座長も、きっとこの男の遥か何代も前だが、その名を名乗っていた。刃、という名を。
「どうした、寝付けねぇか? 顔色が悪いぜ」
「いや、少し悪い夢をみただけだ」
応えて、シンはその横に座る。初めほどの勢いはないが、火はやわらかにこちらの体を温める。夕日に似た火の色に、隣の男の、髭が伸びかけた頬が照らされている。
「どんな?」
その問いにシンは首を振る。
「殆ど覚えていない」
そうか、とダオレンは火の中に新たな薪を放りこんで、火の根を起こした。そして、小さな器をこちらに寄こして、頷く。
「飲むといいや」
微かな酒の匂い。薄酒だろうか。シンも躊躇わずそれを受け取った。
「ありがとう。座長は、眠らなくていいのか。明日もあるだろう」
「おれぁ昼間荷箱の間でけっこう寝てたんだよ。それに、獣が来たら、追わねぇとな」
かっかと笑って、ダオレンはこちらの器に酒をついだ。
「異国にくると、大抵変わった夢を見るもんだ。――俺達は、ずっと旅のし通しだからな。俺はもう慣れちまったが、小さいやつらはまだ時々、これは夢かと尋ねてくるよ。故郷にいて親といる夢なんざ見た日にゃ、こっちのほうが夢のようなもんだ」
含むように注がれたものを飲み、シンは小さく息をついた。
「そうかもしれん。……俺はまだ時々、今自分がいるのが夢か現か、わからなくなるときがある」
それに応えて、ダオレンは笑う。
「現実生きる時は、これきりしかねぇ命だ、当人の好きに生きるのがいい。夢だと思ったら、それこそ自由だ。好きにやるのが一番だ。おれぁそうしているぜ」
笑い声に、酒に、火の温かさに、僅かにも強張っていた心が緩む。
「東にいたころに、この一座の西の舞を見たことがある」
そう言うと、ダオレンは、ほっと小さく、驚いた声をあげた。
「『白獣娘々』か。娘役と男役の剣舞でな、娘役は長槍、男役は剣で舞うんだよ。今の、男役は俺がやってる。兄ちゃんが見たのは、数代前のだろう」
「ああ、おそらく」
「そうだろうなぁ。幻獣種の人間に会うと面白いんだ、遥か昔の舞と、今の舞が比べられる」
ダオレンが自らの器に酒を注ごうとして、シンはさきに瓶子を取った。器に酒を注ぎ返し、笑んで返す。
「変わらぬものもあり、変わるものもある。変わっていると思っても、変わらぬものがあるのが、また面白い」
「長生きしたときの楽しみ、ってわけだな。って、おお、そういや」
注がれた酒に少しだけ口をつけ、ダオレンは器を下ろす。
「変わったって言やぁ、神獣様だ。今回のお召しはな、新しい白虎様に会うためのもんなんだよ。今あるのは先代様の舞だしな、新たな舞を作らねぇと。そうすると、『白獣娘々』も、次には見られねぇかもなぁ」
俺の仕事が減る、とダオレンは酒をぐいと飲み干した。
「そうか、それは惜しいな。あれはよく出来ていた。貴公のも見てみたいが」
「そう言ってもらえりゃ嬉しいね。おし、じゃあ、いっちょ舞ってみっか」
膝を押して、ダオレンが立ち上がる。少し離れて、剣は持ったふりで、どん、と踏み出す。シンはその姿に、昔東都で見たその舞を思い出す。娘役の舞は軽やかに、男役の舞は雄々しく鋭く。互いに離れて寄って、白い衣の男女が武器を手に舞う。
「剣を貸そうか」
声をかけ、シンは携えていた剣を差し出した。
「おい、こりゃあ上等なもんだな」
「何、舞の間だけだ」
応えやると、ダオレンは、では、とぴしりと姿勢を正して舞い始めた。ぼんやりとした炎の灯りに、夙風がその青白い刀身を光らせる。先代の白虎は男神だった。代々の王に仕え、国に仕え、揺るがぬ意思を持っていたあの神獣に、何がその心を揺るがしたのだろう。何が彼の獣を死に追いやったのか。
「おっと」
ふっと、意識を戻すと、ダオレンが姿勢を崩していた。平らに見えたが、石が出ていたらしい。がらん、と音を立てて剣が転がる。
「悪い、傷はないと思うが」
急いで拾いあげ、ダオレンはこちらに剣を返した。
「構わん、それくらいで傷はつかん。見事な舞だった。……待て、腕を」
見てやると、ダオレンの手の甲が少しばかり切れていた。見れば、刃にも薄く血がついている。刀身のを指で拭い、シンは剣を収めてその傷をみやる。ダオレンはうっすらと浮いた血をさっと拭いて笑う。
「こんなもん、すぐ治らぁ。朝にはかさぶたになってるぜ」
シンがほっと息をつくと、不意にめまいに襲われた。眠気にも似た、重みのあるよろめき。
「少し、酒にあたったかな。すまない、休む」
言うと、ダオレンはおう、と応えて笑う。
「ゆっくり休んでくれ。道で疲れたら、気兼ねなく寝てくれて構わんぞ。ちびたちがいて、うるさいかもしれねぇが」
礼を言って、シンはもとの寝床に戻る。剣が疼くように騒いでいる。目の前が重い。それでも、眠れぬよりはいいか。シンは横になると、そっと目を伏せた。