河伯の渡
「あまり変わらんようだな、冰夷」
そう声をかけ、シンも水妖の下へと寄る。対して、船頭と、ダオレンまでが数歩その場から退いた。ファンはその場に留まったが、シンがそこにいるからこそだ。青年も水妖の傍らに平然と立っている。
馬が高く嘶いて、飛び上がるように地面を強く叩いた。馬は水妖に怯えているようだった。一座の若者が、どうどう、と馬を軽く叩いて落ち着かせている。集中せずとも、水妖の気がぞくりを背筋を撫でる。魔、というわけではないが、威圧感のある空気だ。シンの言葉にやや首を傾げながらも、水妖が口を開く。
「それは俺の名前か。呼ばれんから忘れた。ずっと同じことの繰り返しだ、変わるわけがねぇだろう」
河原の砂利の上に大きな体を横たえ、水妖は応えた。若い男の上体がだるそうに腕を組む。水妖が動くと、辺りには魚のようなにおいが漂う。悠久の時を生きる水妖は、青白く鋭い爪で頬を掻き、続ける。
「この餓鬼の取りなし程度で、罪が許されるのかと思ったが、てめぇが来たってことはそうか」
水妖はちらりとシンの腰のものへと視線をやった。
「やっと俺を殺しに来たか、龍。元々、てめぇはそうしたがっていた」
静かな言葉に、青年が驚いたように水妖の体に触れる。ファンも同じように、シンの表情を窺う。その眼はまっすぐに、見定めるように水妖に据わっている。大赦がもたらされた水妖は、このシンが殺めようと思うほどの罪業を負っていたというのか。水妖はそう言いながらも、落ち着き払っていた。僅かに沈黙があって、ようやくシンはゆるりと首を振り、応えた。青年が何か言おうと口を開いたときだった。
「四方すべてが許したなら、それが俺の答えでもある。世の意はその許状の通り、他意はない」
「何を罪と取るかすら、俺はわからんままだぞ。それでもか」
続く水妖の問いに今度は頷く。
「お前の為に、人の子が命を賭けて許しを得に来た。充分だろう」
シンの応えに、青年の顔が明るくなった。そして、言葉のない河伯の代わりに何度も礼を繰り返した。シンは幾分か表情を緩め、河の方を指した。
「向こう岸に渡りたいんだが、手はないか」
問いに、水妖は自らの手を見つめて、ぐっと立ち上がった。見あげるような青磁色の体は、上ってきた朝日に照らされて、つやつやと光る。鱗一枚一枚が、翡翠の細工のようだ。
「俺が本当に許されたなら、渡るのに舟は要らん。河を止めてやる。歩いて行け」
「それはいい、馬も渡るに容易いな」
ファンは、この河を、と小さく呟く。海の近い河はまるで、陸の果てのように広く、対岸は遠い。それを事もなげに止める、と言って見せた水妖は、先ほどまでの威圧的な気も多少和らいだように感じる。
「ダオレン! 渡れるようにしてくれるそうだ、支度を――」
おう、といつのまにか荷馬車まで下がっていたダオレンが声をあげる。馬も今は落ち着いているようだ。
「ちょっと待った!」
水妖とシンの間に、中年の船頭が割って入る。手が震えているから、まだ水妖が怖いのだろう。水妖が許された、と聞こえた時、その男の顔が蒼白になるのをファンはしっかりと見ていた。とはいえ、男は舟の櫂を突っ張って立ち、声を震わせて怒鳴っている。
「こちとら渡しの仕事で、お飯食ってんだ、そう勝手なことをされちゃ堪らないね! 自由になったってんなら賃金やるから、河伯、あんたはこれまで通り、働いてくれなくちゃ……」
「俺にてめぇらの金など何の価値もない」
水妖の応えに男は口ごもる。そこにジピンが進み出て、船頭に対して諭すように笑みを浮かべた。
「船頭さん、あなたの仕事はこれまでずっとおじちゃんの罪を利用してきただけでしょう。ひとの償いをお金にするのは、よくないことです。ここが潮時ですよ」
優しいが毅然とした声。それでも、船頭は食い下がる。相手が青年だからだろうか。
「じゃあ、これまでの舟の維持費を出してもらおうか。ずっとこの船を守って――」
「守る? この船をか?」
船頭の言葉に、水妖が鋭い犬歯を見せて哄笑した。水妖の笑いは不機嫌に凄むより圧倒される。
「この船は、北の王が術をかけて贖いの為に充てた舟だ。放っておいたところで、壊れん。逆を言えば……見ていろ」
水妖が大船を示す。ぎし、と初め小さかった軋む音が次第に舟全体を包んで、悲鳴のような大きな音に変わる。水妖が役を終えたから、舟も役目を終えたのだ。たちまちに舟は木切れの山になると、船頭はがくりと膝を折った。
「そんな……これじゃあ、仕事は」
「西王様は、ここに橋をかけるおつもりです。どんな流れにも持っていかれない強い橋を。ここの通りが確かになれば、もっともっと国は富む。誰かの犠牲で食わなくてもいいように」
青年は優しく微笑み、水妖を振り仰ぐ。
「でも、この流れに橋をかけるのは大変だよ。だから、おじちゃん。ここに人が橋を渡す間、湍水を宥めているのが西王様が出した大赦の条件」
その言葉に、水妖はぷい、とそっぽを向いた。
「もう許されたんだろう。なら、俺がそれを聞く義理はない」
「困ったな。じゃあ、僕はそれをまた西王様に伝えにいかなくちゃ」
青年がそういうと、水妖はぶすっとした顔で青年を見下ろす。そして、ため息をついて、苦々しげにいう。
「舟を引くよりはましだ」
一同は頬を緩め、頷いた。見れば、向こう岸に渡ろうという旅人が、かなり集まってきている。河伯の姿にこちらに寄ってはこないが、舟が無くなっているのをみたせいか、どことなく不安げに見える。
水妖は川辺に進み出て、その水かきのついた手を湍水へと向けた。海へ向かって流れていた水が平らぐと、次にはもう水は壁となり、対岸へと続く川底の道になった。水に逃げそこなった魚が、砂の上で跳ねている。大きな岩が所々顔を出していて、小舟の残骸やかつての家々がそれにひっかかっていた。水妖は言う。
「行け。さっさと渡らんと、歩いている間に水を戻すぞ」
ジピンが旅人達の方へ歩いて行って、進むように声をかける。ファンも一座の方に振り返って、その道を指差してみせる。向こうで、ダオレンがわかった、と合図するのが見えた。
青く深い湍水の水が、陽に照らされてきらきら輝く。底の砂も鉄があるのか黒々と、つやめいている。きっと、ここにかかる橋は立派なものになるだろう。いつかまた、見ることができたら、とファンは思った。
人々が恐る恐る道を行き、支度の出来た一座の荷馬車ががらがら音を立てて、河原を進んでくる。子供たちは大人の影に隠れながら、じっと水妖の姿を見ている。それに気付いた水妖がそちらを見やると、子供たちはわっと叫んで隠れたが、しばらくするとまた顔を出す。足を引きながら、青年は水妖の横でそれを楽しそうに眺めていた。
「では、俺達も行こう」
シンが歩み出して、ファンもそれに続く。
「おい、龍」
水妖の声に足を止め、振り返る。
「さすがの龍も、牙が抜けたか」
その言葉に、シンは微かに笑み、短く応えた。
「互いにな」
シンが再び歩き出す。ファンは後ろを振り返り、ジピンや水妖に手を振りながら、硬く締まった湍水の底を、対岸へと進んだ。