雲海座(1)
荷船の舳先が水面を叩き、波は白く砕ける。飛沫がはぜると、舟の中央に寄せられた子供たちの歓声が上がった。じっとしているように言われた子供たちは、場所こそ動かなかったが時々飛びあがっては、船頭や他の大人たちをひやひやさせたのだった。
舟は急流を跳ねるように下る。遠くなった金環山より続く峰は滲むように遠くなり、陽山の煙は薄く遥か彼方でたなびく。対して、近影は風のように後ろへと流れていき、初めこそ細かった湍水の川幅は下るにつれ、徐々に広がっていった。目の前が少し開けると、ただ白く輝いていた海がその色味を増して現れた。
今は、早船の乗り場で雲海座という旅の芸能一座と乗り合わせ、下流にある河伯の渡とそこにある町に向かっている途中だ。舟は街道と共に、海へ向かって西に進む。荷船にはシンとファン、ばらばらにたたまれた荷馬車と中の荷物、一座の子供と女性、そして、あの座長の男が乗っている。一座の若い男たちの数人が、車を引いていた馬に乗り、急ぎ足に同じ目的地に向かっていて、後で落ちあうのだという。この速さなら馬よりも先に、舟が下へ着くだろう。
「にいちゃ! にいちゃはなんのじゅうじん?」
気持ち良さそうに涼風にあたっていたシンに、一座の子供がすがって言う。小屋でのシンの様子を見た子なのだろう。シンはその子の頭を撫でてやって、微笑んで返す。
「蛟というんだが、わかるかな。龍の仲間だ」
子供はきょとんとして、シンの顔を見返したが、しばしして腕を掴んでいた手を離して、わかんね! と一言言い、行ってしまった。それに次いで他の子が言う。
「ダオレンはね、おおかみなんだって。だから、けものにおそわれないんだって」
「ダオレン?」
問うと、艫の方に座っていた男がちょいと手を上げて見せる。
「ダオレンってのは俺さ。一座の座長は代々、ダオレンを名乗る。俺は狼の獣人だから、ラン・ダオレンってわけだ。よろしくな」
それに応えて、シンとファンも名乗る。それを復唱すると、覚えたぞ、と男はにっと笑った。ちょっとして、あの小さい子の代わりにそれより年長の男の子がシンのもとへやってきて言う。
「おれ、龍ならわかるぞ! 強くて、でかいんだ。国に吹いていた風が、龍になったんだって。青の国は、青い竜が守っているんだぞ!」
「よく知っているな」
シンの答えに、子供は胸を張る。
「だって、おれ、東から来たんだぜ! 北の一番でっかい町の」
「とすると、塁杏か。遠いところだな」
応えると、他の子供たちが口ぐちに自分の出自を口にする。南の方の子もいれば、北の子もいる。子供も大人も多いが、同じ所から来た者というのはあまりいない。
「ぼく、どこで生まれたか知らないよ」
俯いて涙声の子供に、ファンと同じくらいの少女が言う。
「そんなの気にしないの。あたしだって知らなかったけど、素養が猫だったから西だろうって。ね、だから、あたしたちが生まれたのは、この一座。この一座に居場所があればいいの」
その言葉に、さっきまで得意げに自分の国を話していた子供たちが、ずるい、と言い始める。自分たちも、この一座で生まれたことにしてほしい、と言って、その少女に詰めよった。少女ははいはい、とその言葉をいなして続ける。
「今、どこにいるかだけわかればいいでしょ。みーんな、一座の子。いい?」
「うん!」
子供たちは揃えて返事をする。
「おれ、みんな兄弟なのかと思った」
ファンが言うと、ダオレン、と名のったあの男が笑う。
「いいや、みんな兄弟さ。ただ、腹や種が違うだけでな。俺の家族だ」
なぁ、と子供たちに問うと、皆揃ってそれに頷く。小首を傾げるファンに、男の横に座る女性が言う。真珠の耳飾りをした、綺麗な人だ。
「この人ね、親を亡くしたり、居場所のないような子見ると、黙ってられないのよ。それで、気が付いたらこう。いつだったかなんて、奉公先でいじめられた女の子を見て、そこの御主人殴っちゃって」
ふふふ、とささめくようにその女性は笑う。それに対して、うるせぇ、とそっぽを向いて、男は言う。
「好きなように生きたほうが良いに決まってるじゃねぇか」
「好きなようにって、半ばさらっていったようなものじゃない」
けっ、と首のかぎりに男は顔を逸らした。でも、と女性は続ける。
「今、“その子”は幸せだと思ってるわ。今の私があるのは、この一座のおかげ」
「そりゃあ俺が座長だからな」
ぶっきらぼうにそう応えた男の顔は向こうを向いていても、照れたように赤いのがわかった。家族だ、と何のためらいもなく笑ったこの男のおかげで、救われたからこそ一座の子供たちに何の影もないのだろう。家族、と呟くと、シンが応えていう。
「善いことだな」
ファンもそれに頷き、微笑む。
「そうですね。本当に」
下り始めてしばらく、日が海に向かって傾き始めた頃、町の影が見え始めた。途中、傾いだ大岩の横を抜ける時に、船頭が岩を示して、河伯の寝床だ、と言った。ということは、渡はもう近いのだろう。河は下流まで来たおかげか随分緩やかに見える。これなら河の渡もそう難しくないのではなかろうか。
だが、問うと船頭は首を振った。
「ゆるやかに見えて、水面から下は殆ど渦みたいな流れなんだよ。この下りだって、俺達は途中の岩にぶつからないようにちょいと調節しているだけさ。大きく繰れば、下手をすると途中の段差に舟が壊れてしまうんだよ」
再び、ぐい、と水に棹をさして、船頭は言う。
「だから、この河を渡せるのは、あの水妖だけなのさ。さぁ、そろそろ着くぞ、河伯の機嫌がいいといいねぇ」
「機嫌が悪いことがあるんですか?」
問うと、船頭は近頃しょっちゅうさ、と応えて苦笑する。
「なんでも、傍にいた人がどっかに行ったとかでね。おっかない妖獣だよ、逃げたのかもねぇ」
それを聞いて、ファンはシンの方を見やった。シンが頷く。
「問題ない。きっと、今日の機嫌は良いだろう」
船頭は不思議そうに首を傾げた。しばらくして、町がはっきりと見えて、川岸に大きな船がいくつも見えた。ここが河伯の渡だろうか。ついたぞ、という声に、ファンは荷物を持ち上げた。