風に染まる
家々から漏れる火の灯りがいよいよ明るくなってきて、遠く沈んだ陽の赤みは山河の群青に溶けていく。山の影に隠れていた月が顔を出すと、今度はそれが足元を照らしてくれた。ファンはとりあえず、と町の中央に出たあと今度は外壁沿いに歩く。滝の音が微かな水気と連れだって、町の中まで届いている。この先は、町でも一番滝に近い方だ。
暗がりに目を凝らすと、月光を呑みこんで僅かに発光する滝の前、立ち尽くしそれを見あげる者がいた。
「ジピンさん!」
声をかけると、青年は振り返り、柔らかく笑んだ。
「君は、さっきの。どうしました?」
「お荷物を預かったままで。もしかしたら、何か買うかもって思ったんです」
「ああ、そういうわけではなかったんだけれど。君には悪いことをしてしまったね」
荷物を返すと、青年は右肩にそれを背負った。
「この町はね、僕が生まれた町なんだ」
青年は懐かしげに滝を見あげる。
「家もこの近くにあって、夜はいつも滝の音を聴いていたよ」
「あ、じゃあ、御家族の方が」
そう言いかけると、青年はどこか済まなそうに視線を落とす。
「僕は、贄子だったんだ。凶荒の時に、湍水は荒れてね。僕は湍水へ投げられて、町もすぐに。さっき、聞いたら両親もその時だったらしくて」
宿へ行こう、と言った青年に、ファンは黙って頷いた。青年は問う。
「君はこの町がどう見える?」
「これまでの村に比べて、きれいだなって。家はどれも新しくて」
ファンの答えに青年は頷いた。
「そう。ここはもう新しい町だよ。あの時から立ち直ろうとするこの町は僕の知らない町で、あの時から生き残った僕をこの町は知らないんだ。ただ、変わらないのは湍水の、この滝の音だけ」
少年の足に合わせて、ファンはゆっくりと隣についている。日暮れたばかりの町はまだ人の声で賑やかだが、青年の探す声はなかったのだろう。滝を見あげていたあの顔がどことなく悲しげだったのは、そのせいだったのだ。
「西は、そんなに酷かったんですか?」
青年はその問いに答えない代わりに、静かに尋ね返す。
「君は、どこまで旅を?」
「ずっと、中つ国を一回りするんです。今は、西都に向かっています」
「それなら、僕の話を聞くよりも、実際にこの国を見る方がいい。僕は小さかったし、凶荒と共に育ったから、あの時もそう苦しいと思わなかったんだ」
宿の灯りが見えてきて、付き添わせてしまったね、と彼は詫びた。
「僕も、四方を巡って、ようやく西の国の惨状がわかった。でも、運が悪ければどこだって荷物を取られるし、雨にぬれなきゃならないよ。だから、きっとそこがどこで何が起こっているかは、あまり関係がないんだ。自分の有り様をそこでどうするかが大事なんだよ」
擦るように踏み出される左足は、決して速くない。でも、確かに地を踏みしめて、前へと進んでいる。彼自身の意志と、この国と同じように。
「君は東から来たって言ったね。優しくて、生き生きとしていて、君はあの国の風に似ているよ。……三年もかかってしまったけど、僕はやっぱりこの国に戻ってこれて、ほっとしてる。空気も人も、どこかなじみ深くて。それは僕がこの国の風を受けているからなんだね」
青年はにこりと笑う。その笑顔の向こうには強さが見て取れる。苦しさが解らなかったのではなくて、それを拒むことなく受け入れてきたから、こういう笑みを持てるのだ。不条理も何も許してきたから、優しい人になったのだ。
「強いんですね、ジピンさんは」
尊敬と感嘆を込めて、ファンは呟く。ファンより五つかそこら年上の、この若者が今までに見た千年を生きる人のように思えたのだった。そして、長寿の彼らと同じように、それを何でもないように言う。首を振って、困ったように笑って。
「まさか。人より鈍くて呑気なだけだよ」
宿に入ると、ファンを待っていた宿の主人が部屋の場所を教えてくれた。楼の上階、隅だ。青年は帳面をつけに行って、一階に部屋を取ったようだった。シンは部屋にいるらしく、宿の主人に、その人に湯屋はもう使えると伝えて欲しいと頼まれた。
階段を上がる途中、部屋に向かう途中の青年と会った。
「そういえば、君の名前を聞いてなかった。お兄さんにも」
「ファンと言います、一緒だったのは師匠です」
応えると、青年は、そうか、師匠か、と笑んだ。
「さっき、ふっとあのお兄さん、おじちゃんに似てるなと思ったんだ」
おやすみ、と言って、青年は扉の向こうに消えた。慌てて、挨拶を返したけれど、質問はできずじまいだった。
部屋に戻ると、シンは雨戸をあけて外を眺めていた。虫の声と滝の音がまた近く聞こえる。外は大分明るい、月を見ていたのだろうか。
「今戻りました、師匠」
ああ、と応えて、師匠は振り返る。
「西は、それでも、立ち直り始めているようだな」
同じ意味であるのに、ファンはその言葉にあの青年のそれとの微かな違和を感じた。だから、彼は見て回る方が早い、と言ったのかもしれなかった。寝台の上に腰かけて、ファンは青年のした話を、シンに話す。
「そうか、彼が」
シンは、成程、といった様子で相槌を打った。
「似ている、と言ったのは、わからんでもない」
微苦笑するシンは、あの青年の言った“おじちゃん”を知っているらしかった。その人は、大赦の渡る先の、咎の人と同じ人だろうか。なら、似ている、と言われて得心がいったのは、何についてのことなのだろう。判じかねていると、今度はシンの方から話の口をきる。
「さっきな、宿の主人に、周りがこう険しい道では大変だろう、と言ったんだ。それに主人は、この地域の人間は岩にしがみつく苔のようなものですから、と答えた」
シンは苦笑を深める。
「俺は、しまった、と思ったよ。でも、それはただの自嘲ではなかったんだな。あの凶荒を耐えて、ここで生きているんだ。国を愛する、強い民だ。国と共に生きて、固い“かね”のような心を持った民だ。外を見ていて、まさしくそうだった白虎と白の初めの王を思い出した」
ファンは、シンのその言葉の裏に潜む微かな自責を感じた。きっとこの師なら、国が倒れるとなれば、そこに住む民に躊躇いなく余所へ逃げろというだろう。国や自分に巻き込まれて、民が死ぬのには耐えられないと。しかし、ここで見たのは、国が民を思うように民が国を思う姿だったのだ。国の主に、そこに吹く風に民は染まる。
「なら、そうです。ジピンさんは、東の地は優しくて、生き生きとしてたって言ってました。そこで育ったおれも。きっと師匠や、初めの王様がそうだからなんですね」
ファンはシンをしかと見据えて、言う。だから、先生は四方から東の地を選んで、自分を連れだしたのだろう。
シンの笑みから自嘲が消えて、優しいものに変わる。ありがとうな、とシンはファンの頭に手を乗せた。
「そうだといい。俺もそうであればと願う」
間違いなくそうだろう、とファンは師の、東の守護の顔を見て思う。そうして、ファンは静かに頷いた。