紫眼の咎め
水の向こうで閉まった扉を見て、シンは重く息をついた。水面に映る御柱はゆらりと揺れて、その輝きを辺りに散らしている。万も昔のこととはいえ、御柱のことはおおよそ解っている。日に数度の湖上の道も、扉を開ける御柱の者のことも。遥か昔に、初代の王たちと他の神獣と見えた日のことも、鮮明に思い出せる。なのに、何故だろう、あの時自分が何を話したのか露とも憶えていないのだ。木王と――東の初めの王たる乙女と、自分は何を語り、戦いに赴いたのか。どんな思いでそこにいたのかも。
青龍の座と力を与えられた時、最もふさわしいと選びだしたのが天で、もっとも力をやるのを躊躇ったのが天だった。無理もない。四方の獣は往々にして荒神だったが、話もできぬほどに他を排した自分を、善き王と並びたてようというのだ。四凶ですら獄に封じたような龍を、神獣へと引きたてようとしたのだから、並大抵ではない。己のことながら、半ば賭けだったのではないかと思う。
何人も近寄らせなかったし、何人も近寄ろうとしなかった。只一人、後に木王となる娘を除いては。何もかもが懐かしい。懐かしい。思い出そうとすると胸を灼くほどに、記憶は遠く、光景だけが鮮やかに脳裏によぎる。ただ前を見て進めと残された言葉を、振り返り振りかえり何度も思い出している。この身の矛盾にシンは苦笑した。
シンは水辺から離れ、近くの草地に腰を下ろした。丁度よく突き出た岩に背を預け、御柱を見あげる。中に入れぬ理由を考えたが、いくつか思いついてどれとも付きかねた。
東の地の健全なるを願うなら、これ以上、土地が弱る前に天に故を問わねばならない。入れぬのならば、なおさらに話を聞いてもらわなければ。どの道、こうして天が拒むような獣は、四神に収めておいてはならぬ。
「やはり、俺では駄目なのだろうな。天よ」
上を見あげて独りごちる。御柱は黙し、風だけが耳朶を撫でて過ぎていった。
湖上の道は、一日に数度現れるが、その時期は日によってずれがある。それは自然がなせるものなのか、天が意図して出すのかは知れないが、数刻もして次に道が現れるころには、おそらく巡礼の列も帰ってくるだろう。
ファンはその列に混じって回っているだろう。御柱とはいえ獣堕が出たことを思えば、目を放すことに多少の躊躇いはある。だが、十五年前のその一件を除けば、御柱の社は不可侵の神域、滅多なこともないはずだ。あの頃は西の荒れが特に激しく、中つ国一円に力が澱んでいたから、中の獣堕はそのせいなのだと思う。
そして、ファンには言えないが――おそらくその事象も天が許容したのだろう。中は天に許された事柄しか起きない。父母の死も、ファンの誕生も、すべてが天の意の中にあるのだ。天が望み、その意が適えられなかったことはない。万と続く中つ国の発展も、きっとそうなのだろうとシンは思ってきた。
不測の事などいつの時代だって起きる。ならば、自分は天の大枠に沿うように、最良の選択をすべきなのだ。
「――穢れた身で天に近づこうとは、随分と弁えを失くしたようですね。青龍」
突然に掛けられた声に、シンは声の出所を探して辺りを見回した。常に何かを咎めるような厳しい声音、発した本人のその性質がよく出た声は、旧知の男のものだ。目をやれば、道もなしに湖上を歩き切った人物。呆れた様子で押さえた額の中央、その手の下には他の者と同じ双眸の他に、もう一つの目が開いていた。
「白澤か、直に会うのは初めてだな。結界を開けてきたのか」
「自分が通るくらいなら造作もないこと。……会えたはずもないでしょう。四獣は外を出ぬのが決まりです。何をしに来たのですか」
男はそう淡々と応え、額の手を放した。紫水晶のような瞳がこちらを見定めるようにじろりと動く。白澤は白と藤の上衣下裳の上に、副神官長を示す衣を羽織っていた。裳の上に身につけられた蔽膝には多くの角と目を持つ四足の獣が描かれている。この世の生物を全て知るといわれる、幻獣白澤。森羅万象に通ずる知識を持ち病魔を払うとされたそれの、化生として生まれたのが目の前の男だ。
「天に用があって来たのだが、弾かれた。弾いたのはお前ではないんだろう?」
後ろに撫でつけられた短髪の、その下の目が再びこちらを睨む。眼鏡をかけた揃いの目でも同じようにこちらを見て、白澤はため息をついた。
「確かに私ではありませんが、ならば、理由などその身に聞けばわかるのでは。死の穢れを負わぬ者などいませんが、貴兄の穢は他の比にならない」
座るシンを見下ろして、白澤は言う。人は必ず生きていれば、誰かの死に立ちあう。しかし、それが己の業によるものだったとき、死の穢はその身に沁みついて、魂を汚すのだ。穢が強まれば、その魂は獄へと曳かれゆく。この身の穢はそれだけあるはずだ。
「最初の王を死なせたのは、貴兄だけです、青龍」
覚えている。深手を負って、腕の中で冷えゆく細い体。雨音に紛れた最期の言葉。
「ああ、そうだ。天の選んだ“最善”を、俺は死なせた。それが理由なら、こちらとて解っている。だから、来たのだ」
最初の務めを全うできなかったのは、自分だけだ。初めの王達は天の泰平を具現するための存在で、戦いでそれを失わないようにするのが、あの戦いでの四獣の役割だった。確かに四方いずれも無事では済まなかったが、大戦の後に王を残せなかったのは東だけだ。
「だから、とはどういうことです。知っているなら来られるはずがありません。貴兄の役目は東の地を護り、天の意を具現させることなのですから」
「……てっきりお前は知っているものだと思ったが。ここ数年、東の力の巡りがおかしいのだ。天に言いつけられた役を全うできなくなったから、俺はその役を返上しに来たのだ。他にいくつか用もあったが、東を離れたのはその為だ」
その答えに、白澤の顔色が変わる。
「愚かなことを!」
荒げるわけでないがきつい調子で、白澤はそう吐いた。
「その身がどうだろうと天は貴兄を選び、その役を与えたのでしょう。それを投げようなど、不遜極まりない。業が元ならとうに天は貴兄を見離しているはず。今、変異があるとすれば、そのようなことを惟う貴兄の懦弱故だ」
それも然り、とシンはただ黙し応えた。しかし、と間をおいてシンは問う。
「不徳も承知の上だ、白澤。……ただ、一つ問いたいことがあったのだ。天ならご存知のことだろう」
「まだ、何を言うのです」
怪訝そうに、こちらを窺う三眼。
「陛下は――今上の我が君は、何者だ。俺が守れなかった初めの王と同じ顔をして、何も知らぬあの娘は」
今上が現れなければ、こうも自ら昔をえぐることもなかっただろう。偶然というには難い。由なしとは思えなかったのだ。