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四神獣記  作者: かふぇいん
黄の地、御柱の章
133/199

獏(2)

 暫時消えた幻は、剣の明滅で再び現れた。赤子の自分を抱き寄せて俯く先生は、小さく息を詰まらせ、ぱたぱたと涙をこぼした。

『これが伝えられずに、何が夢食いと……』

 先生は途切れた言葉を、(むせ)びにして吐き出す。

『これをどうやって伝えろというのです、こんなに強く大きな愛情を……!』

 感動と後悔と、自らに対する憤りを両眼からあふれさせ、先生は崩れるように座り込んだ。

『この子に本当に必要なものを、私は伝えてやれない』

 今ようやく聞くことのできた父母の言葉。本質は言葉ではなくそこに乗せられたものだと、今なら自分にもわかる。それに言葉を伝えることはこの場面を伝えることに他ならないから、先生は今までずっと黙っていたのだ。

 眠っていたようだった赤子がふいにぐずりだし、先生は立ち上がった。赤子を羽織でくるみ、顔を上げる。

『ともかく、早く上に戻らなければ。ここでは産湯も何もない。彼らも……』

 先生は出口に向かうのか、こちらに向かって歩いてくる。唇を真一文字に結び、真剣なまなざしの先生は、剣の前でぴた、と足を止める。まるで息も時も止まったかのような一瞬、すべてが動き出して先生は大きく息を突いた。

『――何をなさろうというのです。この子はもう、充分に酷な宿世を負ったではありませんか』

 まるで身の内に語るかのように、先生は何かに向かって応える。

『天の、御意のままにありましょう。もとより、それは彼の親の願いなのですから』

 先生は、冷えぬように布の内へと赤子を抱き直す。

『この社に入りてより数千年、主命を賜り、世をはかり、この国の夢を()てきました。この身が世の為になるのなら、喜ばしいこと』

 先生は語調を強め、悲痛を帯びた声で続ける。

『しかし、私はもう耐えられません。千万(ちよろず)に人の命はありましたが、命は星や真砂(まさご)と違います。全てがその身に多くの思いを抱えた、私と同じ人間です。私とてどれほど生きようと、思い惑う一人の人間に過ぎないのです』

 いえ、と先生は(かぶり)を振る。

『ただ一つの約束すら守れず、ただ一つの想いすら届けられぬような、何にも及ばぬ人間だったのです。来し方を知り、行く末を読んでも、目下を救えぬのなら、この力に意味などないでしょう。生まれ持ったこの獣性(じゅうしょう)に、今はただ、座ばかりが高い』

 こぉん、と再び神剣は鳴る。それは咎めたのか、認めたのか、答えるように明滅した。先生は続ける。

『その身に必ず(めい)を負うのが人なら、ひたすらにそれを全うしましょう。それこそが仕合せであって、幸せとなるのですから。――私のすべきことはここにはありません。この小さな(いのち)の負った定めを、全うできるように尽くすこと。それが私の、新たな使命です』

 澄んだ音が金色の光を連れて社に響きわたった。先生は赤子を抱いて、こちらに向かって真っすぐ進みだす。幻の体が、ファンを通り抜けていく。先生に抱かれた過去の自分と、すべてを知った今の自分とが交錯する。足音が背後になって、“過去”がはじけるように泣きだした。振り返ると、先生の驚く顔があった。

『どうして、この記憶を持って……これは辛い夢になる』

 先生は赤子の額と自らの額を合わせて、静かに何か呟く。

『どうか健やかに。せめてこの約束は守りたい。大丈夫。その心に闇を巣食わせはしない。大丈夫。――あなたは必ず、私が守ります』

 先生の顔には覚悟があった。ファンが今まで見てきたものと同じ、厳しくも優しい、敬愛する育て親の顔だった。

 先生は壁に触れて、扉を開く。幻が消えると、剣はその光を収めて静かになった。そこから走る一筋の光が先生の消えた壁に走り、扉を開いた。戻れ、ということなのだろう。昇降部屋に入ると、微かな浮遊感が体を包んだ。

再び扉が開くとそこは初めの部屋だった。今日の巡礼は終わってしまったのだろうか、巡礼者も案内の金烏玉兎の姿もない。足を踏み出すと、足元から進み出た金の光が、下の社と同じように入り口のあるべき壁にぶつかって、扉を開いた。外はまだ明るく、陽の光は眼を灼くように眩しい。目が慣れると、ちょうど道が現れていた。どのくらい中にいたのだろう。随分と師を待たせてしまったはずだ、きっとかなり心配させたに違いない。ファンは駆けだす。

『すみませんね。……少し空けます。間、よろしく頼みます。白澤(はくたく)

 先生の声。神官長の部屋を出る時と同じ言葉だ。旅支度の先生と、産着を着せられた赤子の自分。十五年前のその日。声を掛けられたその人は何と応えたのだろう。

『さぁ、行きましょう、ファン』

 幻の声に頷き、それと共にファンは外に出る。自分に与えられたものを再び取り戻して、しっかりと胸に抱く。この身は今、何よりも確か。陽に照らされて煌めく道を、ファンはまっすぐに駆けだした。


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