狂気と
ファンは後ずさり、ぶつかった柱に持たれて座り込んだ。男の下の血だまりは広がり、すべての音が消えた。誰か、とすがるように呟いたが、それがどこにも届くものでないのはわかっている。
「助けて……」
この場の誰をでも。発した声は闇の中に吸い込まれて、溶けてしまうだろう。あの少年は何か行動を求めていたが、今は立ち上がれる気もしなかった。
ふと、微動だにしなかった男の体が動いた気がして、ファンは再びそれを凝視した。見れば、血だまりから立ち上る黒い霧。周りの闇よりさらに濃く、霧は男の体を覆っていった。
『どうして、俺はここで死ななきゃならない? どうして、リリがこんな目に遭わなきゃならない? 俺は、リリは、何のために……何故だ! 何故だ!』
男の声。霧の色と同じになった血が、時間を遡るように再び男の体へと集まっていく。それがすべて収まってしまうと、倒れ伏す男から鼓動の音が聞こえた。
男は床に手をつき、ゆっくりとその体を起こす。
『選ばれた……? 腹の子が、天地に? 子が選ばれた、そのためだけに俺は、リリは死ぬのか? 死にたくない、まだ死にたくない……死ぬのか。なら』
立ち上がった男の腹から傷が消え、怨嗟と憤怒と、狂気に満ちた目で男はこちらを睨んだ。今まで、ちらとでもこちらを見なかった幻が、今確かにファンを見ている。男はその体に黒い霧を纏わせながらゆっくり歩み寄り、腰の剣を抜き放った。白刃は青い光に照らされて、鈍く輝く。
『俺を死に追いやった、何もかもを壊してやる。天も地も、子供――お前もだ!』
振り上げた剣を見て、幻とはいえファンはとっさに体をずらした。空を切る音と、鈍色に輝く太刀筋。そして、斬撃音。
「え……っ?」
背にしていた柱が音を立てて崩れ、ファンはようやくその異変に気がついた。青白い光を放っていた柱は、破片となって一度強く光るとすぐそれを失って黒い石に変わる。同時に、頬をはしる微かな痛み。触れてみてやっと、斬られていることがわかった。幻と思った声は、目の前の男が確かに発している。
「なぜ避ける。お前はあの時、死ぬべきだったんだ。なぁ?」
柱に食い込んだ剣を引き抜き、男はくつくつと笑った。
「俺達が死んだのに、何故お前が生きてる?」
泣き声にも似た笑い声をあげ、男は狂気に満ちた目でこちらを見つめる。
「お前のせいで、俺達は死んだんだ。親を死に追いやって、お前は生まれた。親を殺した子は、その罪を負って死ぬべきだ。そうだろう?」
床を擦って剣は音を立てる。頬の傷が微かに熱を持って、早鐘のような鼓動に合わせてうずく。男の問いには答えようがなかった。ファン自身が、今まで抱えてきた問いや思いと殆ど変らなかったからだ。今まで見続けてきた悪夢が――母が父を殺し、やがて母も死ぬこの光景と、それを自分のせいだと繰り返された罪悪感こそが、まさにその言葉だったからだ。それでも、体は恐怖によって殆ど本能的に後ろにさがっていた。生きようとして。壊れそうに早い心臓に、呼吸も短く高い音を立てる。
「逃げるな。死ぬ気がないなら……俺が殺してやるからよ」
握り直される剣。じりじり近寄る男の姿に、ファンは小さく頭をふって、いやいやをしてみせる。どういう意味とも定まらないまま、ただ、違うと答えようとした喉は短く、言葉にならない声を発しただけだった。
「う、あ……」
ファンは弾けるように逃げ出した。それを追う足音と、狂気に囚われる男の声が後からついて来る。柱の砕ける音と青白く光る柱のかけら。出口はどこにあるのだろう。背中を走る悪寒に振り返ると、存外に近く寄られていることに気付く。振り抜かれる剣をしゃがみ込んで避け、転がりながら二の太刀を避ける。
「違う、おれ……おれは」
「何が違う! おまえは俺達の命を喰って生まれた子だ」
再び起き上がり駆けだしたが、すぐに壁にぶつかってしまった。広いとはいえ御柱の中、壁があるのも当然だった。首の横につきたてられた剣に、ファンは振り返る。頬に伝うのは、血だろうか。それとも。
「違うと言うなら、答えろ! 俺は何のために生きた! 天だ地だと訳のわからん道理に、こんなに容易くひきつぶされるようなものが、俺の人生だったのか? 何のために死ぬ?」
笑みと泣き顔とが、いびつに組まれた顔で男は訊ねる。
「お前はなぜ生きてる? 何のために? お前の為に俺も、リリも……あいつも死ななきゃいけないのか? 俺達が死んで、お前が生かされる意味はなんだ? 答えろ!」
頬を伝ったものが、顎を伝って床に落ちる。男は首の横に刺した剣を抜き、振りかぶる。
「答えられないなら、お前は――」
振り下ろされる剣に、ファンはぎゅっと目をつぶる。さらり、と吹き込む風のような気を感じて、ファンは目を開けた。自分の意思のまったく外から引き出された青龍の力。竜麟にあたった剣は高い音を立てて砕け、対する男の体を朱雀の紅焔が撫でる。男のたけびに、ファンははっとしてそちらに駆け寄る。駆け寄ったのは、反射的だった。少なくとも、考えたことではない。
男の体に残る火を叩いて消し、ファンはその表情を窺った。気絶しているのか。自分の金の髪や顔つきは、男に似たのだとわかったが、ただ悲しいだけだった。涙が傷に沁みてひりひりとした。
雫が落ちたのか男の目が開き、すぐに組み付されてしまった。男は問う。
「そうか、そうやってお前は守られているのか。俺達を殺した天意とやらに」
ファンはただただ首を振って見せるしかなかった。ぱたり、顔の上に落ちた雫に、ファンははっと男の顔を見る。いびつな笑みこそあれ、その両眼から伝うのは――
「――とう、さん。父さん」
ファンはただ男を――父を呼んだ。死にたくなかった、もっと生きていたかった。そう伝わってくる心が痛くて、辛かった。
「答えろ。俺がお前やリリを守ろうとした、覚悟は、意志は無駄だったのか? 俺は居なくてもよかったのか? 答えろ。なぁ、教えてくれ……」
悔いの涙が降り、ファンはただ同じように泣くしかなかった。