甦る悪夢
井戸や縦坑のような深い奈落。どこかにとっかかりが無いかと手を伸ばしたが、黒いばかりの空間は、どこまで続くのか手は届かなかった。ジュジの言葉は、シンや先生のように“ずっと”国を見てきた人の言葉に似ていた。自分が考えるような、知っているようなことよりもずっと多くを見て、多くを知る人のものに。
(すべてを見るといい――)
あの瞳、あの手、あの声。すべてを見ろ、というのだから、ジュジはすべてを知っているのだ。きっと、ファン自身のことも、ファン以上に。
『入口です。他の方々も、道が出るのを待っていたようですから、一緒に戻るといいでしょう。御無理は禁物ですよ』
不意に先生の声が頭の中に響いた。再び激しい痛みをもたらしながら、眼前の暗闇は幻影を明滅させる。どこまでも落下しながら、ファンの目には落ちた場所、入口の間の画が広がる。
『ありがとうございました、神官長様。リリ、帰り道は急がなくていいな?』
『ええ、せっかく気遣っていただいたんだし、ゆっくりと――あら、お腹が』
拍動と共に痛みは波のように押し寄せる。伸ばしていた手足を引っ込めて、ファンは、痛む頭を抱えるように縮こまった。この幻の行く末は――
「い、嫌だ、見たくない! やめろ、やめろよ……!」
頭の中をつんざく叫喚。女性の――母の悲鳴。それに重なるように、痛みと光景にファンも絶叫していた。
『リリ? リリ! どうした!』
『どうなさったのです! この気は……? まさか!』
悲鳴は、次第に獣の唸りになり、獣とも人ともつかない声で、母はいう。
『お腹の子に……獣が、憑いた。憑いていたら、死んでしまう、死んでしまう』
そして、母は呪文のような何ごとかを呟き、今度ははっきりした声音で告げた。
『なら、私が引き受ける……!』
『よせ、リリ! いくら、お前でも体が持たない』
『おやめなさい! 御子が無事でも、あなたが傷つけば同じです!』
先生が叫んでいる。目を閉じても、今度の幻は消えなかった。まぶたの裏に光が差すような、有無を言わさぬ幻影。まるでその場に居合わせたかのように、悪夢は鮮やかに続く。
『祓います! 離れて……』
先生の姿が獣性を帯びて、まわりに光輝を纏う。母はその場にうずくまり、腹を抱えるようにして、その身を抱き寄せた。続いて、地響きのように低い呻きがそこから聞こえてきた。
『待ちわびた……』
およそ女の声とは思えぬ、低く轟くような声。こちらを見る目は炯々と輝き、魔獣にあった時のような恐怖を感じた。先生の目が見開いて、踏み出した足を止める。
『とうとう、この日が来てしまったのですね』
先生は母を、否、その中の何者かを見て呟いた。きっと睨んで、再び足を踏み出す。微かにその手が震えているのを、ファンは精一杯の意識の中で認める。
「駄目だ、先生。行ったら、駄目だ……」
『いけません! 神官長様!』
唸りが止まり、苦しげだが母の声が戻る。リリ、と男がそれに駆け寄ろうとして、母はそれを制止した。
『来ては駄目よ、ウェイ。……神官長様、わかったのです』
呻きながらも、母は続ける。
『この子は天地、ともに選ばれてしまった。――よしんば天に差しだそうとも、地に堕ろさせはしない。私の命を賭けて』
続く詠唱の後、母の周りでぱん、と光の輪が爆ぜた。ほっと、その表情が緩むと、すぐにその顔はさっきまでの魔の顔になり、ぐるぐると獣の声で唸る。
『獣性のない女と思ったが、こやつ仙だったか。子に結界を張りおった。小癪なことを』
先生は体を獏のように変えながらも、凄む。
『その人を解放しなさい、でなければ無理にでも――』
『払うか、夢食い。お前ごときが』
先生を夢食い、と呼んだその声に、先生はびくりと体を震わせた。再び止まる脚。先生は獣性を帯びた手を握りしめる。その横で、じっと妻の苦しみに耐えていた男は、とうとう逆上して腰の剣に手をかけた。
『お前が、リリを。てめぇ出てこい! たたっ切ってやる!』
剣を抜き放って前へ進み出た男を、おやめなさい、と先生は止め、答える。
『何を。私はそのために生かされてきたようなもの。それが天社の長たる私の務めです。蚩尤よ』
建国の魔神の名を呼んで先生は、掌の光輝を床の上へと放った。継ぎ目のない床に葉脈のように光が奔り、母の周りを取り囲む。床に走った光は母の周りで文様を描き、強く光った。その瞬間、その中央に開いた暗い穴。一度ふわりと浮いた母の体は、吸い込まれるように地下へと落ちていった。
消えた妻を見て男は逆上し、先生へと掴みかかる。
『お前もか、神官長! お前も、リリを助ける気なんざ』
『落ち着きなさい! あなたが落ち着かなければ、奥方の覚悟が無になる!』
先生は声を張り、その手を取る。そして、正気に返すように肩を掴み揺すった。
『部屋を移しただけです。より天に近い、地下の――真の社へと』
先生の言葉に男はようやく落ち着き、悲しそうな顔で、リリ、と呟いた。安心させるように微笑を浮かべ、その手に再び光輝を纏わせた。壁に手をかざし、あの昇降する部屋を出現させる。
『お願いします、手を貸してください。あなたの力が必要です、御主人。奥方も、御子も必ず助けます、必ず』
必ず、とぎこちない笑顔で繰り返し、頭を下げた先生に、男も同じようにお願いします、と頭を下げた。抜き放った剣を収め、先生と男は壁の向こうへと消える。
幻と痛みが消えるのと同時、一定に落ちていたファンの体も急に速度が緩み、次いで静かに地面に横たえられた。体が床に触れたのを感じて、ファンは体を起こす。
広がっていたのは、無限に続くような鉄色の空間と、青白く仄かに輝く、無数の円柱が立てられた空間だった。