邂逅
次の部屋は、中心に大きな水晶板が据えられていた。白い綿靄のようなものがその中でゆっくりと回っている。その周囲には、天社の官だろうか、数人が水晶板を見ては傍の文机で何かを書き記していた。巡礼が来ても、その手を休めることはない。
「こちらは空の巡りを見る部屋でございます」
「白く見えるのは雲。長雨や天変の兆しがあれば、ここから四方へ伝えられます」
部屋に入って、金烏玉兎は説明を始める。それを聞く巡礼者は八割ほど、二割は別の方を感動したように見つめている。幻が見えているのだ。幻といっても、天の御業というのならきっとそれは託宣に近いのだと思う。身近な人の口で、天は何を語るのだろう。
空の模様を記す官は、よく見ればそれぞれの腕に四方の色を巻いている。担当する国なのかもしれない。青色を巻いた官も忙しく筆を走らせている。水晶板の上が北なら、東は白く霞んでいる。雨が降っているのかもしれない。
『故郷はどうなんだ、リリ。よくわからん』
人々の中から聞こえた声に、ファンは振り返った。帯刀した若い男。どこかの武官だろうか。その問いに、男の傍らの女性が苦笑しながら応える。そして、その女性を見た瞬間、ファンは驚きに息が止まりそうになる。同時に頭に奔る激しい痛み。
『もう、また話を聞いてなかったの、ウェイ。向こうは晴れているみたいよ』
女性は水晶板を指し示す。そうか、と応えながらも解っていなさそうな男の様子を見て、女性は困り顔ながらも微笑み、その大きな腹を撫でた。それはもうずいぶんと大きくて、お産は近そうだ。二人は夫婦なのだろう。旅歩きも辛いだろうその状態でここまで来たその女性は、人々の間でも特に目を引いた。
『ああ、どうか賢い子になりますように』
『おい、あてつけるように言うなよ』
夫婦は顔を見合わせて笑う。ああ、あの女性は。間違いない。心臓の打つのに合わせて、痛みは脳を突く。悪夢の残滓がそれに乗って、暗く瞬く。
『お前の子なら、かしこいに決まってる。俺に似なければ』
『じゃあ、あなたの子なんだから、強い子になるわ。私に似なければ』
幸せそうな笑顔と声。目の前の幸福に逆らうように閃く情景は、鼓動を急かして呼吸に圧し掛かってくる。夢と幻とが頭で相対して、ファンはよろよろと壁にもたれて、そのまま膝をついた。
――あれは、幻影。母となる前の、母の姿。
そしておそらく、豹変する少しばかり前の姿だ。この先を映したのだろう悪夢こそ、これまでファンの心を喰ってきた影。夫婦はこちらには少しも気付かないようで、部屋を眺めている。周りの人の幻は、その人に語りかけているようなのに、二人は声をかけるどころかこちらを見ることもない。それはまるで過去を再演してみせるかのように。
天がこれを見せるというなら、こうも痛みを伴わせるのなら、自分はそれから何を受け取ったらいいのだろう。この二人を追い続ければ、見るものはもう決まっているのに。辛いとわかっているのに、目が離せない。いや、きっと目を離してはいけないのだ。
「――キミ、大丈夫?」
ようやく声を駆けられて、ファンは頭を押さえながら顔を上げた。夫婦ではなく、自分と同じくらいの少年だった。背はファンより少し高いくらいで、灰白の髪と相まって全体的に白く儚く見える。
「君は……幻?」
問い返すと、少年は違うよ、と首を振った。
「具合が悪そうだったからね。幻が見えるの?」
今度はファンが応えて返す。
「うん。だけど、見てたら苦しくなって、今も――あれ?」
幻の二人は消えていた。巡礼の人々の間にも、その姿は見当たらない。同時に、あれほどひどかった頭痛もどこかに行ってしまった。
「あまり酷いようなら、案内の人に言ったほうがいいよ」
「いや、もう大丈夫。立てるよ」
巡礼の列は次の部屋へ向かう所だった。扉はさらに奥へと開いている。壁をそれなら、と少年は言う。
「一緒に回らないかい。ボクと同じくらいの年の子がいて、ちょっと嬉しかったんだ」
屈託ない笑みに、ファンも固まっていた表情を緩め、頷いた。
「あ、でも、もしかしたらまた幻見て止まるかもしれないけど」
「それなら、なおさら誰かといた方が安心だよ」
少年は、行こう、と扉の方へ歩き出す。ファンもそれを追って歩き出す。
「そういえば、名前は? おれはファンっていうんだ」
少年はぴた、と足を止める。そして、振り返る。
「――ジュジ」
「え?」
少年は微笑む。ただ、それはあまりにも妖しげで、空恐ろしいほどに美しい笑みだった。
「ジュジ、だよ。よろしく、ファン」
少年――ジュジは手を差し出してくる。握手かとファンが手を差し出すと、そのままジュジは手を引いて駆けだす。つんのめるファンに、ジュジは言う。
「御柱は広いよ。どんどん進まないと」
次の部屋の巡礼者の列の最後尾に追いつくと、待っていたかのように後ろで扉が閉まった。