定めに沿わぬ者(2)
「ファンはどこです」
その声と姿に、ファンは複雑な気持ちを覚えた。親の姿に安堵している部分と、その身を危険にさらしてしまうことへの不安。これまでどんなに心配をかけても、バク自身の身を危険にさらす事はなかったのに。必死に走ってきたのだろう、息が上がっている。バクはこちらを向いて、ほっとその表情を緩めたがそれも一時、男たちに向けられたそれはいつもファンを叱るときの比でないほどの怒りが浮かんでいた。
シンも一緒にいて、男たちが何も言わないことを見ると、シンも呼び出されたのだろうか。
「私がバクです。こうして来たのですから、その子を離しなさい」
静かながらに強い憤りを込めて、先生は男たちを睨み据えた。その前にあの獅子の男が進み出る。
「そりゃあ出来ねぇよ、先生。俺達の望みはあんたじゃねぇ」
男の言葉に、バクがさらに顔を険しくした。
「なら、何を望みます」
「――鍵さ。お前が連れ出して隠した、太極って奴をこちらへ寄こせ」
バクの目が見開かれ、男は得意げに笑んだ。ファンはその聞き慣れない言葉と、深刻そうに青ざめたバクの顔に、これがただ自分の誘拐で済まない事態であることに気がついたのだった。
「太極をそちらに寄こしてやるとして、お前たちに扱える代物ではあるまい。まず、その名を知ることもな。一体、裏に誰がいる」
シンはバクの横に進み出て、周りの男に訊ねた。この男たちは、殆ど何も知らされていない。ただそれが、バクが連れる人間であるということだけで、まさか既に自分たちで捕えた少年がまさにそれであることは思いもしないようだ。おそらく大元はこの男たちを何とも思ってはいないのだ。
「天の者――もしくは、獄の者」
男の眉が僅かに動き、それを見逃さずシンは続ける。
「それも、かなりの高位の者。ならば、四凶だな?」
男の眉が今度は見てわかるだけ動く。そして、にやにやと笑みを浮かべながら、シンの方へとにじり寄った。
「そこまで解ってるなら、話が早い。てめぇが太極だな? この餓鬼の命が惜しかったら、大人しく一緒に来てもらおうか」
足を踏み出そうとすると、ファンが縄を身体に食い込ませながら、叫んだ。
「駄目だよ、シンさん! おれには太極ってのは良くわからないけど、大事なものなんでしょ? シンさんがそれなら、行っちゃ駄目だ! ……おれ、我慢できるよ。さっき、シンさんが言っていたこと、やっとわかったんだ」
本心は助けてほしいはずだ、目を見ればわかる。でも、それ以上に目に宿るのは、言葉通りの強い意志だった。覚悟を問うたときに不安げに揺れたあの瞳は、今はもう揺るがない。シンは笑んで見せる。
「それなら、尚更お前はそこにいるべきじゃない。心配しなくていい。じっとしていろ、ファン」
シンは躊躇わず前に進み出る。周りの男たちは警戒しながらも、周りににじり寄り、取り囲む。
「おっと、その刀は捨ててもらおうか」
腰の剣を指して、男は言う。
「いいだろう。だが、それならファンの縄を解け」
獅子の男が顎で、杉の近くの仲間に合図する。縄は解かれたが、ふらふらと立ち上がったファンの横にはまだ男たちがついているから、逃げられる様子ではない。縄が解けたのを見て、シンは刀を結わえていた紐を解き、後ろへと投げやった。がらん、と音を立て、間合いの外に転がる。男は頷く。
「よし、そうしたら五歩前に出ろ。……おい、縄だ。解けねぇ様にな。あとは邪魔になる、餓鬼は放していい」
変わらぬ足取りでシンは前に出た。すぐさま丈夫な縄で腕や胴に縄が掛けられ、後ろ手に縛られる。乱暴に結ばれたせいか、指先にうまく血がいっていない。同時に、男たちから解放されたファンがバクの下へと駆けていく。バクはファンの身体を抱きとめ、こちらをじっと見つめていた。これまでずっと黙っていたが、目には心配と確かめるような色がある。シンはバクにだけわかるように、小さく唇を動かした。
完全に上体が拘束されると、それを見て獅子の男は得意げに頷いた。周りの男たちにも、引き上げるべく合図をする。
「太極が物わかりのいい奴で助かったな、先生よ。……これで檮杌様も喜ばれるだろうぜ」
聞き覚えのある名で、遥か前に聞かなくなった名。シンは呟く。
「なるほど、やはり檮杌か。思ったより事態は悪いようだ」
頬を微かな風がなぜる。少しばかり力を入れて、事もなげに幾重にも巻かれた縄を引きちぎる。驚く男たちの前に、シンはその常ならぬ腕を示してみせた。
袖から覗くのは青い鱗に覆われた龍の五指。爪は微かな月明かりにも艶やかに、その鋭さを映し輝く。
「バク! 町へ戻れ!」
再び取り押さえようとする男たちを一蹴し、シンはそう叫んだ。木立の中に二人が消えるのを確認して、シンは腕にぐっと力を込める。ものの数秒とかかるまい、傷をつけぬようにはかったとしてもだ。捕える動きが攻撃になっても、大した違いはない。しばらく後、一人残った獅子の男を見据え、シンは息をついた。
シンの腕に見とれる間もなく、ファンは襟を掴まれて、引きずられるように町への道を戻りだした。シンはあの大勢の中、一人残った。ファンは体勢を立て直し、バクの横を走りながら問う。
「先生! シンさんは……」
「あの方なら大丈夫です。それよりも、私たちがここに残ってしまうことが、全てを無にしてしまいます」
道の不確かな夜の林の中を、バクは必死に走っている。言葉の意味はわからなかったが、それを見るとファンはそれ以上問うことができなかった。
がさり、と微かな音と、獣の唸りのようなものが聞こえて、ファンは振り返る。
「お前は……!」
シンと対峙していたはずの獅子の男が後ろにいて、もうその鋭い爪と腕を振り下ろしている瞬間だった。風を切る音と、バクの声が遠く、鼓動の向こうに聞こえた。