桃源郷の向こうに
「おお、小娘。居やがったのか」
今気がついたイェンジーがその姿を見つけて声を上げる。藪の中から、赤い裾を引きずりながら現れる乙女の姿。衣と同じように顔を赤らめながら、鸞はわめく。
「龍! 気づいてたんなら言いなさいよ!」
「すまない。気付かれたくないようだったので黙っていた」
笑って返すと、鸞は不機嫌な顔をしたが何も言い返さずに、つかつかと岩の前に進み出る。
「これがなくなればいいんでしょ?」
頷いて返すと、鸞はひらりとその腕を広げ、袖をはためかせた。鸞の方から微かに感じる熱気。
「下がらないと、死んでも知らないからね」
羽音と花の香とともに、乙女の姿は赤い巨鳥に変貌する。羽は、明るい炎色の朱雀に対して、鸞はつやのある緋色をしていた。翼は五色を交え、金銀の尾羽と冠羽は鈴のような音をたてて揺れる。ばさりと鸞は飛び立ち、岩の上へと飛び上がった。あっけにとられたように見ているイェンジーを引きずりながら、三人は林の影まで下がる。
「こんなものもどうにかできないって、不便な体ね」
鸞は呟き、くちばしの先に火球を生じさせた。火球は見る間に赤から太陽のような白に色を変えていく。羽ばたきは熱風となって林の中を通り抜ける。美しい鳴き声とともに、火球は放たれ、岩にぶつかる。
閃光と、猛烈な熱風があたりを通り抜ける。続いて、焼けた石の上で水が爆ぜるような高く短いさざめき。それがすべてなくなると、切り割りを塞いでいた大岩は跡形もなく消えていた。道や大岩に触れていた切り通しの岩壁が夕日色になり湯気を立て、冷えた部分は黒々と金属のように固まっている。
「これでいいでしょ、龍」
降り立った鸞は再び乙女の姿に変じて問う。
「ああ、充分すぎるほどに。鸞殿、感謝する。イェンジー殿も」
切り割りに風が抜け、遠く続く木立の向こうに光が見える。
「いいから、さっさと行きなさいよ。その足じゃ大して進めないでしょ」
そうしよう、とシンとファンは岩の下になっていた道に足を踏み入れる。少し進めば、峰を越えて黄の地へ入る道だ。鸞とイェンジーに礼を言おうと振り返ると、イェンジーが筆先でこちらを払いながら言う。
「あー、礼なんざいい。足を止めたのはこっちだ。小娘の言うとおりさっさと行け」
鸞がイェンジーを小突いて、口をとがらせる。
「小娘小娘って、あんたね……」
「わかってら。ちゃんと呼びゃあいいんだろ、フー」
そういうと、鸞は顔を赤らめて俯いた。
「……気安く呼ばないで」
旅人二人は顔を見合わせて、小さく笑った。そして、道の先へ向かって歩き出す。この先は、天の 治める不可侵の土地。御柱のそびえる、ファンが生まれた地だ。
二人を見送り、イェンジーは庵に戻り筆をとった。小娘は二人の姿が見えなくなるなりどこかへ飛んで行ってしまったから、別段気にもせずにここに帰ってきたのだった。また描きたいものがある。
「また何か描いてるの?」
筆をとってしばらく、声に振り返ると、戸口のところで隠れるようにしてこちらを覗き込む少女いた。
「ああ、まあな。見てぇんなら、入っていいぞ」
入ってきた少女は油煙の色を纏っていた。
「なんだ、戻しちまいやがったのか」
「動きづらいんだもん。でも、もう自分の姿を忘れたりしない」
こちらへ近寄る少女に、わずかに視線をやる。見ても今度はもう、ここから逃げたりしないようだ。
「あいつらに聞いたぞ、火の山の神なんだってな」
「神じゃないわ、ただずっと住んでるだけ」
筆を止め、腕を組んで追想する。朱雀が火であるなら、この小娘は火の山そのものなのだろう。
「噴火か。前に一度、派手に噴いたのを見たっきりだ。行ってみっか」
「派手にって、前に噴いたのだって随分前だけど……なんだ、あの二人描いてたの?」
絵を覗き込み、小娘は首をかしげる。
「あの子、そんな恰好してた?」
「おれぁ見えたようにしか描かねぇ」
問いかけに応えながら、筆を進めた。そして、ふと思い立つ。この小娘に翼があるのなら、ああして壁を描いたところで用をなさなかったのではないか、と。苦笑していると、小娘にわき腹を小突かれた。
峰を示す線を踏み越えると、空気が微かにぴりりとしみる。それを越えて、切り割りを抜け、林が切れると目の前には金環山に囲まれる盆地が開ける。見晴らしのいい場所で足を止め、それを眺めた。金色の大地。緊張と感動とをない交ぜにして、ファンは御柱を見つめていた。
朝日に照らされ、金に輝く御柱はそびえる。こうして眺めれば近く見えるが、御柱は遠い。その根に届くまでは、まだまだ日数がかかるだろう。そのうちにファンも心の準備ができるだはずだ。
「行くぞ、ファン」
「はい!」
歯切れ良い返事とともに、下りの道を歩き出す。
「そういえば、師匠」
「どうした?」
「鸞さんが言ってた、イェンジーさんに似てる人って誰ですか?」
「ああ、あれはな……」
言われれば似ているかもしれないが、随分昔の人間を覚えているものだ。シンははるか後方になった絵師の男と聖獣の乙女を思い、笑みをこぼした。
――赤の国の章2、了。