鸞(2)
イェンジーが筆をとってしばらく。上り始めていた陽は今やゆっくりと木々の間に沈もうとしている。視界から逸れる以外には自由だったにしても、その間ずっとイェンジーは鸞の姿を描き、鸞は椅子に腰かけ、その筆が進むのを見ていた。シンとファンはその間庵に立ち入れなかったため、外で体を休めながら絵の完成を待った。
虹に変化する筆を持ち、一心に紙に向かうイェンジーは書き始めてから一度も酒はおろか水一滴も飲まずに鸞の姿を描き続けた。額から顎へ伝う汗すら紙に落ちる前に渇くような気迫。陽が頭上を過ぎるほどの時間も、傍で見ていた二人にすら駆け足ですぎたように感じた。
「よし……出来た」
完成を告げる呟きに、外にいた二人は中に入り、床に広げられた絵を覗き込んだ。そして、息をのむ。そこに描かれていたのは、仙女とも飛天ともつかぬ、薄絹をまとう乙女の姿だった。金糸銀糸の織り交ぜられた薄紅の羽衣に、麓にいたころ遠くに見えた陽山の、その紅蓮を纏ったような韓紅の褥と深緋の裙を、槐色の帯で締めている。ゆったりとしたそれらから覗く肌は真珠のように、蘇芳色の長い髪は艶やかに結いあげられている。髪に挿された簪には五色の玉でできた花の飾りがきらめく。そこにいる誰もが圧倒され、しばし言葉なく、ため息交じりにそれを眺めた。
「素敵……」
絵の正面に座る鸞が、小さく呟く。寝台に座るイェンジーは満足そうに、それに頷き返した。紙に描かれた自身の姿から目を離し、鸞は絵師の男を見つめる。
「もし、もしの話だけど、今の私の姿を好きだと言ってくれた人がいたとして、それが変わったら、嫌われるもの?」
問われて、イェンジーは香りだけは微かに酒気が残る水を含み、飲む。
「何言ってんだ。誰だって、見た目が良くなりゃ喜ぶだろ。それが、取り繕ったようなもんでなければ、なおさらな」
ふうと息をつき、事もなげにイェンジーは答える。その答えに、鸞は再び絵に目を落とす。
「そう……良かった」
固く結ばれていた唇が小さく笑みをつくり、その頬がわずかに朱に緩む。その瞬間。木々に呑まれようとする陽とともに、ざあっと音をたてて庵の中に風が吹き込んだ。風は外の花を吹き撫でて、薄桃の花弁を巻き込んでいる。目も開けてられないほどの花吹雪が庵の中の紙を巻き上げながら渦巻いた。
風が収まって、シンはゆっくりと目を開けた。そして、短く感嘆の声を漏らす。
「見事!」
そこに先まで絵を見つめていた油煙の少女の姿はなく、触れがたく高貴な出で立ちの仙女の姿があった。紙上の墨は消え、鸞の姿はあたかも絵から抜け出たように見える。残り風に揺れる袖をつまみ、鸞はくるりと回る。そうやって当人ですら変化に驚く傍らで、イェンジーは左右交互に目を覆って、納得したように頷く。
「よし、これで両目和したな」
満足気にそう言って、イェンジーはそのまま寝台に倒れ伏した。今度ばかりは、気力体力使い果たした、ということなのだろう。あの高いびきも今は潜んで、代わりに静かな寝息が聞こえてくる。
「それが貴女の本当の姿か」
「知らないわよ、この男が好きに描いたんじゃないの?」
問うと、鸞はつんとそっぽを向いて答えた。今や、煙のにおいはなく、吹き込んだ異界の花の香がその身を包んでいる。
「でも、顔も背格好も変わってませんよね。やっぱりそれが正しい姿で、イェンジーさんには、ちゃんと見えていたんですよ」
目の前で起きた霊びに目を輝かせながら、ファンが言う。その言葉に、逸らされている真珠の頬が紅潮した。そして再び、今度は小さく、鸞は繰り返した。
「知らないわよ……っ」
寝台の上のイェンジーが寝返りをうち、こちらにその身を開いた。はずみで落ちた足を、ファンが上へ戻す。幸せそうな寝顔に、姿が変わってもなお真一文字に結ばれていた口をため息とともに緩め、鸞は微笑する。
「酔っていなければ似てるのに」
「誰にですか?」
微かに聞こえたその呟きを聞きとってファンが尋ねると、鸞はあわてたように振り返る。
「何でもない! 帰るから! 退いて」
広がる裾を持ち上げて、鸞は逃げるように庵の入り口へと向かう。止める道理もなくひょいと二人が退くと、鸞は入り口まで来てその足をとめた。わずかに漂う沈黙。
「あんたたち、あの、その……ありがとう」
その言葉に、シンとファンは顔を見合わせた。そして、笑う。
「我々は貴女に迷惑をかけたはずだが」
シンが応えると鸞はくるりと振り返る。
「いいから素直に応えなさいよ! それに、急ぎなんでしょ、もたもたしてんじゃないのっ!」
言い捨てて外に駆け出て行った鸞を見送って、二人はその姿を再び見る。イェンジーの筆の墨に似て、虹に彩られる翼。理通りに整えられ、宵掛けの薄闇にその美しい姿は光るように映えた。
※褥裙:着物に似た短い上着と筒袴。布帯で締める。古代中国の女性の服。