鸞(1)
ファンをおいて、先行したシンは一度見失った鸞の気配を辿るために足を止めた。こちらに気付いているのなら、今それを追っているのにも向こうは気付いているはずだ。高く飛ばれなければ追いつくことはできるが、何と言って説得したらいいのか。力づくでどうにかできる相手でも要件でもない。やはり、正直に話すのがいいか。
気配を見つけて、木々の間を抜ける。微かに鼻にかすめる火の匂いと煤のにおい。それを辿って、シンの足ならあと数跳びというほどに近づくと、鸞は再び飛び立った。一度掴んだ気配だ、逃がすことはないが、また手前まで迫るとまた気配が移動する。向こうもこちらが近づいてくるのがわかって、その都度移動しているのだろう。つかず離れずなのは計りかねるが、遠くへ逃げないのは好都合。それに、こちらは二人だ。追い掛ける道を僅かに逸らし、囲うように追いかける。シンはわざと気取られるように青龍の力を強めた。ファンはまっすぐこちらを追っているはずだ。
追いついて離されて、を繰り返して数回。追いたてた先に、鸞の羽音とファンの声が重なった。さらに足を急がせると、煙の匂いを纏う鳥とそれを前にするファンに落ちあった。辺りには鸞につきそう小鳥の声が忙しく聞こえた。
「いい加減にして! そんなにあたしを怒らせたいの?」
樹上の大鳥はその嘴から火の粉を発しながら、少女の声で問うた。かぎづめと嘴は油煙の色を纏い、尾羽は石の粉を撒いたようだ。煙や炭の色に斑の翼は遠い陽山を思わせた。
「怒らせるつもりはない、鸞殿。しかし、貴女の言うように龍にもなれぬ。それに、今回ばかりはどうしても貴女に頼らざるを得ないのだ。話を聞いてほしい」
「嫌。ちゃんと頭があるんだから、他の方法を探しなさいよ」
ばさり、と再び、鸞は飛び立とうと翼を広げた。
「――お願いします!」
ファンの声が辺りに響き、シンはファンの方に目をやった。必死の叩頭。ファンは膝を折り、ただただその場に頭を下げていた。その姿に鸞も同じように驚き、広げていた翼を元のように折りたたむ。
「……その子の方が、よっぽどものの頼み方を知ってるんじゃないの、龍。でも、態度の問題じゃない」
「頭を下げればいいってものじゃないのはわかります。おれは何の力もない人間だから、下げたところでたかがしれてます。でも、あなたにお願いが合って、おれができるのはこれだけなんです。……どうか、話を聞いてもらえないでしょうか」
「そうだな。俺もそうしよう。確かにまず頭も下げずに頼みごとをするのは、無礼だ。鸞殿、本当に貴女にしか頼めんのだ、俺からも頼む」
木の上で、鸞が居心地わるそうに枝を掴みなおす。枝は軋み、葉からこぼれる日差しが揺れた。
「……話せば。聞くだけなら聞いてあげる」
「すまない。……下の異界のことは、御存知だろう。そこの主である絵師に貴女の姿を描かせてほしい。奇怪に思うかもしれないが、道を取り戻す術がこれしかない」
頭を地につけたままの依頼に、鸞はしばらく応えなかった。
「無理。人の姿を見られるのも嫌なのに、絵に描かれるなんてもっと嫌」
その応えに、ファンがさっと顔をあげる。
「どうして、姿を見られるのが嫌なんですか?」
「わからないの? 自分の姿が醜いから。大っ嫌いなの」
「でも、その姿も、おれ、醜いとは思いません。それに、絵師のおじさんが言ってました。あなたのその姿は本当じゃないって」
ファンの言葉に、鸞の喉鳴りがころろ、と音を立てる。答える小鳥の喉はなく、しばらくして、鸞が呟く。
「そんなことない。これがあたしの姿だもん」
まるで言い聞かせるような声音に、シンも顔を上げる。ファンが見つめる先の大鳥を見返す。
「しかし、絵師の話も嘘とは思えぬ。それに、鸞殿。この絶え間なく流れる時の中で、貴女の姿だけ変わらぬのは妙だ」
鸞は沈黙し、こちらを見下ろしていた視線がそれる。それを見て、ファンが言葉を継ぐ。
「本当でない姿でいれば、きっと息が詰まると思うんです」
対してファンは鸞を見つめ、続ける。
「醜い姿に心を痛めるあなたが、自分でその格好をしているのはおかしいじゃないですか。本当の姿があるのなら、それが美しい姿だというなら、あなたが本当に恐れているのは、醜い姿を見られることじゃない」
ファンの言葉に、シンは改めて鸞の心情をはかった。そうだ。きっと、彼女は恐れてきたのだ。すべてに起こりうる変化に。鸞から答えはなかった。
沈黙の中に、鸞が翼を広げる。
「誰も彼も、大きなお世話よ。似合いの生き方なの。あたしはずっと、このあたしの姿を憎みながら、あたしと向きあうんだから」
地に這う二人に、羽ばたきが風になって当たる。
「話は終わったでしょ。もういいの。あたしに構わないで。帰って」
頭上から、灰を固めたような羽根が数枚ひらりと舞い落ちる。飛び立った鸞を見て、二人は深く嘆息した。
「戻ろう、ファン。ともあれ、イェンジーと話をしてみるしかない」
ファンは鸞の飛んで行った方を見ていたが、そういうと膝の砂を払い落し、頷いた。鳥の鳴く声は少しずつ遠ざかっていった。