真の眼、虹の筆
庵に戻ると、イェンジーが床に這いつくばっていた。寝台から転げ落ちたのかと思ったが、下には白い紙が引いてあり、手には筆を持っていた。
「何か描くんですか?」
ファンが進み出ると、イェンジーは筆を持った手でそれを制した。
「おっと、こっちに来んなよ。……そのとおりだが、壁のじゃねぇぞ、残念だったな。見る分には構わねぇが、紙を踏まれたらたまらねぇ。外にいてくれ」
イェンジーは振り返りもせず、蠅を追うように乾いた筆を振って見せた。言われた通り、二人は庵から足を引く。戸の外から、イェンジーを見た。壁を描く気がない、というより、これはつまり、壁以外に何か描きたいものがあるらしい。そして、それは考えた通りであるなら――
「あの、師匠……」
「待て、見ていろ」
ファンが何か言いかけたのを制止して、シンはイェンジーを見つめる。イェンジーは震えだした手を、ぐいと水差しの酒を飲んで止め、筆を振り上げた。その表情は、先ほどまでの大いびきの男のものではない。神懸かりの、才人の顔だった。傍らのファンが息を飲み、それを見る。イェンジーの手にした乾いた筆の先は、ひとりでにじわりと水気を帯びて、その先を虹に染めた。そこから紙上へと走る筆は、道を知るように滑らかに進む。
どれくらい経っただろうか、イェンジーは絵を描き終え、どっと床の上に倒れ込んだ。そして、ため息をつく。
「これも駄目か……」
終わったのを確かめて、庵の中に足を踏み入れた。
「見ても構わないか?」
「あー、別にいいぞ」
問うと、気が抜けたような声が返ってきた。イェンジーは億劫そうに、体を起こすと水差しの残りを飲み干し、再び寝台に倒れ込む。絵を手に取ると描かれたばかりだというのに、墨はもう乾いている。風景をそのまま閉じ込めたかのようで、筆ひとつで、細部に至るまで色を含めて再現されていた。絵の題材は、やはり。横から覗きこんだファンも、それに気付いたらしかった。
「師匠、この人……」
「ああ、間違いない。鸞殿か」
煙色の髪に、煤けた手足。端切れを接いだような粗末な服。不服そうに結ばれた薄い唇。シンがかつて見た姿のままで、ファンが先ほど見た姿であるらしかった。
二人が心当たりの声を上げると、それまで気だるげにこちらに背を向けていたイェンジーが、驚いたようにこちらに振り返る。
「あんたら、そいつを知ってるのか」
「……古い知り合いだが」
イェンジーは弾みをつけて起き上がり、寝台に座り直した。
「そいつ、よく来るんだよ。でも、決まっておれが寝てるときにしかきやがらねぇ。どこの小娘かしらねぇが、俺が倒れてると世話して、起き上がると逃げてく」
よこせ、とイェンジーはさっき描いた絵に手を伸ばした。渡してやると、今度はその絵の上を撫でる。
「変な奴でな、描こうとすると姿がぼやけて描けねぇんだ。無理して描くと、やっぱりこの恰好になる。見た通りに描けねぇ。向こうが見せているもんと、俺が見てるもんとばらばらでよ。――そうだな。おい、龍の兄ちゃん」
「……貴公にはそう見えるか。成程、その眼は」
龍、と呼ばれて、シンは改めて男の顔をじっと見る。ファンもこちらを一度見て、イェンジーを見て眼を見開いた。イェンジーの右目は白濁し、見つめても焦点が合わなかった。
「ああ、そうだ。こっちは見えちゃいねぇ。でも、人に見えるもんは見えねぇが、人に見えねぇ『本当』が見える。普通は、右も左も一緒に見えんだけどな。兄ちゃんは多少の違いしかねぇが、あの小娘は右と左が全然に違いやがる。その上、右に見えるように描けねぇと来たもんだ」
小僧、酒を、とイェンジーは水差しと甕を順に指して、言う。
「しっかり見て描きゃあ描けると思うが、逃げられちゃかなわねぇ。ま、見られたくねぇってんなら、これまで通りに盗み見て、きっちり描けんのを待つさ」
なら、とファンが何か言いかけて、こちらと顔を見合わせた。
「もし、その少女を連れてきたら、その後で切り割りを元通りに描き直してもらえるか?」
「ん? いいぞ。連れてこれて、描き終わったらな」
ファンから受け取った酒を一気に飲み干し、男は立ち上がってよたよたと歩き出す。
「言い出したんなら、きっちり頼むぞ。さて、おれぁちょっと水でも……」
歩いて数歩、庵から出たすぐそこで、男は花の上に倒れ伏した。慌てて駆け寄ったが、次いで聞こえてきたのは、またあの高いびき。
「参ったな。ファン! 手を貸してくれ」
シンは完全に脱力しているイェンジーの体を起こし、寝台の上へ転がした。
「これじゃあ、約束覚えているかわかりませんね」
ファンの言葉に合わせて、シンもため息をつく。とりあえず、今日はここで明日の陽を待とう。幸い鸞はまだこの辺りにいるようだから、説得は明日だ。