天は
二人は言葉少なに道に戻り、再びあの異界に向かって歩き出した。ファンが心もち気落ちしたように見えるのは、やはり鸞の機嫌を損ねたのを気にしているのだろう。
「あの、鸞さん、やっぱり怒っていますよね……」
「あまり気にするな。怒っていようといまいと、お前個人に対して腹を立てているわけじゃあない。それに、駄目で元々の話だったんだ、この広い山から見つかっただけでも良しとしないとな。――謝るのなら、俺も謝らなければならんから、それは今、一旦置いておこう」
南からの至黄の道に垂直に、日は天頂を過ぎ、地平へと向かう。まだ殆ど真上から照っているが、ここまでくればもう、今日越えることは諦めた方がいいだろう。
「そういえば、鸞さんが『山を越えたいなら龍になれ』って言ってましたけど……」
「ああ、それか。この事態だからな、飛んで入れるなら龍になっても構わないが、この山に関しては意味がない。山の頂には結界があってな。天の創った防壁は力を持つものを通してくれん」
「逆じゃないんですか?」
「いや、いいんだ。天は神獣を中継に、四方均等に力を配した。天の力は配された後、一度神獣に集まるんだ。俺は今この体で移動しているし、別の物にその役を任せているからいいが、それでも龍になるとあるべき様に、俺に力が来てしまう。分かたれた大きな力を持って移動すれば、均衡は崩れる」
「四方の均衡を保つために、神獣を中に入れないということですか?」
「ああ、そうだ」
応えてやると、ファンはまた考え込み始めた。そして、しばらくして再び口を開く。
「じゃあ、もし御柱で何かが起こったら、神獣は天を助けに行けないんですね」
思いもつかないことで、シンは思わず笑みをこぼしていた。
「天を助けに、か。天に助けられたことはあったが、そうか。それは考えたこともなかったな。確かに、そういうことがあればこのままではきっと困るだろう。機会があれば奏上しておく」
そう答えると、ファンは嬉しそうに頷いた。
「師匠。聞いちゃいけなかったら、いいんですけど……天はどんな方なんですか? この国を作って、魔と戦って、それでもまだ力があって」
どんな、と聞かれて、シンもあらためて考え込んだ。知っているとはいえ、それこそ万も昔の話だ。ファンや今生きる人間にとっては、絵巻に描かれた神の姿が天で、シンに取っては、どうだろう。
「俺も最後に参上して一万年経つからな。今はどうだかわからんが、姿も人柄もよくわからん、といった感じだった。姿も一定でなく、見るたびに違ったし、人の格好をすることもあった。人柄を言えば、もっとわからん。ただ、こちらに対して、興味を持っていたのはわかった。――思い出そうとすると、思い出せん。天自身、そういうようにしているのかもしれないな」
初めて会った時も、天がそこに存在していることを当たり前のように思った。その上で圧倒された。そして、この関係が生じたのだ。外に出て思い出そうとすると、即座に薄れてしまうその肖像と、確固と揺るがぬその存在。こればかりは形容しようのない感覚だ。
「御柱に行ったら会えるんでしょうか」
ファンが隣で呟く。
「どうかな。ここ数千年、姿を見たと言う者を聞かん。いや、見ているのかもしれないが、天だと認識した者はいないらしいぞ。傍仕えの仙や神官がわかる程度だ。……あえていうなら、あの空間にいる誰もが天でありうる」
「誰もが?」
「天はたまに人に化けて遊ぶんだそうだ。会えるといいな」
「はい!」
異界の花の香が微かにして、あの庵が近づいてきたのがわかる。イェンジーは起きただろうか。御柱の外で生きる、はぐれ仙の男に再び話を聞かねばならない。
「そういえば、師匠」
下り道を先に歩くファンが、ふと足を止めて振り返る。
「どうした」
「先生も、天に会ったことがあるはずですよね。――天も夢を見るのでしょうか」
「かもしれないな。推し量れんような、大きな夢だろう」
きっと天が見る夢は、それこそ夢と現とつかぬようなものに違いない。