定めに沿わぬ者(1)
町を出て、街道から少し西に離れて林を抜けた丘に、杉の古木が二本立っている。それは二本杉と呼ばれ、日中は街道をゆく人々の歩みの目安になるが、今その一本はファンを繋ぐ楔になっていた。幹のところに縄で括られて、ファンはしばらく力の限り喚いて暴れたが、結局腕をぐるりと擦り向いただけで縄は切れなかった。杉の皮も剥がれて縄の上に垂れさがり、赤茶の裏側が見えている。
家を飛び出して外壁の傍を歩いていたら、見知らぬ男たちに声を掛けられた。身構えたファンに男たちは、バク、という男を知らないかと問うた。流石のファンも男たちの人相に危険を感じて、とっさに首を振った。これはきっと、先生にとっても自分にとっても良くないことになる。帰ろうとしたファンの前を、男の中でも特に屈強そうなのがにやりと嫌な笑みを浮かべて遮った。育ての親を知らねぇだなんて、冷たい野郎だ、と。逃げようと振り返ったのに、またその男に遮られたところまで覚えている。そして、気が付いたらここに縛り付けられていたのだった。周りには町で見かけた男たちがいる。
何かで頭を殴られたのだ。頭の左側が火のように熱くて、ずきずきと痛い。その上、口の中では血の味がしている。頬の内側を舌で探ると、小さく穴が開いていた。歯で切ってしまったのかもしれない。気がつくと、上着の裾のところが破り取られていた。
「来ねぇなぁ、お前の先生とやらは」
あの男の声に、ファンは急いでそちらを見やった。上着の裾と、自分の今の状況にようやく合点が言った。人質だ。それなら、きっと男たちの読み通りになるだろう。先生はきっと来るだろう。来てしまう。“親”として。血縁でないのは知っているが、自分にとっては、バクこそが唯一の寄る辺で親なのだ。助けてほしい、という思いと、来ないでほしい、という思いが交互に去来する。
「先生に何する気だ!」
「あ? 何にもしねぇさ。先生が大人しく、何もしなかったらなぁ」
男はにやり、と笑ってその手をこちらへと向けた。人の腕は獣のそれになり、砂色の体毛に鋭い爪が現れる。猫……じゃない、きっと獅子だ。
「お前、獣人なのか?」
問うと、男はさらに笑みを深めた。違う、こんなのは。
「違う、お前なんか獣人じゃない! 獣人はこんなことをしたりしない! もしかして、獣堕なのか」
その言葉に、首領らしき男はぴくり、と眉を動かした。そして、取り巻く男たちと共に声を上げて笑った。
「獣堕みたいな獣憑きと一緒にすんじゃねぇよ、あんな自分の意思が無くなるような愚図とな。獣堕がそのぴーぴー言う生意気な口をほっとくと思うか? ――俺はちゃあんと与えられて獣人になったのさ」
「嘘だ。善人しか、獣人になれないんだ。命を賭して、人の為になろうとする、そう言う人間しかなれないんだ。四方の王様が、お前らみたいな奴を認めるわけない!」
叫ぶと、男たちから笑みが消え、苛立ちがその顔に浮かぶ。
「なぁ、こいつの口ふさいじまうか」
誰かがそう言いだすと、周りがそうだ、と同調する。が、あの獅子腕の男は首を振る。
「叫ばせておけ、声がすりゃあ、先生とやらも急ぐだろ」
男はファンの顔の横に獣化した腕をつく。爪を立てているのだろう、耳の横で杉の皮の軋む音がした。
「なぁ、小僧。おめぇはおかしいと思ったことねぇのか? どんなに優れていて、どんなに望んでいても、認められなければ獣人になれないんだぞ? しかも、なれたところで、生まれた場所で素養が決まっちまう」
ぱきぱき、と木の皮の剥がれる音がする。
「俺はな、この町の出だ。だがな、俺らは獅子になりたかったんだ。なのに、青の国で生まれりゃあ獅子の素養は出ねぇ。何だったと思う? 蜥蜴だぞ、ありえねぇ!」
男はぶん、ともう片方の手を振りまわすと、頭上に張り出していた太い枝が落ちる。鋭利なもので切ったような滑らかな切り口だ。
「そうさ、こんなに力ぁ得られるなら、素養なんて関係なく、望むまま得られるようにすりゃあいいんだ。それを覚悟だ善だと括るから、この国は何にも変わらねぇんだ。要は皆に力をやりたくねぇだけなのさ」
男はファンから離れ、鋭い爪を出し入れしてみせる。
「だが、あのお方は俺の望む力を下さった」
「あのお方?」
ファンが尋ね返すと、男はにやりと笑う。遠く、木々の揺れる音と微かに人の声。
「知りたいか? だが、駄目だ。お前の先生がようやくのお付きだからな」