酔いどれ絵師
庵に近づくと、ファンの鼻にも酒のにおいがわかったようだった。顔をしかめ、怪訝そうに庵の方を注視している。酒のにおい、というよりは、酔っ払いの臭いだ。この何もかも均整のとれた場所で、そのいびきと酒臭さはいやに浮いている。
「失礼する。旅の者だが、どなたかいらっしゃるか」
巻き上げられた簾をくぐり、シンは中に向かって声をかける。返事はない。もう一歩踏み込んで、二人は庵の中へ入る。明媚な外とは一転、そこはむっとするような酒の臭いが漂う、狭くごちゃごちゃと散らかった部屋だった。卓子の上下を問わず食べかけの食べ物が転がり、その間を埋めるように無数の紙が散らばっていた。奥には酒、と大書された甕が置いてあった。中は充分にあるようだ。酒の臭いに紛れて、墨のにおいもしている。そして。
「お休みのところ失礼する、この異界の主殿だろうか」
寝台の上に寝転がる姿を見て、シンは声をかける。男のようだった。風体をいえば、この庵の中にふさわしく、外の景色には似つかわしくない格好。ごろり、と寝返りをうち、大口を開けて眠るその顔には不精髭がある。起こすつもりで声をかけたが、男は起きる様子がなかった。
「師匠、これって」
ふいに袖を引かれて振り返ると、ファンは散らかった紙の一枚を拾い上げているところだった。
「ここの絵、ですよね」
紙上に描かれていたのは、二人がこの異界に来て初めて見た光景そのものだった。咲く花や小川の流れに、僅かな狂いもない。シンは、卓子の上で果物の下になっていた紙を取り上げる。描かれるのはただの岩壁だが、おそらく切り割りのあった場所だ。シンは辺りを見回し、散らかる絵を見る。食べ物や外に咲く花、酒の入った甕が描かれている。これらは手近なものを描いた、というよりはむしろ――
「……そういうことか」
男は今度はこちらと逆方向に寝返っている。シンは紙を置き、寝台に近寄り、多少力を入れて肩を叩いて男を揺り起す。再び体をこちらに向けられると、男はようやく起き上がった。
「何だ小娘……ん? 誰だ、てめぇら」
「起こして済まない。旅の者だが、黄の国に入る道について、お尋ねしたい」
「ああ? 道?」
男はぼりぼりと懐を掻き、ちょっと待ってな、と言って立ち上がった。よたよたと庵の中を歩き、酒の甕のところまでいくと柄杓で何杯も酒を飲んだ。大きく酒臭い息をつくと、男は再び寝台に座る。
「山越える道っつったら、一本道だろうが。まっすぐ行きゃあいいんだ」
「その一本しかない道が消えてなくなってしまっていたのだ。――この絵は貴公が書かれたのか」
切り割りがあるはずの場所にあった岩壁と違わぬ絵を、目の前につきだす。男は首をひねりながら、それをじっと見つめて、しばらくして、ああ、と声を上げた。
「そういや、そんなもんも描いたっけな」
「この異界も貴公が描いたのだろう? さぞかし名のある仙とお見受けするが……」
シンは辺りの物を見回して尋ねる。仙の中でも絵を描き、その力を具現させる者がいると聞いていたが、おそらく目の前の男がそうなのだろう。だが、そう言うと男は首を傾げ、わからぬといったふうに応える。
「仙? おれぁただの絵描きだ。まぁ、描くとそうなるってのは随分前に気付いたけどな」
「描くもの全部がそうなるんですか?」
ファンが絵を数枚取り上げ、男に問う。ここの食べ物もおそらくそうなのだろう。しかし、食べても消えぬ果物も摘んでも消えぬ花も、幻でないものを描き出すとなるとよほどの力がいるはずだ。男に自覚は無いようだが、間違いなく仙。それもそうそう現れるような者ではない。
「いや、気が乗った時のだけだ。描きてぇと思ったもんだけな」
男はそう言って、寝台の横に転がっていた果物を拾い、かじった。当たり前のようにそれらを食べながら、男は再びごろり、と横になる。
「まあ、そういうこった。道は諦めな」
こちらの驚くのに反して、男は物を食みながら、当然と言わんばかりに応える。
「おれぁ今、そんな道なんざ描く気がねぇんだ。描いたところで、たぶん何にもならねぇだろうしな」
その答えに、ファンが窺うように尋ねる。
「絵を破ったら……」
「ああ、そりゃ駄目だぞ、鹿みてぇな小僧。一度出たもんは戻らねぇ。――まぁ、どうしてもってんなら、俺の気が向くのを待ちゃあいい。屋根もあるし、冷えねぇし、食うもんにも困らねぇだろ」
その答えに、シンはファンと顔を見合わせた。確かに、男がどのくらいで描き終えるのかはしらないが、今すぐ絵を描いてもらったところで、越える前に日が暮れてしまうだろう。とりあえず、この男の気を向けることが今一番の早道か。
「……では、すまないが宿をお借りする。もし何かあればすぐ言ってもらって構わない」
「おう、そうか。勝手にしてくれ。……ああ、そうだ。おれぁイェンジーっつうんだ。ま、これから精々、辛抱強く待つんだな」
そう言ってすぐ、再び寝息を立て始めた絵師の男に、二人は改めて嘆息した。