陽山の主
ファンはシンの見た方を、同じようにじっと見つめた。とりあえず、シンが身構えないから、襲われる心配はないのだろう。
「懐かしい顔。しかも、子供連れ」
聞こえてきたのは、女の子の声だった。子供、と言われてちょっとむっとしたが、シンを懐かしいというのなら、当然自分は子供に見えるとは思う。確かに、大人ではない。やはり、とシンが呟くのが聞こえた。
「鸞殿か。陽山を離れたと聞いていたが、こちらにいらっしゃったとは」
シンが声のした方に話しかける。
「別にあそこにいなきゃいけない理由もないし。あんたや弟と違ってね。ま、龍がここにいるってことは、とうとう龍も気が変わって、自分の国をほっぽり出したってわけ?」
まだ姿を見せない声の主は、木立の向こうから素っ気なく言う。
「いえ、国を離れてはいますが、少し空けただけでいずれ戻ります。今は用があって、御柱に」
「あー、理由までは別に言わなくていいわ、興味ないから。で、その子何?」
こっちからは見えないが、視線を向けられているのに気付いて、ファンはそちらに向かって答える。
「ファンといいます! 師匠の弟子です」
「ふーん、弟子、ねぇ。相変わらず、人間ごっこが好きなんだ」
こちらへの返事、というよりは、シンに対しての会話の続きといった感じで、声が返る。それにしても突き放したような言い方で、なんだかもやもやした。嫌な感じだ。神獣、聖獣の間の話に自分が割って入ったのが悪いのかもしれないが、それ以上に、シンに対する答えにしても、嫌な言い方じゃないのか。
「相変わらずの御様子。姿も見せずに会話をなさるのは構わないが、いささか礼儀に欠くようだ。それしきのこと、人里離れて忘れられたか」
微かに、シンの声から自分と同じような感情を感じて、ファンはシンの方を見る。怒っているのかもしれない。そう思っていると、向こうからもわずかに身じろぐ音が聞こえた。
「……悪かったわ。でも、このままでいさせて。理由はわかるでしょ」
返ってきたばつの悪そうな声音に、シンが語調を戻し、応える。
「ええ、そのままで結構。多少急ぎの道で、こちらも気を立てていて申し訳ない。ただ、鸞殿、ここにあった道が消えた原因を知りたいのだが、貴女は何か知らないか。陽山が通れぬ今、ここを通れねば困るのだ」
間があって、林の中から声が返る。
「異界を見たでしょ。あそこの人間に聞けばわかるんじゃないの。一日中、お酒飲んで寝てるばっかりで、起きたといえば――」
「鸞殿?」
シンが意外そうな声で呼びかけると、鸞は慌てて口をつぐんだ。そして、まごついた声が返ってくる。いかにも、女の子、といった感じの声だった。つっけんどんな言い方でなく、照れたような、少女の声にあった言い方で。
「とにかく! それはあたしがやったんじゃないの! さっさと行って! 醜い奴!」
喚くような返事だ。見ると、シンは意味ありげに笑っていた。
「ありがとう、そうします。さて、行くぞ、ファン」
下の方へと歩き出したシンについていくが、ファンはやはり気になって鸞がいるであろう木立を見やる。まだ木立の奥にいるようだった。じっと見ていたら気付いたのか、少女の声に早く! と急かされた。なんだか最初と随分雰囲気が違うように思う。
二人は急ぎ足で山道を下りたが、シンは始終笑みを浮かべていた。
「何か面白いことがあったんですか」
「いや、ずっと見ていたらしいからな。珍しいこともある、と思ったんだ」
「あのひとは、人間が嫌いなんですか?」
シンはいいや、と首を振る。
「興味がない、としていたいだけなんだろう。それに、彼女にも色々思う所はある。途中の言動もあまり気にするなよ、ファン。ああいう人だ」
それでも、変な人だ、と思う。早足で道を下ると、すぐにあの異界に辿りついた。ファンには花の匂いしかしなかったが、横でシンが、間違いないな、と呟く。
「ここを作り出した大元がいるはずだ。道を戻してもらわなければ」
再度花畑の上へ踏み出して、ファンはせせらぎと鳥の声以外の音に気がついた。小さな地鳴りのような、繰り返される低い音。
「師匠、なんか……いびきが聞こえるんですが、主でしょうか」
「さっきは聞こえかったな。庵か」
無為の風景の中に、人為のものであるのに滑らかに溶け込み、馴染み、その庵は建っている。そして、ここの主のものであろう高いびきは、開け放たれた窓や簾の上げられた入り口から、遠慮なしに響いていた。