微毒
都から離れゆく二つの影は、飛びだしたほどの勢いもなく、陽山のふもとの方へと向かっていた。ひとつは女の姿、もうひとつは翼ある獣の姿だ。
「窮奇様、傷にさわります。一度降りて手当てを!」
ジェンは悲鳴にも似た声で、なおも飛び続ける窮奇を引きとめるようにすがりついた。窮奇の脇腹の血は止まっていない。ゆるゆると下の草地に降り、窮奇は静かに着地した。
「窮奇様!」
「静かになさい、ジェン。大した傷じゃありません。私とて四凶の一人、他の者より多少、軟いとて人間などに殺されはしない」
窮奇は息をつき、少し目を閉じると人型に姿を戻した。そして、掌で矢傷を撫でると、そこに黒い澱みが張り付いて血を止める。
「それよりも、随分しおらしいではありませんか、ジェン。王に向けていたあの刺々しさはどこです」
ジェンは俯き、静かに尋ねた。
「窮奇様」
「何でしょう」
「何故、私なんかを連れて……庇ったりなんか。こんな単なる逆恨みでに夢中になっているような人間なんか、用が済めば囮にもできたのに」
「そうですね、それも手のひとつでした」
窮奇は静かに、微かに笑みを湛えて答える。
「けれど、王ごときを討つためだけに、気に入った駒を手放すのは面白くない。それに、私は悪事と知りながら悪事を働く人間が特に好きなのです。逆恨みと知りながら、無関係の者を巻き込み、身内を害そうする。そして、それを悪びれもせず、ただひた向きに行う。美しいじゃありませんか」
顔を赤らめるジェンを横目に、窮奇は立ち上がり、血を流すように頂から赤く火を吹く陽山を見やる。
「ついでの用事はともかくとして、今回の目的は果たしましたから問題はありませんよ。“毒”は効いています、この私が予想した以上に」
「毒が?」
「力を持つ獣に、力への疑心が生まれた。天を信ずる王に、天への疑心が生まれた。これ以上の毒がありますか」
窮奇はその端整な顔に深い笑みを浮かべ、続ける。
「あとは機を待つだけでいい。毒は勝手に回ります」
さて、と窮奇はジェンに振り返る。
「あの沼から私は獄に戻ります。――さらに堕ちる覚悟があるのなら」
ジェンは真摯な目で窮奇を見つめ返し、答える。
「お供します。あなたとならどこへでも」
窮奇は再びその背に翼を現す。
「そろそろ行きましょうか。日が昇っては、影が消えてしまいますから」
草原をなびかせて、微かに紫がかる空から逃げるように、二人の姿は陽山の裾野へと消えた。