夢食いと少年
「俺の話はこれくらいだろう。バク、お前も本来このような所にいる人間ではないはずだ。……何故御柱を出た。天社の神官長を務めているはずの者が、その大任を投げて、小さな町に暮らしているとは」
応えたのは短いが確かな沈黙。バクはちらりと扉の方を見やって、一呼吸おき話始めた。
「呆れるかもしれませんが、一つは『夢食い』でいることに絶望したことにあります。夢とは記憶や思いそのもの。それらは自分で把握している以上に、情念が詰められて大きな力を持っているのです。それを食らって身の内に収め、その者が善く生きられるようにはかり、悪いものを取り去る。それが獏の、幻獣の力を得た私の責務です。しかし、私ひとりの身に収まる夢など、そうありはしません」
「食い切れなくなったか。無理もない。御柱には特に強いものが寄る」
バクは頷く。御柱は天への入り口。王権と共に四方に分かれる国をまとめる祭祀の中心だ。天の加護があっても様々なものが集まり、また天の力そのものも強大ならば、そこにいる者は並大抵ではならない。茶で口を緩め、バクは続ける。
「もう一つは、そうですね。……シンさん、貴方はファンを見て、どう思いましたか」
「お前が親代わりだからか、素直で聡い子に思ったが、無鉄砲というか必死というかな。色々敏感な年だろうが、素養はそう焦るものでもあるまい」
頷くバクに、シンは続ける。
「素養といえばな。確かに、俺の眷族ではない。あいつの生まれはどこだ、定まらずとも大体それで知れると思うが」
飛び出していった少年。獣人に執心していたのは、その素養が知れないためか。シンは東の獣の気を率いる存在であるから、自身の眷族であるならわかるはずだが。
「あの子が、もう一つの理由です。……十五年ほど前でしょうか。天社の中に、獣堕が出ました。非常に強い気でした。憑かれたのは女性。もうすぐ子が生まれるという状態で、巡礼に来ていたのです」
「社の中で、御柱で獣堕が出たのか?」
強い驚きを込めて、問い返す。この世で一番に清いはずの場所で出た、邪なるもの。
「一言でいって異常です。御柱には結界がありますし、社は神域。限られたものしか入れないはずでした。他の巡礼者に被害はありませんでした。しかし、祓いはしたものの、その女性は子を産むとすぐに、そして、それを守っていた男性も命を落としました。その時の子供がファンです」
「それじゃあ、まさか、あいつは」
言葉の先を読み、バクは頷く。
「あの子は――ファンは太極です。陰と陽が混ざる、御柱の中で生まれた子。天の力も、それに封じられた者どもの力も強く受けてしまうでしょう。あの子の素養が定まるまで、私はそのどちらからも遠ざけておきたかったのです。万に一つ、獄に封じた者どもの力が及べば、その身を鍵として獄の者は中つ国中にあふれ出るでしょう。だから、私は御柱を離れました。……ファンには、私のことも、あの子自身や親のことも教えていません」
バクは再び扉の方を見やる。そういえば、飛び出したきりだ。迎えにやってやらねば帰りにくかろうし、迎えに行ったとしても相当になじられるだろう。
その生い立ちが、彼の少年の心を獣人へと惹きつけるのか。バクはその心の奥を、夢を通して見ているはずだ。
「夢に、何が巣食っている」
「母が獣堕となる姿、地から染み出す暗闇へと落ちていく恐怖。どれにも抗えぬ自分。強い記憶です。……私にはそれを見ても、取り除いてやれません。ただ、その他に障るようなことを気休めのように取ってやれるだけなのです」
そうか、とシンは小さく応えた。獣人になれれば皆一様に力を得ることができる。身体的にもそうで、それ以上に心が強くなる。自分の手に負えないものが、来るかもしれぬ恐怖と焦燥に駆られて、それにもかかわらず定まらぬ素養がその若い心を追い詰めるのだ。
「少し、俺は口が過ぎたな。……迎えにいってこよう」
シンはそう言って、立ち上がった。陽も少し傾いてきたか、夜になるのはどちらにも良くない。町人がファンの顔を知っているなら、尋ねながら行けばそれほど苦はないはずだ。
「お願いできますか。私は、夕飯の支度をしていますから」
バクの言葉に了承し、シンは外へ出た。
捜し始めてどれだけ経ったのか。途中までは人の話を頼りに追えたのだが、その後ぱったりと足跡が途絶えてしまった。陽は少し前に落ち、閉門の鐘も鳴り終えた。残った明るさもじきに夜に呑まれていくだろう。こう見つからないとなると、もしかしたら入れ違いに戻っているかもしれない。町の端まで来ていたシンは、バクの家の方へと踵を返した。
戻ると戸口のところでバクが辺りを心配そうに見回していた。こちらの姿を見つけると、慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる。
「ファンは見つかりましたか」
「いや、もう戻ったと思ったが」
その応えにバクが顔を曇らせる。手には布の端切れが握られている。生成りの地に所々血で汚れた端切れ。微かに覚えのある布地だ。
「さっき人が来て、私にこれを渡していきました。ファンを捕えている、と。――私と、私と共にいる者に、外の二本杉に来るようにとあります」
「何者かわからんが、目的は何だ。金でないなら、俺にしろお前にしろ、知らずに呼び出す名ではあるまい」
端切れに墨で書かれたその文を撫で、バクは静かに目を閉じる。
「あまり、善い人々とは言えませんね」
「急いだ方が良さそうだな」
辺りはすでに薄暗く、人通りも減ってきた。
「一時的にも町の封を切ります、門番には私が話をつけましょう」
シンはそれに了承し、二人は町の大手門に向かって走り出した。