第壱章
俺は、女であり、男である。
かつて、私は女として、男に本気になった事が、たった一度だけある。
私は、その男の前から唐突に消えた。
何故なら、『俺』としての使命が残っていると、知ったからだ。
無論、『彼』には、何も言わなかった。
何故なら『彼』が、『地上の人』だったからだ。
「お〜い、とっとと食って行くぞ。」と、今日も明るく、橋の上で手を振る東を見て、「お前に飯を合わせていたら、飯を味わえないだろう。」と、団子の最後の一口を口に入れながら、鏡夜は言う。すると、東は、「んなとこで、お前の小さな声で言われても、流石の俺でも、何て言ってるのかわかんねぇよ。」と独り、叫んでいた。
私と鏡夜は、茶屋の表の椅子に腰掛けて、団子と茶を食べていたのだが、女将に別れを告げ、北東の方角にある橋の上で、一人手を振る東に向かい歩き出した。
「遅ぇよ」と、一人ふてくされている東を他所に鏡夜は、「例の、土佐の坂本という男の話だが……。」と、私に話し掛けてきた。「俺は、奴の言う事も一理あると思う。人斬りをなくそうという点は、賛同すべきだと思うし、今の幕府のやり方が気に入らんという点でも意見が一致している。だから俺は、此の件は賛成だ。」私が意見を述べようとした時、ふてくされていた東が、「けど、俺は、内輪揉めしてる奴等も嫌いだな。それに、幕府の奴等には、散々、面倒見てもらったってのに、今更裏切れっかよ。なあ?紫癒。」そう私に同意を求めてきた。
確かに、私達は、地上に来たばかりの頃、身分を隠し、幕府で下女、下男として働いていた。「それは、身分を隠していたからこそのものだ。」と、鏡夜が冷静に言うのを見て私は、その事を自分に言い聞かせた。そして、「その事については、鏡夜に同意する。」と、私は言った。「では、例の件については?」と、透かさず鏡夜は言った。
「…私は、………賛同出来ない。」私は、俯きがちに答えた。「それは、…弐年程前、お前に、共に所帯を持ちたいと言った、例の武士が原因か?」と、先程より明らかに低い声で鏡夜は言った。「それは、……わからない。」そう答えた私に東は、「まあ、確かに面は良かったけどよ。地上の奴等じゃあ……なあ?」と、実に困まった顔をしていた。「確かに、俺達は、月の光を壱ヶ月浴びなければ、直接殺されさえしなければ、地上でも生きていける。そして、時が経つに連れて、自身が地上人ではないという意識を失いがちになる。それに俺達は、定期的に住む所を変えているからな。余計失いやすい。」そう鏡夜は、口にした。「もうすぐ地上に来て捌百年か……。長いな………。」東は、まるで独り言のように呟いた。「けど、彼奴が捌百年間で、壱番良い男だった…。」そう呟いた私に、「その成りで泣くな。」と、鏡夜は言った。そう私は生物学上は女であるが、武士の成りをして、男として、基本的には生活している。…けれど、彼は初めて初見で、男装の私を見て、女だと気付いたのだった。 弐人と歩きながら、私は、彼と初めて出逢った時の事を、思い出していた。
ある秋の夜遅く、確か猪の刻位に、私はなかなか寝付けないが為に、京の町をぶらぶらと、一人男装で歩いていた。
すると、脇道から、酔った侍が浪士がぞろぞろと出て来たのだ。
私は刀に手を当て、何時でも抜ける様にして、角で建物に隠れていた。
そして、案の定、奴等は私に話し掛けてきた。「ん?なんだ小僧生意気な目をしおってからに。へっ。」「そうだぞ。俺達ぁ、御侍様なんだぞ。偉いんだ。はっ!」と。
その隙を見て、私は、「はっ。」と、小さな声で気合いを入れた。そして私は、ざっと見て参拾はいるであろう不逞浪士等を、いつも通り、僅か拾秒程度で斬った。
私達参人は、かぐや姫の護衛として、約百年程御仕えしていたが、ある時、姫様が地上から帰ってくる代償として、私達参人は、かぐや姫最強護衛部隊参人集として、地上に残る事となった。
自慢ではないが、私達参人は強い。そして、他の弐人曰く、参人の中で私は圧倒的な強さを誇っている…らしいのだ。だから、私にとって、あんな数の不逞浪士程度、何て事無かったのだが……、
「いやぁ〜、凄いね、君。」と言う男と、ただ黙ったまま、軽く私を睨み付ける男が、歩きながら近付いて来た。
「凄いと思わない?左之さん。彼、僕が眼を擦ってる間に、彼等全員倒しちゃったんだよ。早い早い。」と、一人は興奮した様子で、微笑みながら言った。するともう一人は、「否、そりゃあ、まあ、確かに凄いが…。…こいつ女だろ?」と、彼はもう一人に尋ねた。
私は、此の事に壱番驚いた。私を一瞬で、女だと見抜いた人間等、此の約捌百年間一人もいなかったのだから。