風の目覚め
佃の夕方は、いつもやさしい風が吹いている。 隅田川を渡ってくるその風は、少しだけ冷たくて、でもどこか甘い香りが混じっていた。
星野はその風が好きだった。 銀座のセレクトショップでのアバイトや、読者モデルの撮影を終えて帰るとき、佃大橋を渡るたびにふわっと頬を撫でてくれるから。
「ふう……今日もよく歩いたなぁ」
けれど今日は――その風の心地よさを感じる余裕すらなかった。
(……やば、息が……熱い……)
肺炎による急な高熱。 胸の奥が締めつけられるように痛み、視界がじんわりとモノトーンに滲んでいく。 ここは佃の実家の自室。 父と母は、銀座のフレンチレストラン『L'Aura』のディナー営業の真っ最中だ。
一人、ベッドに倒れ込んだ瞬間、星野の意識はプツリと途切れた。
佃の風が、星野の名前を呼ぶ
――こっちだよ、星野。 ――ずっと見てたよ。
耳の奥で、心地よい風が囁く。 佃の風はいつも優しい。でも今日は、まるで誰かが愛おしそうに名前を呼んでいるようだった。
「……だれ……?」
意識の底がゆっくりと浮上する。 砂色の大地。果てしない風の森。 猫耳の獣人として駆け回った日々。風の精霊たちと笑い合った景色。そして、魔王討伐の混乱のなかで起きた転移のエラー。
『あ、風の加護残ってるじゃん。ま、いっか!』
どこかの誰かの、あまりにテキトーな声が響いた直後――。
星野の全身に、見えない“風の粒子”が一気に流れ込んだ。 透明な光が素肌を撫で、ショートボブの髪をふわりと揺らし、骨格ウェーブ特有のしなやかなラインを美しく整えていく。 高熱で汗だくだったはずなのに、肌はまるで銀座の高級美容クリニックで極上のトリートメントを受けたかのように、嘘みたいにつるんと輝き始めた。
風の精霊・シルフィの囁き
――星野、起きて。 ――ボク、ずっとあなたを見てたよ。
声は軽やかで、夜の銀座を吹き抜ける洗練されたビル風のようだった。
星野の頭頂部が、ふとピクッと動く。 異世界で名残のあった猫耳が、熱と急激な魔力の変化に反応して表に出てきてしまったのだ。
「やば……耳、出てる……っ」
――大丈夫。風が隠してあげる。
シルフィの言葉と同時に、透明な風のヴェールがふんわりと包み込み、猫耳は自然な人間の耳の形へと完璧に擬態された。
風が運ぶ“銀座の香り”
そのとき、ふわりと甘く芳醇な香りが漂った。 熟した果実と蜂蜜のような、極上の貴腐ワインを思わせる黄金の香り。
星野は、朦朧とする意識の中で思わず呟いていた。
「……この香り、好き……」
――でしょ? ――あなた、銀座のフレンチの娘だもんね。
シルフィは誇らしげに、くすっと笑った。
「……なんで、知ってるの……?」
――風は全部知っているよ。 ――あなたが初めてパパの手伝いでシャンパンの香りを嗅いだ日も、 ――バイト帰りの佃大橋で、風に頬を撫でられた日も。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。 熱のせいじゃない。風が、星野の記憶と心にそっと触れたからだ。
病院での奇跡、そして日常へ
気づけば、星野は白い天井の病院のベッドの上にいた。
枕元には、心配そうに眉を寄せる母の顔。 そして、母の服の端からふわりと香る、父が作るフレンチの繊細なソースの匂い。
そこに、カルテを持った看護師が入ってきた――が、途中でピタリと足を止めた。
「……え……? あなた……嘘、なんでこんなに……透明感が……?」
星野の肌は、高熱明けとは思えないほど発光するように美しく、髪は風に梳かれたようにシルキーなツヤを放っている。まつ毛は自然に上向き、頬には上品な血色がのっていた。 “風の精霊の加護(Sylphy’s Grace)”が、体に馴染んで定着していたのだ。
母は絶句し、仕事着のまま駆けつけた父は、かすかに鼻を鳴らして言った。 「……おいおい、これはただの熱じゃないな。……銀座の風とも違う、何か別の奇跡だ」
星野の耳元で、シルフィが楽しそうに笑う。
――銀座の風も、あなたの帰りを歓迎しているんだよ。
風を纏って、また明日へ
不思議と、高熱はすっかり引いていた。 体は羽のように軽い。むしろ、全身をクリアな風が心地よく巡っているのがわかる。
星野は病院の窓を開けた。 飛び込んできた外の風が、シルキーな髪をふわりと持ち上げる。
大学の講義も、アパレルのバイトも、読者モデルの撮影も――明日からまた、いつも通りの忙しい日々が待っている。 でも、以前の自分とはちょっと違う。 少しだけ特別で、最高にキラキラした無敵の自分がここにいる。
星野は自分の髪にそっと触れながら、小さく微笑んだ。
「……ボク、これからどうなっちゃうんだろ」
――大丈夫。 ――綺麗な風が吹くところなら、どこへだって連れていってあげる。
佃の風が背中を押す。 銀座の灯りが、遠くで優しく手招きしている。 星野の新しい物語は、心地よい風の香りとともに、今始まったばかりだ。
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