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第六章:撤退の拒絶(想定外の敵からの防衛)

6-1. 試験中断の宣告:Bランクの戦慄と想定外の危険

霧が、物理的な圧力を持って割れた。

 現れたのは、直立すれば三メートルは優に超えるであろう巨躯。雪山の白に溶け込むような純白の剛毛に覆われ、その隙間から覗く両目は、氷のように冷徹な青い光を放っていた。


「……アイス・エイプ(氷結の剛猿)だと!? バカな、この山域での出現事例は一度も報告されてねえはずだぞ!」


バルガスの叫びが、氷点下の空気に響く。

 彼の驚愕は正しかった。アイス・エイプは単なる魔物ではない。その咆哮一つで周囲の水分を凍らせ、環境そのものを自らの支配下に置く高地の覇者だ。山頂観測所を目前にしたこの土壇場で、あり得ない「巨大な危険」が僕たちの前に立ち塞がった。


「おい、小僧! 試験はここで一時中断だ!」


バルガスは大剣を抜き放ち、僕たちと魔物の間に割って入った。


「こいつはBランク相当のバケモノだ。俺一人なら確実に対処できるが、お前らDランクを守りながら戦えるような規模の戦闘じゃ済まねえ! 荷馬車も積荷も余波で吹っ飛ぶから全部捨てろ! 今すぐ身一つで邪魔にならない距離まで退避しろ!」


「退避……。それは、この依頼において減点を意味しますか?」


僕は冷静に問い返した。バルガスは僕を狂人を見るような目で睨みつける。


「命がなきゃ減点もクソもねえだろうが! お前らが近くにいると俺が思い切り戦えねえんだよ! 俺がこいつをぶっ殺してやるから、さっさと安全圏まで下がれ! これは監査役としての命令だ!!」


バルガスが地響きを立てて地面を蹴った。重い鎧を纏っているとは思えない身のこなしで、彼はアイス・エイプが作り出した巨大な氷柱を、力任せに大剣で粉砕しながら突き進む。


「Bランクを舐めるなよ……! 俺一人でまっ正面から叩き潰してやる!!」



バルガスの振るう大剣が、アイス・エイプの鋼鉄のように硬質化した氷の腕と正面から激突した。キンッ、と凄まじい衝撃音が響き、火花が散る。バルガスは一歩も引かず、むしろ魔物の巨体を力で押し返すと、間髪入れずに鋭い追撃を繰り出した。


アイス・エイプが丸太のような腕を振り回して応戦するが、バルガスはそれを大剣の腹で巧みに受け流し、逆に懐へと潜り込む。


「喰らえ!」


下から跳ね上げるような一撃が、魔物の分厚い氷の外殻を砕き、その下の肉を裂いた。苦悶の声を上げるアイス・エイプ。バルガスはそのまま旋回し、さらに強烈な一撃を見舞う。歴戦の冒険者らしい、力強く、無駄のない連撃だ。防戦一方となった魔物の氷の鎧が、みるみるうちに削り取られていく。


だが、とどめを刺そうとバルガスがさらに踏み込んだ瞬間、魔物の瞳に宿る冷たい光が、不気味なほどに輝きを増した。


(……っ、なんだ!? 動きが止まりやがった……)


通常のアイス・エイプであれば、ここは腕を振り回して暴れるはずの局面だ。しかし、目の前の個体は大きく顎を開き、その喉の奥に絶対零度の魔力を凶悪に集め始めた。


「――氷の息吹だと!? この種にこんな真似ができるなんて聞いてねえぞ!!」


回避は間に合わない。バルガスは咄嗟に大剣を盾のように構えたが、直後に放たれた青白い氷の奔流が、彼を正面から呑み込んだ。


メキメキッ!!


大剣の表面が瞬時に凍りつき、バルガスの重厚な胸当てが冷気の圧力でひしゃげていく。耐えきれず、バルガスの巨体は雪原を数メートルにわたって転がった。口角からはどす黒い血が溢れ、その表情は苦痛に満ちている。


「ガハッ……!! まさか……変異種、だったってのか……」


「おっさん!!」


ガラムが斧を構えて飛び出そうとするが、僕はそれを強い口調で制した。


「止まれ、ガラム! 無策な突撃は無駄な被害を増やすだけだ!」


「けど、キース! あのおっさん、死んじまうぞ!」


僕は脳内の計算機をフル回転させる。

 現状の戦力。敵の戦闘能力。気圧と気温による環境への負担。そして「逃走」を選択した場合の生き残る確率。


(……逃走による生存率は、極めて低い。この雪道で、怪我人を抱え、アイス・エイプの脚力から逃げ切ることは不可能だ。荷馬車という貴重な物を捨てたところで、僕たちは背中から一人ずつ『排除』されるだけになる)


ならば、選択肢は一つしかない。


(……全滅を避けるための、積極的な手立て。……ここでこいつを『片付け』、僕たちの安全を確保する)


僕は木杖を握り直し、第三章で毒蜘蛛を倒した切り札――空気の層を極薄の刃として固定し、極限まで圧力を高める錬金術の数式を、脳内の計算領域の一番前へと引き上げた。


6-2. 計算外の絶望:主力戦力の消耗と緊急の対処

「……シノ! すぐに、最大火力の火炎魔法を撃ち込め。敵の『冷気の膜』という名の壁を、一時的にでも溶かすんだ!」


僕の指示に、シノが鋭く頷き、杖を突き出した。


「……了解。『火焔』、全力――!!」


「(空気を一点に集中させ、燃焼の効率を強制的に引き上げる……!)――いけ、突風!!」


シノの放った巨大な火球に、僕の作り上げた極めて密度の高い突風が重なる。大量の酸素を供給され、渦を巻いて加速した炎は、巨大な火の竜巻となってアイス・エイプへと着弾した。氷点下の空気を焼き切り、轟音と共に爆炎が吹き荒れるが、魔物の周囲に渦巻く分厚い冷気は、その熱量を瞬時に打ち消していった。爆炎が晴れた後には、焦げ跡一つない純白の毛皮が悠然と姿を現す。


(……極めて効率が悪いな。シノの最大火力に僕の風による加速まで加えてこれだけの魔力をつぎ込んでも、被害はほぼゼロか)


アイス・エイプが、倒れ伏すバルガスへと止めを刺そうと、後ろへ振り向き凍てつく冷気を纏った太い腕を振り上げる。それを見た僕は、間髪入れずに次の指示を飛ばした。


「ガラム! 死角から奇襲し、敵の注意を引きつけろ! リィン、その隙にバルガスを回収。……これを使え!」


僕は『物質創造』で作り出してストックしておいた下級回復ポーションをリィンへ投げ渡した。


「リィン、それをバルガスに飲ませ、即座に後退させろ! 急げ!」

「わかったわ! ガラム、お願い!」


リィンが雪を蹴って走り出す。同時に、ガラムが猛獣のような咆哮を上げ、アイス・エイプの背後から跳躍した。


「このデカブツが! 俺が相手だ!!」


死角からの強襲。ガラムの渾身の力が乗った戦斧が、アイス・エイプの脇腹に横なぎに叩きつけられた。だが、肉を断つ感触はない。鋼鉄よりも硬質化した氷の体毛が、物理的な衝撃を完全に防いだのだ。


キンッ、と高い金属音が響き、ガラムの戦斧の刃が無残に欠け飛ぶ。


「なっ……!? 俺の斧が……っ!?」


驚きに目を見開くガラム。アイス・エイプは煩わしげに鼻を鳴らすと、逆の手を裏拳のように一振りした。丸太のような腕がガラムの腹部を直撃し、彼の巨体は木の葉のように数メートル後方へと吹き飛ばされた。


「……っ、がはっ……!!」


ガラムが雪原に沈む。だが、その数秒の「時間稼ぎ」は、リィンにバルガスの回収を成功させるには十分な猶予だった。


「バルガス! バルガス、しっかりして!」


リィンが雪を滑るようにしてバルガスの傍らに膝をつく。バルガスの胸当てはひしゃげ、口角からはどす黒い血が溢れていた。意識が混濁し、焦点の合わない目で空を仰いでいる。


「……リ、ィンか……? 逃げろ、こいつは……」

「喋らないで! キースから預かったの、これ飲んで!」


リィンは震える手でポーションの栓を引き抜き、バルガスの口に強引に流し込んだ。安物の、鼻をつく薬草の臭いが周囲に漂う。バルガスは激しくむせ込みながらも、ポーションの液体を飲み下した。


「ゲホッ、ゴホッ……! ……ケチな小僧だ。こんな下級品じゃ、痛みも引きゃしねえ……」

「文句言わない!さあ、立って!」


リィンがバルガスの太い腕を自分の肩に回し、必死に食いしばる。バルガスの巨体は、小柄なリィンにとって大きすぎる負担だ。しかし、ポーションの薬の力が微かに彼の神経を繋ぎ止めたのか、バルガスは折れた肋骨の激痛に顔を歪めながらも、雪を蹴って立ち上がった。


「……すまねえ、嬢ちゃん。この借りは……高くつくぜ」

「貸し借りなんて後でいいわ!」


二人はもつれ合うようにして、岩陰の安全な場所へと後退を開始した。バルガスは時折、意識が飛びそうになりながらも、リィンの小さな肩に支えられ、執念で足を動かす。


だが、その背後では、ガラムを叩き伏せたアイス・エイプが、逃げる二人を逃がすまいと、周囲の空気を大きく吸い込んでいた。その口腔の奥で、絶対零度の魔力が凝縮され、致命的な吹雪のブレスが放たれようとしている。


(……あの広範囲攻撃を撃たれれば、彼らは確実に死ぬ。僕の『物理的な盾』がいなくなるのは、今後の生存戦略において極めて非効率だ)


僕は木杖を鋭く突き出した。狙うのは、ブレスを放つ直前の、無防備に開かれた巨大な口腔。


「『空気塊エアブロー』――限界圧縮」


パァンッ!! と、乾いた破裂音が雪原に響き渡った。

 本来なら傷一つつけられない初級魔法。しかし、極限まで圧縮された空気の弾丸が、息を吐き出す瞬間の口の奥深くで炸裂したことで、アイス・エイプの呼吸のタイミングが完全に狂わされた。凝縮されていた冷気のブレスが暴発し、魔物自身の顔面を白い煙で覆い隠す。


「グルァアアアアッ!?」


思わぬ内部からの不意打ちに、アイス・エイプが苦悶の声を上げて大きく仰け反った。ブレスの不発による隙。その数秒の猶予で、リィンとバルガスは完全に岩陰の安全圏へと逃げ込んだ。


そして、白い煙が晴れた直後。

 アイス・エイプは、炎を放ったシノでもなく、斧を振るったガラムでもなく、真っ直ぐに僕へとその氷のように冷たい両目を向けた。


高地の覇者たる変異種の高い知能が、正確に理解したのだ。

 自らの絶対的な攻撃を、極小の魔力と理不尽なまでの精密な計算で完封してみせた存在。この群れに指示を出し、盤面を支配している後方の『司令塔』こそが、最も異質で、最優先で排除すべき障害であると。


大気が震え、周囲の雪が結晶となって僕の視界を塞ごうとする。圧倒的な殺意が、物理的な重さを持って僕を押し潰そうとしていた。

 (……前衛二名、戦闘不能。監査役、一時撤退。……残る動ける戦力は、僕とシノだけか)


極限の危機的状況。だが、僕の脳はまだ、この「全滅確定」の盤面をひっくり返すための、最後の一手を計算し続けていた。


6-3. 戦略的転換:直接打撃の「見切り」と足場の破壊

シノの火炎魔法は冷気の膜に打ち消され、ガラムの戦斧は強靭な体毛に弾かれて無残に砕け散った。

 この絶望的な状況を損得の視点から分析すれば、導き出される結論は一つだ。アイス・エイプという「極めて強固な壁」を持つ対象に対し、Dランク冒険者程度の火力では正面から魔力や物理的な攻撃を無闇につぎ込むのは、極めて割に合わない「愚策」である。


(だが、どれほど強大な魔物でも、呼吸を必要とする生物であることに変わりはない。ならば、そこには必ず肉体的な弱点が存在するはずだ。……あの教官役の賊たちを沈めた、空気を抜いた空間を作るのは有効か?)


僕は即座に杖の魔法を反転させ、アイス・エイプの頭部周辺の空気を強制的に遮断する空間を構築した。しかし、得られた結果は極めて悪いものだった。もともと酸素の薄い高い山を縄張りとするこの魔物は、低酸素状態に対して異常なまでの適応力を持っている。奴を酸欠で気絶させるより先に、僕の魔力が完全に尽きる未来が、明確な数値として計算された。


(……チッ、環境への適応力がこちらの想定を上回っているな。このやり方は割に合わない、直ちにこの手は中止する)


個体そのものを直接破壊するのは、要求される手間が莫大すぎる。何か他に、奴をこの場から「退場」させる手段はないのか。


僕は目の前の巨体を見据え、脳内の計算機を冷徹に叩く。

 アイス・エイプが立ちはだかるのは、切り立った断崖に沿うように続く、剥き出しの岩棚だった。吹き荒れる風雪が削り出した歪な岩の群れが、周囲に複雑な起伏と死角を作り出しているが、その実態は常に滑り落ちる恐怖と隣り合わせの危うい獣道だ。魔物が今まさにその巨体を預けているのは、積年の雪や氷が岩肌を覆い隠した不安定な崖のふちであり、そのすぐ先には数百メートルにわたる奈落が口を開けていた。


現在、僕の手元に残されている魔力は全体の約四割。これを全てつぎ込んで、アイス・エイプの強靭な氷の体毛と冷気の膜を強引に貫く超高圧の風の刃を放つか? だが、脳内での計算結果が弾き出した勝算は、著しく低い。正面からの直接攻撃では、魔物の防御という名の「強固な壁」を完全には突破できず、決定打に欠ける可能性が高い。


(……確実に仕留めるには、絶対的な『力』が足りない)


僕の脳裏に、かつてない激しい葛藤が走る。


(……発想を切り替えろ。個体そのものを破壊するのが割に合わないなら、この魔物が体重を預けている『足場』そのものを叩き潰すのはどうだ?)


アイス・エイプが立つのは、積雪と氷に覆われた不安定な断崖の縁だ。どれほど強固な氷の鎧を纏おうと、足場そのものを切り裂かれれば、重力という名の「絶対的な物理法則」からは決して逃れられない。


(……先人たちの破滅の謎が眠る地下書庫。その『本当の目的』を掴むために、この勝負は避けて通れない)


僕は震える指先で木杖を握り直し、意思の力で自身の魔力の制限を完全に解除した。体内の魔力の通り道が、焼け付くような異常な熱を帯びる。残った魔力のすべてを、たった一点――超高圧の風の刃の数式へと変換していく。


「……全魔力の集中投入だ。外せば全滅、見事当てれば生還への道が拓ける。……悪くない取引じゃないか」


僕は冷徹な笑みを浮かべ、殺意を込めて咆哮するアイス・エイプの足元へと、目に見えない「処刑宣告」を解き放った。


6-4. 切り札の実行:物理法則と連携による論理的な排除

アイス・エイプが一歩を踏み出した。その巨体が断崖の縁へと完全に乗り出し、数トンにも及ぶ体重が不安定な氷の層へと預けられる。その瞬間、僕は残った全魔力を、昨日市場で安く買った古木の杖へと強引に流し込んだ。


杖が魔力の過剰な負担に悲鳴を上げ、魔力を通す芯材が焼け焦げるような異臭を放つ。僕の視界はチカチカと白く濁り、脳内の計算回路は限界を突破したことによる焼き付き寸前の熱を帯びていた。


「僕の標的は魔物ではない。……足場という名の『土台』だ」


脳内で展開されるのは、第三章で毒蜘蛛の硬い殻を紙のように切り裂いた超高圧の数式。鉱山での三ヶ月間、一秒の狂いもなく空気を操り、塵一つ漏らさぬ呼吸空間を維持し続けたあの極度に精密なコントロール能力を、今はただ「破壊」という一点の目的のためだけに集める。


「【魔法創造:風魔法・極圧断裂ウィンド・シア】――実行!」


杖の先から放たれたのは、光さえ曲げるほどに極限まで圧縮された「目に見えない薄い刃」だった。

 それはアイス・エイプの肉体を狙うのではなく、その足元――数千年にわたって積み重なった岩盤と、それを覆う厚い氷の層のわずかな「境目」を、寸分の狂いもなく一直線に切り裂いた。


――キィィィィィィィィィィィィンッ!


金属同士が高速で擦れるような、あるいは巨大なガラスが割れるような甲高い音が雪原に響き渡る。直後、重力という名の「強制的な力」が介入し、足元の氷壁が轟音と共に崩落を始めた。


だが、高地の覇者たる変異種の直感は、物理法則の強制力すらも凌駕しようとした。

 足場が崩れるその一瞬のタイムラグ。アイス・エイプは驚異的な脚力で崩れゆく氷壁を蹴り、奈落への落下を逃れるべく、安全な地盤へと向けて大きく宙へ跳躍したのだ。


(……やはり、単なる足場の崩落だけでは躱されるか。だが、空中に逃げることこそが『僕の計算通り』だ)


空中では、いかなる強靭な脚力を持とうと軌道修正は不可能。それはすなわち、完全な無防備状態を意味する。


「シノ、今だ!!」

「……『火球』、限界突破――!!」


僕の叫びと同時。先ほどのポーションによって魔力を完全に回復させていたシノが、温存していた魔力をつぎ込んだ最大級の火球を放った。

 空中に逃れ、回避行動が一切とれないアイス・エイプの巨体へ向けて、灼熱の塊が一直線に殺到する。


「ガ、アアアアアアッ――!?」


凄まじい爆発音。氷結の毛皮が炎の熱を相殺しようとするが、シノの魔法の真価は熱量ではなく、その「爆発による物理的な衝撃」にあった。

 空中で特大の質量弾をまともに浴びたアイス・エイプは、悲鳴と共に大きく体勢を崩し、今度こそ崖の向こう側――深い奈落の底へと、一直線に吹き飛ばされていった。


後に残されたのは、鋭く抉り取られた断崖の断面と、吹き荒れる猛吹雪の音だけだ。


(……想定外の敵の排除、完了だ)


僕は荒い呼吸を整えながら、辛うじて杖を支えに立ち続けた。

 脳内を支配していた凄まじい熱量は、魔力の完全な枯渇と共に急速に冷え切っていく。指先一つ動かすのにも莫大な「気力」を要求されるほどの極度な脱力感が、僕の意識を黒く塗り潰そうとしていた。


「……嘘でしょ。本当に、あんなバケモノを落としちゃったの……?」


リィンが震える声で呟き、ガラムもまた、折れた肋骨を押さえながら力なく笑みを浮かべた。場に一瞬、死地を脱したという甘い安心感が漂う。だが、その空気を無残に切り裂いたのは、血を吐き捨てるような重苦しい咳払いだった。


「……喜んでる暇はねえぞ。小僧ども」


リィンに飲ませてもらった下級ポーションにより、辛うじて自力で動ける程度まで回復したバルガスが、大剣を杖代わりに立ち上がった。その顔は依然として青白いが、眼光だけは鋭く崖下を射抜いている。


「あのアイス・エイプ……あの程度の高さからの転落じゃあ、絶対には死なねえ。あの強靭な体毛は、叩きつけられる衝撃をも吸収する。骨の数本は折れただろうが、数分もすれば、奴はたっぷりと『お返し』を上乗せして俺たちを皆殺しに追ってくるぞ」


「……何ですって!?」


リィンの悲鳴に、僕は思考の切り替えを強制し、再び「生き残るための作戦」の立案へと移行した。

 格上の魔物を崖下へ叩き落としたという事実は、一時的な時間稼ぎに過ぎなかったというわけか。


「バルガスの言う通りだ。安心という名の『思考停止』は死を招く。……リィン、シノ。バルガスとガラムを荷台に押し込め。荷馬車の重さのバランスや車軸のすり減り計算は一切無視していい、とにかく急いで乗せろ!」


僕は血の味のする唾を飲み込み、朦朧とする頭で次の指示を振り絞った。

 目標は数分以内の完全撤退。山頂観測所という名の「絶対的な安全地帯」に逃げ込むまで、この泥臭い戦いは決して終わらない。


「馬を潰す勢いで走らせる。……完全な全滅を避けるための、最後の逃走だ。急げ!」


僕は震える手で馬の手綱を握り直した。目前に迫った石造りの観測所。あそこへ辿り着き、重厚な扉を閉めるまでは、僕の意識を絶対に手放すわけにはいかない。


6-5. 戦力の枯渇:限界を迎えたパーティーと最後の逃走

視界のすべてを白く塗り潰す猛吹雪。それは、僕たちの生き残るという「絶対的な目的」を容赦なく削り取ろうとする、無慈悲な環境による負荷そのものだった。


(……魔力の残り、完全にゼロ。脳内の計算能力の維持率、一五パーセント以下。……実際の力の完全な枯渇だ)


僕は震える手で、氷のように冷え切った馬の手綱を握った。魔力が底を突いたことで、先ほどまで維持していた『局所加圧循環』による安全の余裕は完全に消え、酸素の極端に薄い大気がダイレクトに肺を焼き、心臓を激しく叩く。ただ一回の呼吸でさえ、莫大な命の消耗を要求される極限状態。


「急いで……! 荷馬車が重いなんて言ってられないわ。止まったら、あのバケモノに追いつかれる……っ!」


リィンが悲鳴のような声を上げ、血を流して荷台に横たわるガラムとバルガスを必死に支えている。魔力切れによる極度の疲労と低酸素状態は、僕たち人間だけでなく、荷馬車を引く馬たちの脚力さえも急速に奪い去っていた。一歩ごとに命を削るような重く鈍い足取り。奈落の底から這い上がってくるであろうアイス・エイプの幻影に怯えながら、僕の意識もまた、深刻な酸欠によって真っ白に塗り潰されようとしていた。


(……まずい、このままでは全滅だ……)


その時、荷台の隅でうずくまっていたシノが、意を決したように、激しく揺れる御者台へと這い寄ってきた。


「……キース、これ、使って」


吹雪にかき消されそうな微かな声。彼女はひどく顔を赤らめ、逃げるように視線を逸らしながら呟いた。


「今の私じゃ……魔力があっても、あの魔物と戦う役には立てないから」


次の瞬間、凍りついた僕の唇を、柔らかな感触が塞いだ。

 驚きに目を見開く間もなく、彼女の震える唇を通じて、温かく純度の高い魔力の奔流が、僕の完全に枯れ果てた魔力の通り道へと勢いよく流れ込んでくる。

 『魔力の直接譲渡』。それは魔法使い同士が、自分の命の源たる力を、文字通り他者へ無条件で分け与えるという、極めて親密かつ無防備な行為だった。


(……っ、空っぽだった通り道が、魔力で満たされていく……!)


突然の事態に対する驚きは、やがて彼女の決死の行いに対する、底知れぬ深い感謝へと変わった。死にかけていた僕の計算回路が、この「思いがけない外部からの力の注入」によって力強く再起動し、全身の血流に活力がみなぎっていく。

 僕は身を離したシノの細く冷たい手をしっかりと握りしめると、即座に最大出力の『局所加圧循環』をパーティー全員の気道へと再び展開した。


「……持ち直した。全員、存分に酸素を吸え! 安全の確保までの最後の駆け込みだ!」


僕の気力を振り絞った発破と、強制的な血中酸素濃度の引き上げに応えるように、馬たちが再び力強く雪を蹴り、パーティー全体に確かな活気が戻る。死の淵を綱渡りするような果てしない逃走の末、ついに白く濁った猛吹雪の向こうに、強固な石造りの「絶対的な安全地帯」がその姿を現した。


「……見えた……! 山頂観測所だ!」


観測所の巨大な石扉を、リィンとシノが死物狂いで叩く。中から現れた駐在の観測員たちが、血塗れでボロボロになった僕たちの惨状を見て、悲鳴を上げるのが聞こえた。荷馬車が建物の中へと滑り込み、重厚な石の扉が「ガツン」と腹に響く音を立てて閉ざされる。


外界の絶望と猛吹雪が、完全に遮断された。

 その瞬間、僕の脳内で極限まで張り詰めていた「意識」という名の細い糸が、音を立てて切れた。


「……小僧……おい、キース!」


怪我を押して身を起こしたバルガスの、ひどく焦ったような声が遠くに聞こえる。

 僕は御者台から崩れ落ちるように倒れ、冷たい石床の感触を最後に、すべての思考を停止し、深い意識の底へと沈んでいった。

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