第五章:昇格試験(高地への物資運搬と対人戦のテスト)
5-1. 組織の規律:過剰な優遇と特例試験の承認
「――Cランクへの昇格試験を受けるためには、ギルドの規定上、パーティー全体で一定の『貢献度ポイント』を稼ぐ必要がある。過去の昇格者のデータから逆算した結果、その目標値に達するまでに必要な期間は、僕の計算によれば正確に『三十日』だ」
Eランクとして再登録を果たした翌日。僕は冒険者ギルド『琥珀の爪』の円卓に、一枚の緻密な計画書を広げて宣言した。
「三十日!? おいおいキース、いくらなんでもそれは無茶だろ! 普通、DランクからCランクに上がるには、どんなに早くても半年から一年はかかるんだぞ!?」
ガラムが目を白黒させて身を乗り出す。隣ではリィンが呆れたようにため息をついた。
「そうよ。魔物との戦いは計算通りにはいかないわ。怪我をすれば数日は休まなきゃいけないし、武器の手入れや、森での野営で疲労が溜まれば、連日の依頼なんてとてもこなせないわよ」
「それは、君たちのこれまでの戦い方に『無駄な動き』が多すぎたからだ」
僕はリィンの至極真っ当な反論を、冷徹な事実で切り捨てた。
「僕の指示通りに動けば、君たちの疲労や怪我による消耗は限りなくゼロに抑え込める。つまり、休息日という無駄な時間を一切取らずに、毎日連続で依頼をこなし続けることができる。……今日から一ヶ月間、僕の言う通りに動いてみてくれ。必ず、最短距離でCランクの試験資格をもぎ取ってみせるから」
半信半疑の三人だったが、その「キース式・超効率化狩猟」の異常な成果は、一ヶ月間の地道な依頼消化の中で劇的な形で証明され続けることになった。
例えば、ある日の『森の暴れ猪』の討伐依頼でのことだ。
「ガラム、右から来るフォレストボアの足元を狙う。そのまま斧を振り下ろせ!」
僕が後方から初級の『空気塊』を放ち、突進してきた巨大な猪の足首に破裂させる。体勢を大きく崩し、無防備に前のめりに倒れ込んできたその首筋に、ガラムの戦斧が一切の抵抗なく吸い込まれた。ガラム自身は一歩も動かず、待ち構えて斧を振っただけだ。当然、彼が怪我を負う危険性は完全にゼロである。
また別の日。素早い動きが厄介なゴブリンの群れを討伐した際は、リィンの弓がその真価を発揮した。
「リィン、現在の風速は北西から二メートル。目標のゴブリンの移動速度から計算して、狙いを右へ指三本分ずらせ」
「……ほんと、口うるさいわね! これで外れたらあんたのせいだからね!」
リィンが文句を言いながらも僕の指示通りに矢を放つと、放物線を描いた矢は、逃げ惑うゴブリンの眉間へと吸い込まれるように突き刺さった。風や湿度の影響を完全に計算し尽くした指示により、彼女の矢の命中率は百パーセントを維持し、矢の無駄遣いによる「弾切れ」の心配が完全に消え去った。
さらに別の依頼、森の奥深くでコボルトの集落を制圧する任務では、シノの魔法が圧倒的な火力を誇った。
「シノ。五時の方向にコボルトの群れだ。最大火力を撃ち込め」
「……でもキース、これを撃つと私の魔力が……」
「気にするな。尽きたらすぐに、昨日渡したマナポーションを飲め。一切の出し惜しみは許可しない」
僕の『物質創造』によって毎日タダで支給される高品質なマナポーション。魔力切れという最大の恐怖から完全に解放されたシノは、まるで固定砲台のように強力な魔法を連発し、コボルトの群れを瞬く間に灰へと変えていった。
「……信じられない。三日かかるはずの討伐依頼が、半日で終わったわよ……。しかも私たち、汗一つかいてないじゃない」
依頼を受けるたび、夕暮れ前にはギルドへ帰還し、無傷のまま莫大な報酬を受け取る。
その圧倒的な効率の良さと、肉体的な疲労のなさに、ガラムたちは日を追うごとに僕の指示に対する絶対的な信頼を寄せるようになっていった。
5-2. 組織のルール:行き過ぎた特別扱いと特例試験の承認
そして、計画通りぴったり三十日が経過した日の朝。
僕はギルドの受付カウンターに、これまでにこなした依頼の達成証明書を、山のように積み上げた。
「エレンさん。これで僕の計算上、パーティー全員がCランクの昇格試験を受けるための『貢献度ポイント』を完全に満たしたはずだ。確認をお願いする」
「……う、嘘でしょ……。たった一ヶ月で、こんな異常な数の依頼をこなしたっていうの……?」
エレンさんは、信じられないものを見るように積み上げられた書類と、僕の後ろで欠伸をしている無傷のガラムたちを交互に見比べた。
「しかも、怪我による治療記録がゼロ。討伐対象の素材の欠損もほとんどなし。……キースくん、あなたたち、森で一体どんな魔法を使ったのよ」
「特別なことは何もしていませんよ。ただ、無駄を徹底的に削ぎ落としただけです」
僕は冷たい木板のカウンターを指先で軽く叩きながら、本題を切り出した。
「合理的な理由を説明しましょう。現在の僕のレベルはEランク相当ですが、僕の指揮による戦術的な効率化を加味すれば、この四人のパーティーの総合的な戦闘能力は、すでにCランクの基準を完全に満たしています。ならば、これ以上の無駄な下積みを省き、僕自身のDランクへの特例昇格と、彼らのCランク昇格を見据えた『合同の昇格試験』を今すぐ実施するのが、ギルドにとっても優秀な戦力を早く確保できるという点で、大幅な利益に繋がるはずだ」
「理屈はわかるわよ。この一ヶ月のあなたたちの実績は、間違いなく本物だわ。でもね、ギルドは絶対的な『信用』で成り立っているの。Cランクの足切りラインが厳格に決まっている以上、いくら実績があっても彼らをすぐに上げることはできないし、何よりあなたは一ヶ月前に特例でFからEランクへ上がったばかりでしょ?」
エレンさんは困ったように眉をひそめながらも、組織の窓口としての事務的な厳しさを持って続けた。
「再登録してたった一ヶ月しか経っていない新人を、さらに上のランクの試験に通すなんて、そんな『行き過ぎた特別扱い』は組織のルールとして認められないわ。他の地道にやっている冒険者たちから『不公平だ』って突き上げを食らったら、一体誰がその責任を被るの?」
(……理解はできる。組織という巨大な仕組みを円滑に運営する上で、既存の構成員の嫉妬や不満という名の『内部の摩擦』を抑えるための政治的な手間は避けられない。だが、客観的な数値による実力の証明がなされている以上、これ以上僕の時間を地道な実績作りに奪われるのは、極めて効率が悪いと言わざるを得ない)
僕は内心で苦々しく舌打ちし、脳内に描いていた最短での計画表を引き伸ばした。見知らぬ先人たちを破滅に導いた謎が眠る地下書庫の閲覧権限――「Cランク」という強力な資格。その壁は、僕の想定以上に高く、そしてひどくお役所的だった。
「どうした、エレン。朝から随分と騒がしいな」
不意に、背後から深く、静かな鈴の音のような声が響いた。
振り返ると、そこには豪華なローブを纏った一人のエルフが立っていた。若々しく美しい外見とは裏腹に、その両目には長い年月を生き抜いた者特有の、底知れぬ重圧が宿っている。このギルドをまとめるギルドマスターだ。
「あ、ギルドマスター! いえ、その……」
慌てて姿勢を正すエレンさんを余所に、ギルドマスターは手元にあった僕たちの「異常な一ヶ月の討伐記録」の束をパラパラと捲り、そして僕の全身をじっと一瞥した。
その瞬間、僕の脳内の計算機が、これまでにない激しい危険信号を鳴らした。まるで魂の奥底、僕の能力のすべてまで透かされているような、得体の知れない鋭い視線。
「(……なるほど、報告に上がっていた奇妙な効率化パーティーの頭脳は彼か。……興味深いですね。既存の法則から外れた、極めて未知の魔法の気配……。面白い)」
誰にも聞こえないほどの微かな独り言。だが、僕の耳には確かに届いた。彼は、僕の魂に刻まれた『神の理』の断片を、たった一度の目視で見抜いたというのか。
ギルドマスターはエレンさんの耳元へ顔を寄せ、周囲には聞こえない低い声で何事かを囁いた。エレンさんの顔が驚きに染まり、「マスター、本気ですか!? まだ彼は一ヶ月前に復帰したばかりで……」と慌てて確認するが、彼はただ満足げに小さく頷くだけだった。
エレンさんが慌ただしく僕の元へ戻ってくる。
「……キースくん、信じられないわ。ギルドマスターから直々に許可が下りたわよ。あなたたちのこれまでの異常な実績を評価して、特例での『Dランク昇格試験』の実施を認めるって!」
(……一気呵成にCランクとはいかなかったが、煩わしい順番待ちを大幅に短縮する許可が出たということか)
僕は驚きを隠しつつ、奥の執務室へと戻ろうとするギルドマスターへ向けて、静かな感謝の目礼を送った。彼はそれを楽しげに受け流し、優雅な足取りで喧騒の中へと消えていった。
「――それで、その試験の具体的な業務内容は?」
「ええ、ギルドマスター直々の指定よ。試験内容としては、山頂の観測所への物資運搬、およびそのルート上の完全な安全確保よ」
「試験には、ギルドが指名したBランク冒険者を『監査役』として同行させるわ。その熟練の目の前で、あなたたちがDランク、あるいはそれ以上の価値があるということを明確に証明してみせなさい。この難題を無事にクリアすれば、文句なしで君のDランク昇格と、ガラムたちのCランクへの昇格試験の権利を認める、というのがマスターの条件よ」
僕は渡された羊皮紙の依頼書を手に取り、背後に立つガラムたちの顔を見た。
僕の計画に、停滞という文字は存在しない。
「わかった。早速準備に取り掛かろう。ガラム、リィン、シノ。……利益を確定させるまでの最短ルートを、全速力で走り抜けるぞ」
5-2. 運搬管理の最適化:『管理者』としての計画
「――さて、今回の『大仕事』における損得の分かれ目を確認しておこう」
出発前夜。僕はガラムたちが泊まっている宿屋の安っぽいテーブルに、一枚の巨大な羊皮紙を広げた。そこには、目的地である山頂観測所までのルート図だけでなく、高さの変化に伴う気温の低下、酸素の減少率、そして荷馬を牽く馬の歩行速度の低下予測が、錬金術師の末裔としての緻密な計算に基づいたグラフとして描き出されていた。
「おい、キース。これ、ただの物資の運搬だろ? 荷物を積んで、襲ってくる魔物をぶっ飛ばしながら坂を登る。……それだけじゃないのか?」
ガラムが太い首を傾げながら、難解な図面を覗き込む。リィンも、僕が書き込んだ『湿度による弓弦の張力変化と命中率の計算表』を見て、呆れたように額を押さえていた。
「ガラム、その『それだけ』という大雑把な認識が、最も無駄な手間を食うんだ。いいかい、今回の僕の評価の対象は、ただ腕力を誇示することじゃない。『君たちという強力な戦力を、いかに効率的かつ無駄なく使ったか』だ。バルガスというBランクの『監査役』は、僕たちがどれだけ華々しく戦ったかではなく、どれだけ『無駄な汗をかかずに済ませたか』を厳しく見ている」
「無駄な汗、ねぇ……。あんた、戦いや山登りに汗や疲労はつきものよ?」
「いいや、リィン。それは精神論に頼った、古いやり方だ。僕の指揮下では、君の心拍数は常に一定の安全な範囲に保たれ、ガラムの大斧は一度も『硬い岩』を叩いて刃をすり減らすことはない」
僕が断言すると、それまで無言で図面を凝視していた魔法使いのシノが、小さな、しかし酷く澄んだ声で口を開いた。
「……この魔力の管理表。……合理的」
彼女は白く細い指先で、僕が書き込んだ高さの変化に伴う『魔力消費と環境への適応のペース配分表』をなぞった。
「シノ、高地における急激な気圧や気温の変化は、無意識のうちに魔法使いの魔力の通り道に多大な負担を要求する。万が一の事態に備え、君に事前に渡した高価なマナポーションを飲むタイミングは、僕の指示に厳密に従ってくれ」
「……飲むタイミングも、キースが決めるの?」
「あぁ。魔力が完全に底を突いてからでは、再び魔法を使うのに余計な負担がかかる。魔力が尽きる寸前、あるいは戦況の推移から僕が最適と判断したタイミングで、迷わず一気に飲み干してほしい。そうすれば、いかなる状況下でも『魔力切れ』という名の行動不能を完全に防ぎ、継続して魔法を撃つことが可能になる」
「……わかった。キースに従う。……その方が、私も余計なことを考えずに一番楽ができるから」
シノはわずかに口角を上げ、静かに頷いた。彼女の冷静な肯定と論理的な納得は、疑っていたガラムとリィンの空気を変えるには十分だった。
「目的地への確実な到着。荷物の無傷での引き渡し。そしてパーティー全員の完全な健康維持。これらを全て達成した上で、『戦闘による武器・防具の摩耗率五パーセント以下』を目指す。……これが、僕が自分自身に課した、今回のテストの合格ラインだ」
呆れ顔だった三人の顔に、少しずつ本気の緊張が走る。
彼らはようやく理解し始めていた。目の前のこの男が始めようとしているのは、単なる腕試しの冒険などではない。「死と隣り合わせの過酷な自然を舞台にした、極限の効率化と資源管理の実証テスト」なのだと。
(……さあ、バルガス。あなたのBランクとしての『経験と直感』という古い基準が、僕の『論理と管理』という最新の計画にどこまでついてこられるか、じっくりと見せてもらうよ)
僕は冷徹な笑みを浮かべ、翌朝の出発に備えて意識を深く沈め、静かな休息へと入った。
5-3. 監督者の同行:Bランク冒険者バルガスの実地テスト
「……おい、ガラム。この荷台の荷物のバランス、僕が引いた計算図面と合っていない。薪の配置が左に三センチ寄っている。これでは急な坂に差し掛かった際、馬車の重心がブレて右側の車軸に余分な負担がかかり、無駄な修理の手間を強いることになる」
出発当日の早朝。ギルド裏門に用意された木造の荷馬車の前で、僕は手元の羊皮紙の束を片手に、積荷の最終確認を行っていた。
「へいへい、三センチな。……なあキース、出発前からそんなにピリピリしてて心臓に悪くないか? 冒険ってもっとこう、野性の勘とか、その場の勢いとかが大事なんじゃねえのか?」
ガラムが苦笑いしながら、太い腕で薪の束をわずかにずらす。だが、僕は容赦なく首を振った。
「その『野性の勘』とやらで馬の心肺機能が回復したり、車軸の耐久力が回復したりするなら、僕は喜んで神殿に祈りを捧げるよ。だが現実は、無慈悲な物理法則にのみ従う。……リィン、予備の矢羽の防水処理は完了しているね? 高地は雲の中を歩くのと同じだ。湿気で弓弦の張力や矢の空気抵抗が変わり、命中率が数パーセントでも下がれば、それはそのまま『矢の無駄遣い』に直結する」
「はいはい、完璧に終わってるわよ。もう、キースが細かすぎて、出発前から私の脳みそが筋肉痛になりそう……」
リィンが大仰に溜息をつき、シノが静かに防寒具の最終確認を終えたその時、背後から重厚な金属音が近づいてきた。
「……ふん。朝から口やかましいガキがいると思えば、特例で再登録したっていうEランクか。だが、……レベル一桁の雑魚のそれじゃねえな。中堅のDランクに混じっても全く見劣りしねえぞ」
そこに立っていたのは、歴戦の凄みを感じさせる中年の男だった。全身に刻まれた無数の傷跡と、一点の曇りもなく手入れされた重い鎧。背負った大剣からは、放たれる魔力の圧力が、これまで出会った底辺の冒険者たちとは明らかに一線を画していた。
今回の昇格試験の監査を務める、Bランク冒険者のバルガス。彼は鋭い眼光で、僕の肉体を値踏みするように一瞥した。エレンさんが驚いたように、彼は僕の引き締まった肉体の恩恵と、周囲の空気を歪めるほど濃密に練り上げられた魔力の通り道の輝きを、一瞬で見抜いたのだ。
「受付のエレンから話は聞いていた。……『たった三か月の間に見違える程の異常な成長をした、元・借金奴隷のEランクがいる』とな。……小僧、お前、その数値でなぜEランクなんかに甘んじている? その『基礎の出来栄え』なら、すぐにでもDランクの稼ぎ頭になれるはずだぞ」
「初めまして、バルガス。……僕がEランクなのは、ギルドの制度上の『再登録』という非合理的な壁に阻まれた結果に過ぎません。今回の試験でその市場の不平等を正すつもりですので、厳格な監査のほどよろしくお願いします」
僕は彼の威圧感に微塵も怯むことなく、懐から一枚の書面を取り出し、彼に差し出した。
「これは今回の運搬ルートにおける気圧変化の予測表と、それに基づいた馬の体力の消費効率の計算結果。それと、万が一道中で盗賊や魔物の襲撃を受けた際の『最短で制圧する手順』です。……あらかじめ、僕の計画と評価基準を明確にしておきたくてね。あなたの採点表に、余計な偏見を挟ませないために」
「…………」
バルガスは僕が差し出した書類を無言で受け取り、不敵な、ひどく獰猛な笑みを浮かべた。
「……制度の不備で埋もれている有望株か、あるいはただの口先だけのガキか。……いいだろう。お前のその理屈が、酸素の薄い過酷な山頂でどれほどの力を発揮するか、じっくりと見極めさせてもらう」
こうして、熟練のBランク冒険者さえも興味を抱く「異質な新人」を実質的なリーダーに据え、僕たちの昇格試験という名の『物資運搬のテスト』が動き出した。
5-4. 対人戦の効率化:環境の操作による絶対的な制圧
出発前日、僕は事前の準備として、自らの魔力と『神の理』を用いた準備を実行していた。
意識を集中し、固有スキル『物質創造』を起動する。貴重な「SP」を2ポイント消費し、シノの魔力切れを防ぐための、純度の高い高価なマナポーションを一本作り出した。
その後、僕はギルドに併設された露店街の装備市に足を運んだ。限られた手持ち資金を、どの「装備」に使うべきか、それが割に合うかどうかを厳密に計算するためだ。
まず選んだのは、市場の隅で埃を被っていた、実用性のみを追求した地味な木杖だった。余計な装飾は一切ないが、魔力を通しやすい古木の芯材だけを削り出して使っているため、魔力を通した際のロスが極めて少ない。
それに加え、自身の防御力を底上げするための丈夫な新しい皮鎧と、接近戦の護身用として取り回しの良いショートソードを購入した。
これらの一括投資により、僕が鉱山での後半一ヶ月――低級ポーションの服用を絶ち、己の肉体と魔力のみで過酷な環境を耐え抜いたことで、毎日大銀貨一枚をコツコツと貯め込んだ全財産は、見事に底をついた。だが、これは決して「無駄な出費」ではなく、任務をやり遂げる確率を極限まで高めるための「どうしても必要な事前の出費」だ。
そして当日。王都の北門を抜け、荷馬車は緩やかな登り坂へと差し掛かった。街道沿いののどかな田園風景は、数時間の移動を経て、険しい岩肌とまばらな針葉樹が目立つ山道へと、その様相を徐々に変えていった。
「……蹄の音が少しずつ重くなっているな。坂の変化に対して、馬の呼吸が完全に追いついていない」
僕は馬車の御者台で、馬たちの鼻息や足取りを冷徹に注視し、手元のメモ帳に記録していく。他者の所有物である馬に対して、魔力による直接的な身体強化は副作用の危険があるためできない。だが、環境の変化がもたらす「体力的な負担」の増大を予測し、ペースを調整することは可能だ。
バルガスは荷台で積まれた物資に背を預けるように座り、腕を組んでいた。険しい山道に大きく揺られながらも、その肉体の軸は一切ブレることなく、鋭い眼光で僕の動きを監視し続けている。
やがて、道は深い霧が立ち込める森林地帯へと差し掛かった。湿気が急激に増し、視界が極端に悪くなる。
不意に、街道脇の茂みが不自然に揺れ、鋭い殺気が放たれた。
「――そこまでだ、お坊ちゃん冒険者共! 命が惜しけりゃ、荷物を置いて大人しく消えな!」
三人の男たちが、手慣れた連携で馬車の行く手を遮るように躍り出た。ボロ布を纏ってはいるが、その滑らかな足運びや武器の構えには一切の無駄がない。どう見ても、その辺の飢えた素人の野盗とは思えない統率された動きだ。
「来たかっ! キース、俺が前に出て時間を稼ぐ! その間にリィンは矢を――」
ガラムが反射的に背中の大斧へ手をかけようとしたが、僕は購入したばかりの木杖をスッと突き出し、その逞しい腕を静かに制した。
「待て、ガラム。斧は不要だ。……君の斧の刃をすり減らすのは、この任務における『損害』としては大きすぎる」
「はぁ!? 何言ってんだ、襲われてんだぞ! 手加減してたらこっちがやられちまう!」
僕はガラムの至極真っ当な困惑を完全に無視し、御者台から立ち上がると、木杖の先端を静かに賊たちに向けた。
脳内で展開するのは、地底の閉鎖空間で培った「空気の成分と密度の管理」に関する錬金術の数式。本来は坑道内の有毒ガスや粉塵を濾過するための魔法を、僕は「特定の領域における空気の密度」を極限まで引き下げるように、その仕組みを強引に書き換えた。
「【魔法創造:風魔法・局所減圧展開】」
木杖の先から微かな震動が伝わる。魔法の波動は極めて静かで、派手な光も音もない。だが、その効果は劇的かつ暴力的だった。
襲撃者たちの頭部周辺、およそ半径五十センチの空間だけが、一時的に「標高一万メートル以上の、空気が極度に足りない極薄の空間」へと変貌する。
彼らの肺が、突如として失われた空気を求めて喘ぐが、そこには人間の意識を保つための十分な空気は存在しない。脳が致命的な危機を察知し、防衛本能によって強制的に意識を遮断させるまで、わずか三秒。
「ガハッ……!?」
「……ぁ、」
どさり、どさり、と。金属音すら響かせず、力なく地面に崩れ落ちる三人の男たち。
血の一滴も流れない、あまりに静かで完璧な制圧だった。
「……制圧完了。かかった時間、三・八秒。消費した魔力は下級魔法二回分に相当。こちらの損害はゼロだ」
僕は事も無げに結果を口にし、再び馬の手綱を握り直した。
後ろで黙って座っていたバルガスが、大きく身体を乗り出し、信じられないものを見るように目を見開いて僕を凝視した。
「……貴様、今何をした? 確かに魔法の発動は感じたが、火炎のような魔法的な攻撃も、風の刃のような物理的な衝撃も全くなかった。奴らはただ、急に見えない手で首を絞められたように眠って倒れたぞ」
「……ええ。彼らの周囲の空気を、極限まで薄くしただけですから」
僕が淡々と答えると、バルガスはピクピクと痙攣して倒れている男たちを一瞥し、すべてを察したように低く、そして楽しげに唸った。
「……ははっ、こいつは傑作だ。第一関門合格だよ、キース。こいつらはただの野盗じゃない。お前たちの試験のために、ギルドがあらかじめ手配していた『賊役』の教官たちだ」
バルガスが口にした突然のネタばらしに、僕の背後でガラムたちが「えっ!?」と間の抜けた声を上げる。
「教官はキース、お前の魔法の効果を確かめることも兼ねて、ある程度の魔法を弾くための耐性のお守りや装備をあらかじめ身につけていたはずだ。だが、それらは高熱や衝撃、人体への直接的な魔力の侵入を防ぐためのもの……。まさか『自分が呼吸している空間の空気が、突如として消え失せる』なんて事態までは想定していなかった。防ぎようがなかったわけか」
「直接的な攻撃魔法なら、装備の性能によって防がれる危険があります。ですが、彼らを取り巻く『環境そのもの』を変えてしまえば、彼らの防具は『防ぐべき攻撃』をそもそも感知できません。極めて効率的で、理にかなった制圧のやり方ですよ」
僕が答えると、隣で杖を構えて待機していたシノが、驚きと戦慄を含んだ声で補足した。
「……信じられない。魔力の密度が……まるで針の先みたいに細く、鋭かった。……対象の口元という極小の領域だけを狙って、空気の圧力をピンポイントで変えた。……そんなの、要求される魔力の操作が精密すぎて、普通の魔法使いには絶対に無理」
「鉱山という劣悪な閉鎖環境では、空気のわずかな質の変化が、そのまま自分の死という最大の結果に直結します。僕はその『死の危険』を、相手を殺さない範囲で他者に押し付ける術を学んだだけですよ。バルガス、彼らは数分もすれば後遺症もなく目を覚ますでしょう。後腐れもなくて、実に効率的だと思いませんか?」
物理的な強さと派手な魔法の破壊力のみを信じる、ベテラン冒険者の凝り固まった常識。僕はそれを、錬金術師の末裔としての冷徹な論理の力で、いとも容易く塗り替えていく。
(さて……対人戦のテストは、これで十分な成果を見せられただろう。……次は、高さの上昇に伴う『環境による負担』という見えない敵との戦いだ)
僕は、遠く霧の向こうに見える白銀の山頂を静かに見据え、次なる『環境による負担』という見えない敵への対策に向け、脳内の計算速度をさらに一段階引き上げた。
5-5. 環境による負担の増大:高地における「見えない負担」
標高が二千五百メートルを超えたあたりで、山の様相は一変した。
急な斜面には万年雪が混じり始め、吹き付ける風はナイフのように鋭く冷たい。だが、何より僕たちの進むのを妨げていたのは、目に見える障害物や魔物ではなく、「空気の薄さ」という避けられない環境による負担だった。
「……はぁ、はぁ……っ。おい、キース。なんだか、急に体が鉛みたいに重くなって……きたぜ……」
頑丈なガラムでさえ、額に大粒の汗を浮かべ、肩で息をしている。弓を杖代わりに突いているリィンも、言葉を発する余裕すらなさそうだ。さらに深刻なのは、荷馬車を引く二頭の馬だ。大きく鼻を広げ、荒い呼吸を繰り返しているが、血中の熱を逃がしきれず、足運びは目に見えて鈍っている。
(高さが上がったことによる空気の密度の低下。肺への酸素の供給効率が平地の七割にまで落ちている。……これは、命に関わる過剰な消耗だ)
荷台に座っていたバルガスが、腕を組んだまま僕の背中に声をかけた。
「……どうする、リーダー。このまま強行すれば、山頂に着く前に馬が潰れるぞ。ここで休憩をして呼吸を整えるか、あるいは積荷の一部を捨てて軽くするか。お前はどう対応する?」
「休憩という名の時間の無駄も、積荷を捨てるという損切りも、今の時点では一番良い解決策ではありません。……どちらも任務をやり遂げるまでの時間と手残りを損なう」
僕は御者台から立ち上がり、古木の杖を水平に掲げた。
「シノ、リィン、ガラム。一歩も止まるな。……これから、君たちの『燃費』を強制的に改善する」
僕は脳内で、先ほど賊を制圧した際の錬金術の数式を「反転」させる。対象の領域の空気を抜くのではなく、周囲に散らばる薄い空気をかき集め、一定の空間内に「圧縮」して保つ。
「【魔法創造:風魔法・局所加圧循環】」
僕が展開したのは、馬の鼻先、そして仲間たちの口元から数センチの範囲のみを覆う、「極小の高密度な空気の膜」だった。木杖を起点に、目に見えないほど細い魔力の糸が、正確に一人一人の気道へと伸びていく。
「……っ!? 息が……、空気が、濃くなった……?」
ガラムが驚きの声を上げ、大きく息を吸い込んだ。それまで喘いでいた馬たちが、弾かれたように顔を上げ、再び力強く蹄を鳴らし始める。
「……信じられない。魔力の流れが、多角的……。……一人一人の呼吸に合わせて、必要な分だけ、空気を送り込んでる。」
シノが自らの杖を握り締め、戦慄を含んだ声で呟いた。彼女のような魔法使いからすれば、この「個別で動きに合わせた供給の管理」がいかに異常な精密作業であるかが理解できるのだろう。
この異常なまでの魔力のコントロール。それは決して、生まれ持った才能などではない。
(……当然だ。僕はあの地獄の北の鉱山で、三ヶ月間、一秒たりとも欠かさずこの魔法を使い続けてきたんだからな)
暗く、埃と粉塵に満ちた地底。一度でも魔法を途切れさせれば、肺を病み、あるいは酸欠で意識を失い死に至る――。そんな究極の死線上で、僕は毎日、自分の命という最も高い対価を削りながら魔力を練り続けてきた。
九十日間に及ぶ「死の連続」を経て、僕の魔力制御能力と計算処理速度は、もはやCランクの中堅魔法使いにも匹敵するレベルにまで叩き上げられていたのだ。
5-6. 後方支援:魔力による心肺機能の底上げ
本来、これほどの高さで環境を維持する魔法を使い続けるのは、Cランク以上の魔法使いでも困難だろう。広範囲の環境を変えるには、莫大な魔力という「対価」を支払い続けなければならないからだ。
だが、僕のやり方は違う。
「必要な場所に、必要な時だけ、必要な分量を届ける」
徹底して極限まで無駄を省いた供給のやり方。上級魔法使い並みの精度をもって魔力を一点に集中させることで、消費量は通常の環境魔法の十分の一以下にまで圧縮されていた。
「……バカな。なぜその僅かな魔力消費量で、これほどの速度を維持できる? 馬車が、平地と全く同じペースで坂を登っているだと……?」
バルガスは、信じられないものを見る目で僕と、そして軽快に走り始めた馬車を見ていた。彼が知る「冒険」の常識では、高地は耐える場所であり、速度を落とす場所だった。だが、今の僕たちは環境による負担を完全に無くして進んでいる。
「……バルガス。根性や精神力で坂を登るのは非効率の極みです。物理的な壁が『空気の薄さ』にあるなら、それをピンポイントで改善するほうが、よほど安上がりだと思いませんか?」
予定時間を三割も短縮し、霧の向こうに山頂観測所の石造りのシルエットが見えてきた。
後方支援という名の「働かずに生きるための投資」は、あと数百メートルの完走をもって無事に完了するはずだった。
(……視界良好。馬の消耗も許容範囲内だ。これで僕の評価は揺るぎないものになる)
そう確信した瞬間だった。
荷台に座っていたバルガスの身体が、弾かれたように硬直した。
「――待て! 全員止まれ!!」
これまでの余裕はどこへ消えたのか。バルガスの声は、喉を掻き切るような焦りに震えていた。
彼の周囲の魔力が、迎撃態勢を意味する鋭い波動へと一変する。Bランクという「戦いの最前線」で数多の修羅場を潜り抜けてきた彼の直感が、霧の奥深くから漏れ出す異常な「魔力の歪み」を捉えたのだ。
「チッ、嘘だろ……。この威圧感、ただの魔物じゃねえ。……『環境そのもの』を塗り替えやがった。……おいお前たち! 今すぐ戦闘態勢を取れ! 死にたくなければな!!」
バルガスは大剣の柄を握りしめ、顔を青ざめさせて霧を凝視している。
僕にはまだ敵の姿は見えない。だが、バルガスの肌を刺すような重圧と、空気を物理的に震わせる重苦しい咆哮が、事態が「監査役の想定」を大幅に超えたことを告げていた。
(……不測の事態か。僕の完璧な計画書に、無理やり大損をさせようとする不届き者がいるらしいな)
僕は舌打ちを一つ。
だが、脳内は驚くほど冷徹だった。僕は素早く手綱を固定して御者台から飛び降りると、馬車を強固な盾として利用できる安全な後方へと身を滑り込ませた。木杖を握り直し、瞬時に「戦力の再配置」の計算を開始し、即座に矢継ぎ早の指示を飛ばした。
装備の摩耗率五パーセント以下の目標を破棄。パーティー全員の生存を最優先とする「非常事態宣言」を発令。
「バルガス、警告感謝します。これより全魔力を戦闘支援へ移行する!」
これまでのペース維持から、瞬間的な出力の強化へと魔力の運用を切り替える。バルガスを含めた全員の気道へ展開している『局所加圧循環』の圧力を強制的に引き上げ、血中酸素濃度を極限まで高めることで、彼らの「身体能力」を酸素の過剰供給により強制的に底上げする。
「ガラム、物理的な『盾』として馬車の右前方十五度へ出ろ! リィンは荷台を盾として利用し、安全な射線を確保!」
即座に前衛と遊撃の立ち位置を指定し、馬車という守るべき対象を背にした最も効率的な迎撃の陣形を作らせる。
「シノ! お前の魔力はまだ百パーセントのはずだ! 最高火力の魔法で先制攻撃を叩き込め! 尽きたらすぐにマナポーションを飲み干すんだ!」
道中で魔力を完全に温存させていたシノに対し、彼女が持つ魔力を今ここで全てつぎ込ませ、空になった瞬間に作り出しておいた「マナポーション」ですぐに補充させる計画を組む。
「存分に暴れろ! 火力を叩き込む手を休めることは死に直結する!」
僕は馬車の陰から木杖を強く振り下ろし、脳内の計算機能を平時の管理から戦闘モードへと完全に切り替えた。霧の向こうから、巨大な影が地響きを立てて躍り出る――。




