第二章:不本意な探索
2-1. 絶望の足取り、泥沼の博打
夜明け前の町『ラグリマ』は、まるで巨大な不良債権の山のように、重苦しく息の詰まるような沈黙に包まれていた。湿り気を帯びた濃い霧が石畳の隙間を這い回り、街灯に灯された魔法火は、魔力残量の限界を告げるように弱々しく明滅を繰り返している。その死に絶えそうな光景は、今の僕の破綻寸前の懐事情をそのまま鏡に映し出しているようで、酷く不愉快だった。
カツーン、カツーン……。
静寂を無慈悲に切り裂く、乾いた不規則な足音。それが、泥を啜るような自分の惨めな歩行リズムだと自覚するまでに、数秒の遅れを要した。
僕、キースは、昨日のゴブリン戦で負った深手による拍動という、不快極まりない生体警告に苛まれていた。胃袋は空っぽを通り越し、強い酸が自らの内壁を溶かし始めているような強烈な飢えを訴えている。視界はチカチカと明滅し、平衡感覚は常に損なわれ、酷い眩暈に耐えながら西の森へと続く街道を這うように進んでいた。
(……最悪だ。一歩歩くたびに、昨日神殿で高い金を払って受けた『奇跡(暫定処置)』が、古くなった接着剤のように剥がれ落ちていく音がする。……これほど割に合わない移動が、かつての僕の人生にあっただろうか?)
脇腹の傷がズキリと疼くたびに、脳内の冷静な自分が「完全な赤字だ、今すぐ歩くのをやめろ」と警告の鐘を鳴らし続ける。視界の端で踊る光の粒は、もはや生命維持の限界を知らせる深刻な危険信号にしか見えない。だが、今の僕に「引き返す」という贅沢な選択肢は存在しないのだ。今日という日の太陽が天辺に昇りきるまでに、金貨一枚(一万銅貨相当)という、僕のような底辺冒険者の平均年収を軽く超越する天文学的な借金を返す目処を立てなければ、僕の人生は完全に終わる。
もし返済が一日でも滞れば、僕という人間は「キース」という個人の名前から「借金奴隷一二四〇号」という単なる番号へと格下げされる。自由という名の、僕が最も大切にしていたものを全てギルドに奪われ、北の極寒の鉱山で、死ぬまで冷たい石を砕き続ける二、三年の強制労働を強いられることになる。
(……一万七千時間を超える、一円の利益も生まない強制労働。最小の労力で生きることを掲げる僕にとって、それは人生の完全なる破綻に他ならない。そんな地獄のような無駄な時間を過ごすくらいなら、今ここで野垂れ死ぬ危険を冒してでも一発逆転を狙う方が、まだ計算上の見込みは高いじゃないか)
右手に固く握りしめているのは、昨日の惨敗の証である、刀身の半ばから無残に折れ曲がった短剣の柄。そして懐には、父の形見の二重底から見つかった、あの呪わしくも神々しい——今や僕にとって唯一の『一発逆転の賭け』となった古い地図と羊皮紙が収まっている。
目的地は、昨日僕の「完璧な計算」を嘲笑うように狂わせた、あの狡猾なゴブリンの群れが陣取っていた古代都市の廃墟だ。
地図に添えられていた、見知らぬ先人たちが残した無残な手記の内容が脳裏をかすめる。
一人目:『神の理』を手にし一度は富を得るも、大戦にて戦死。
二人目:『神の理』の力を振るうも、厄災に呑まれ惨殺。
三人目:何も成せぬまま、この世の果てで寿命により絶命。
(……惨殺に戦死、そして孤独死か。まったく、どいつもこいつも『要領の良い』人生とは程遠い最期を遂げてやがる。だが——)
僕の目は、一人目の記録に刻まれた『富』という、黄金色に輝く二文字に吸い寄せられて離れなかった。この地図の先にあるという『神の理』。それがどのような性質のものかは、今の僕には計り知れない。だが、もしそれが金貨一枚の借金を即座に返済し、さらにお釣りが来るほどの莫大な金に繋がっているのだとしたら。
(……借金奴隷として過ごす一万七千時間をドブに捨てることに比べれば、この泥沼の博打に命を全額ベットするのは、極めて合理的な判断だ)
僕は眩暈を無理やり頭を振って追い払い、湿った森の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「正面切っての直接的な戦闘なんて御免だ、見知らぬ先人たち。あなたたちが遺したこの呪いのような『負の遺産』、僕が最も効率の良い手法で金に換えてやりますから」
今の僕にあるのは、袋小路に追い詰められたドブ鼠のような執念深い生存本能と、強欲なまでの「働かずに得る金」への渇望だけだ。僕は痛む脇腹を強く押さえ、夜の帳が解け始め、青白い朝霧に包まれた西の森へと、その身を投じた。
2-2. 遺跡の共鳴、そして崩落
どれほどの時間を、死人のような鈍い足取りで泥濘を這い進んだのだろうか。西の森の最深部、目的の遺跡へと近づくにつれ、僕の神経は極限まで張り詰めていた。
昨日、僕の甘い計画を粉砕したあの狡猾なゴブリンの群れ。五体のうち、二体は僕を取り逃がし、確実に生き残っている。もし奴らがまだこの周辺を縄張りとして徘徊し、木の上から僕の動向を監視していたとしたら。まともな武器すら持たない瀕死の僕など、一瞬で死に追いやられるだろう。
(呼吸音、足音、すべてが命を削る『無駄な出費』だ。極限まで気配を殺せ。奴らの視界に入ることだけは絶対に避けなければならない……!)
息を殺し、木々の陰から陰へと慎重に移動を重ねる。歪なほどに生い茂り、陽光を遮るほどに肥大化した大樹の隙間から、ようやく視界が開けた。その先に、目的地は静かに横たわっていた。
そこは、数百年前に数多の冒険者たちや王都の学者たちによって調査し尽くされ、すでに価値を完全に失ったとされる古代都市の端れ――崩れかけた礼拝堂の跡地だった。周囲にゴブリンの気配はない。どうやら奴らも、餌の少ないこの廃墟の奥深くにまでは執着していなかったようだ。
(……ようやく、到着したか。ここまでの移動にかかった労力と、極度の緊張による精神的摩耗を考えれば、これで手ぶらなら僕の人生の計算は完全にパンクだぞ……)
僕は震える膝を叩き、地面を這いずるような姿勢で「隠された遺産」の痕跡を捜索し始めた。一時間、二時間。無情にも太陽は天辺を越え、森の湿った空気が容赦なく体温を奪い、じわじわと残された体力を削り取っていく。
「……何も、ない。……冗談だろう? 価値ゼロどころか、ただ探す労力だけがかさむ完全なハズレ物件じゃないか!」
僕は思わず膝をつき、指先を泥だらけにしながら、荒れ果てた石畳の隙間をなぞった。期待していた魔力の残滓すら微塵も感じられない。金貨一枚という莫大な借金、そしてその先に待つ数年の強制労働という名の「人生の破綻」が、鋭い刃のように首筋にピタリと突きつけられた錯覚に陥る。
その絶望的な静寂の中、僕の懐に収めていた「アレ」が、突如として異様な熱を帯び始めた。
父の遺品の古書から見つけた、あの青白い燐光を放つ未知の羊皮紙だ。
「……な、なんだ? 燃えているのか……!?」
熱を帯びたそれを取り出すと、表面に刻まれた禍々しい文字が、脈打つような強い光を放っていた。その青白い光の波紋は、まるで水面に落ちた雫のように、僕の足元にある古い石畳の隙間へと急速に広がっていく。
(……魔力の共鳴反応? いや、この羊皮紙自体が、この遺跡に隠された古代の仕掛けを起動するための『物理的な鍵』だったのか……!?)
錬金術師の末裔としての直感が、足元で急速に組み上がっていく巨大な魔術の仕組みを幻視する。羊皮紙に記された『神の理』への道筋が、数百年もの間眠っていた礼拝堂の深部と繋がり、強引にその門を開こうとしているのだ。
だが、その古代の仕掛けは、数百年に及ぶ放置によって、致命的な老朽化を迎えていたらしい。
――メキッ、ズゥゥゥゥゥンッ!
強引な魔力の起動に耐えきれず、礼拝堂の最奥にあった巨大な天使の彫像が土台ごと崩壊した。それを皮切りに、床の石畳に走っていた見えない魔力回路が暴走を起こし、次々と連鎖的な爆発を伴って弾け飛んでいく。
「(――ッ!! 嘘だろ、建物の強度が完全に限界を突破している……!)」
逃げる暇などなかった。ついに構造的な支えを失った床が、広範囲にわたって一気に崩落を引き起こしたのだ。
重力からの唐突な解放。
僕の身体は、崩れ落ちる巨大な石畳の破片とともに、真っ逆さまに暗黒の底へと堕ちていく。凄まじい落下の風圧と、内臓が浮き上がるような絶望的な浮遊感の中、僕の意識は、底の見えない深い闇の中へと強制的に暗転していった。
2-3. 禁忌の祭壇と二冊の神の理
どれほどの時間が経過したのだろうか。肺の奥深くに溜まった古い砂塵を、喉が焼けるような乾いた咳と共に激しく吐き出し、僕は重い瞼をどうにか押し上げた。
(……生存を確認。だが、身体の消耗が激しすぎるな)
全身を襲うのは、鉛を直接流し込まれたような鈍い打撲の痛みだ。わずかに指先を動かすだけで骨格が嫌な音を立てて軋み、凄まじい「治療費」を即座に要求するような悲鳴を脳内に響かせる。だが幸いなことに、手足の感覚は残っている。致命的な骨折という名の「完全な行動不能」だけは、どうにか免れたらしい。
仰向けに寝転んだまま、霞む視界で頭上を見上げれば、遥か高みに自分が自由落下してきた崩落の穴が、針の先ほどの小さな光の点として見えた。垂直距離にして、優に数十メートル。現在の僕には、この絶壁を登るための道具も、それを実行するための体力も残されていない。
(……物理的な意味で、人生の計画が完全に暗礁に乗り上げたな)
泥だらけの顔を拭い、周囲を見渡せば、そこは湿った土の臭いと冷え切った岩肌に囲まれた、未開発の天然洞窟だった。唯一残されたルートは、地下のさらに奥へと口を開けた、闇という名の「不確定要素」が詰まった細い横穴だけだ。僕はふらつく足取りでどうにか立ち上がった。腰に手をやると、昨日の惨敗で価値を完全に失った短剣の、無残な柄だけが寂しく残っていた。
僕は湿った壁を支えにして、光の届かない暗闇へと足を踏み入れた。
そこからは、まさに「理不尽な苦行」の連続だった。一歩踏み出すごとに、壁を伝う手が泥に汚れ、服という名の初期装備が岩の鋭い角に削られては、容赦なくボロボロになっていく。数分歩くごとに脇腹の古傷が疼き、僕はその場に蹲って、荒い呼吸を整えながら休むことを余儀なくされた。
(……クソ。歩くという基本動作の燃費がこれほど悪いなんて。せめて、あと一時間早く損切りして森から逃げていれば、こんな無駄な体力を消費せずに済んだのに……)
時計も日光も存在しない地下において、五感すら曖昧になる彷徨は、感覚的には数時間にも及んだ。徐々に体温が奪われ、意識の明瞭さが目に見えて低下し始めたその時、洞窟の壁面の質感が唐突に変異した。
ただの土でも、ありふれた岩石でもない。滑らかに磨き上げられ、内側から微かな青白い燐光を放つ、深い藍色の未知の物質だ。
通路を進むにつれ、周囲の空気はひやりと澄み渡り、そこには言いようのない荘厳な静寂……あるいは「徹底的に管理された沈黙」が満ちていった。
「……何だ、これ。この建築様式は今の世の中には出回っていないな。既存の建築学を超越した、究極の効率化を感じる」
通路の造形は、滑らかな曲線が不自然な角度で交差しつつも、全体として一つの巨大な機能美を形成していた。壁面には微かな魔力の流れを感じさせる溝が規則正しく刻まれ、まるでこの遺跡全体が巨大な「魔力回路」であるかのような錯覚を覚える。錬金術師の末裔としての僕の知識を総動員しても、この材質の組成を特定することは不可能だった。
やがて、通路の突き当たりに、圧倒的な威容を誇る巨大な「防護門」が現れた。
「……取っ手も鍵穴もなし。それにこの材質……鉄でも鋼でもない。見たこともない白銀色の希少金属だ」
高さは五メートルを優に超え、その表面には吸い込まれるような精緻な幾何学紋様が刻まれている。僕がその冷たい表面にそっと触れた、その瞬間だった。
ズゥゥゥゥ……ン……ッ。
重厚な、地響きのような振動が空間を震わせる。巨扉が、僕という「資格を持った人間」の接触を待っていたかのように、ゆっくりと左右に分かたれていった。
扉の先。そこに広がっていたのは、数千年の時を止めたまま、外の世界に見つかることを拒み続けてきた「聖域」だった。広大な円形の広間の中心には、白銀の光を放つ祭壇が鎮座していた。祭壇の背後には、天を突くような巨大な石碑が立っている。そこに刻まれているのは、流麗でありながら意味の通じない、未知の言語の羅列だった。
(……読めない。少なくとも今の公用語とは体系が全く異なるな……)
僕の知識の引き出しには一切合致しない。だが、その文字には確かな知性と、圧倒的な「上位の力」が宿っていることだけは、本能が理解できた。
だが、僕の目を最も強く惹きつけたのは、その祭壇の上に置かれていた「二冊の古書」だった。装丁はひどく古びているが、その表紙に浮かび上がった文字だけは、なぜか莫大な「利益」の予感とともに僕の脳内に鮮明に染み込んできた。
『物質創造』 『魔法創造』
「……これ、は……?」
吸い寄せられるように、僕は祭壇へと歩を進めた。僕の泥だらけの手が、期待と恐怖に震えながらその重厚な表紙に触れる。
――パァァァァッ!
触れた瞬間、一冊の本が激しい光の粒子となって砕け、僕の身体という「器」へと直接吸い込まれていった。同時に、僕の脳内に感情を完全に排した無機質な声が響き渡る。
『適合者の認証を完了しました。固有の理の継承を開始します』
『物質創造:あらゆる理を超え、無から有を紡ぐ神の理』
『SP 5/5:ポイントを消費することで、認識した物質を生成します』
「なっ、消えた……!? 本の形をした、知識の結晶そのものだったのか」
続いて、震える手でもう一冊の本に触れる。それもまた、眩い光となって瞬時に僕の身体へと溶け込んだ。
『魔法創造:既存の数式を棄て、自分だけの法を綴る神の理』
『最初の魔法を選択してください』
「……魔法……? ……はは、笑えないな。こんなもの、金貨一枚どころの価値じゃない。神話の時代に由来する途方もない遺産を、独占で手に入れたようなものだ」
手元には、もう実体としての本は残っていない。だが、僕の魂の奥底には、確かに見たこともない巨大な「見返り」を生み出す力が根付いていた。僕は乾いた笑いを漏らしながらも、本能的にその禁忌の力を掌握し、最速で現状の大赤字を覆すための「次の一手」を練り始めた。
2-4. 効率主義者の「高望み」と、そよ風
神の理と呼ばれた二冊の本が光の粒子となって僕の輪郭を叩き、その奥へと溶け込んでいった後、広間には再び耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。僕は全身の痛みを引きずりながら、この「聖域」に他に金目のものが残されていないか、あるいは脱出用の抜け道がないか、祭壇の周囲を隈なく調査して回った。
(……期待値はゼロか。文字通り、僕と石碑と、空になった祭壇以外には何一つ残されていないな)
僕は力なく祭壇の縁に腰を下ろした。ひんやりとした白銀の感触が、破れたズボン越しに伝わってくる。自分の中に新しく刻み込まれた力――獲得した能力の詳細を、震える手で脳内に展開した。
(まずは『物質創造』だ。あらゆる理を越え、無から有を紡ぐ神の理。これこそが、僕の人生のどん底状態を劇的に改善する究極の鍵になる)
その詳細を確認すると、脳裏に無機質で簡素な文字が浮かび上がった。
【固有スキル:物質創造】
SP(創造ポイント): 5/5
※SPは二十四時間につき「1」回復します。
「……回復のペースが一日あたり『1』だと? 随分と厳しい燃費だな」
あまりの効率の悪さに眩暈を覚える。だが、イメージした物質を無から作り出せるなら、最短ルートでこの膨大な借金を清算できるはずだ。僕の脳内にある算盤は、強欲な欲望のままに一つの最適解を叩き出した。
「よし……『金貨』、創造!」
『SPが不足しています』
「は? ……不足? 最大値の『5』を全額投入して、金貨一枚すら作れないのかよ!」
僕は混乱する頭で、即座にこの拒絶の理由を考えた。
金貨一枚の重さなど、たかが数十グラムに過ぎない。もし純粋な「質量」や「体積」に比例してSPが消費される仕組みなのだとしたら、最大値の5SPを消費しても小石一つすら作り出せないことになり、この『神の理』は完全なハズレ能力ということになってしまう。
(……質量や体積が基準ではないとすれば、何だ? お金という構造の複雑さか? いや、ただの型押しされた金属片に過ぎないぞ。……だとすれば、材質そのものの『希少性』、あるいはこの世界における『市場価値』が、消費コストの基準に直結していると推測するのが妥当か……?)
仮にそうだとすれば、見事に辻褄は合う。金という希少金属は、ただ存在するだけで膨大な価値を持つものだ。現在の僕の全魔力(5SP)を注いでも、物理法則をねじ曲げて無から作り出すには、根本的に「元手が足りていない」のだろう。
(チッ……最初から一攫千金を狙うのは無謀だったか)
僕は苦々しく舌打ちし、この推測の検証も兼ねて、生きるために必要なより原始的で低コストな物質へと、計画を変更せざるを得なかった。
(いいだろう。まずは生き延びるための基盤確保だ。水……『水』、創造!)
パシャッ。
その瞬間、僕の目の前の空間が不自然に歪み、透明な水球が出現した。理屈を無視した「奇跡」を目の当たりにしたが、その感動は一秒も持たなかった。水球はそのまま物理法則に従って落下し、冷たい石畳の上で無慈悲に弾け飛んだ。
「…………」
床を濡らしただけの、飲めない水。「容器」という器を先に用意しなかったことによる、あまりに初歩的で致命的なミスだ。僕は焦りに駆られ、連続して頭の中に命令を下した。
「『木のコップ』、創造!」(SP残量:3)
「もう一度、『水』だ!」(SP残量:2)
「ついでに『パン』も……!」(SP残量:1)
ようやく一口の水を飲み、パサパサの黒パンを喉に詰め込んだ時、僕は自分の取り返しのつかない「無駄遣い」に気づいた。SP残量はわずかに「1」。これを全快させるには、あと四日もこの光の届かない地下に留まらなければならないのだ。
(バカか僕は……! 空腹のあまり、思考力が底まで落ちていた……っ! まずはここからの脱出が最優先課題だろう!)
僕は慌てて祭壇を離れ、元来た暗い道を辿った。数時間の彷徨を経て、ようやく自分が落下してきた縦穴の真下へと戻る。遥か頭上の、針のような小さな光。あそこまで届けば、僕の人生にまだ勝機はある。
(残りSPは1。脱出のために、最も効率が良いものは何だ?)
内壁には、崩落で生じた鋭い岩の突起が点在している。もし丈夫な紐を引っ掛けることができれば、重傷の僕でも這い上がれるかもしれない。
「『ロープ』、創造!」
シュルシュルッ! と虚空から現れたのは、確かに丈夫そうな麻のロープだった。僕は先端に輪を作り、狙いを定めて頭上の突起に向かって投げ上げた。だが――。
「……短い。嘘だろ、消費したポイントに対する長さが絶望的に足りていない……っ!!」
ロープは目的の突起まであと数メートルという距離を残して宙を舞い、そのまま僕の足元へと虚しく崩れ落ちた。「1SP」で生成できる質量や長さには、厳然たる限界が設けられていたのだ。
SPは「0」。完全にポイントが尽きた。だが、僕はまだもう一冊の神の理――『魔法創造』の初期設定を終えていない。
(落ち着け……重力に抗って物理的に登ろうとするから、『長いロープ』という大きな手札が必要になるんだ。魔法という非常識な力を用いれば、もっとスマートで燃費の良い解決策が導き出せるはずだ)
僕は再び脳内の文字を呼び出し、未設定のまま保留にしていた【固有スキル:魔法創造】の項目に意識を集中した。
『最初の魔法体系(属性)を選択してください』
【火】 【水】 【風】 【土】 【光】 【闇】 【神聖】 【空間】 【無系統】
※初期習得は「初級」の基礎術式に限定されます。
属性の選択画面。これは今後の方針を決定づける極めて重要な選択だ。僕は冷静に、脱出という目的に対する各属性の「効果」と「成功確率」を推論した。
(土魔法で階段や足場を作るか? いや、SPではなく自身の魔力を使うとはいえ、数十メートル分の土の塊を隆起させるような大規模な魔法は、今の僕の枯渇寸前の魔力では途中で失敗する危険が高すぎる。水魔法で縦穴を満たして浮上するのも魔力消費の観点から論外だし、火の推進力で飛ぼうとすれば僕の身体が黒焦げだ)
基本となる四属性の検討を終え、僕は視線を残りのリストへと向けた。
(光や闇は攻撃や特殊な効果をもたらす魔法も存在するらしいが、使い手がほとんど存在しないため、初級段階で具体的に何ができるのか詳細な情報が完全に不足している。神聖魔法で身体を治すのも手だが、この縦穴を抜け出せなければ、健康な状態で餓死という結末の先延ばしに過ぎない)
(ならば『空間』か? だが、空間魔法に至っては、錬金術師の末裔である僕の知識をもってしても、どのような現象を引き起こすのか全くの未知数だ。もし最初に覚える魔法が、脱出に何の役にも立たない代物だった場合、やはり詰みだ。機能が全く不透明な『無系統』も含め、中身が分からないギャンブルに、虎の子の選択肢をつぎ込むような真似はあり得ない)
消去法で検証していくと、残された最も確実で合理的な選択肢は一つに絞られた。
(重力という最大の障害をなくし、空間を移動する。それを低い魔力消費で実現できる可能性が最も高いのは、間違いなく『風魔法』による飛翔、あるいは強力な上昇気流の利用だ)
僕は祈るような気持ちで、リストから『風魔法(初級)』を選択し、確定を念じた。
『風魔法(初級)の基礎術式を刻み込みました』
『以下の既存術式を「創造(改変)」の土台として使用できます』
無機質な文字と共に脳裏に展開された魔法のリストを見て、僕は文字通り凍りついた。
・ウィンド(突風)
・エアブロー(空気塊)
「……ない。『飛行』や『浮遊』といった、現状を打破するための移動手段が、どこにも、ない……っ!?」
冷静に考えれば当然のことだ。重力に逆らって人間一人の重さを継続的に持ち上げ続けるという高等な魔法が、初級のリストに存在するはずがなかったのだ。僕の大事な「最初の選択」は、脱出には何の役にも立たない、ただの『心地よいそよ風』という名の価値の低い力に費やされたのである。
「……はは、笑えない冗談だ。こんなもの、夏場の扇風機にしかならないじゃないか。……いや、待てよ」
絶望に染まりかけた思考を、計算高い僕の理屈が強引に叩き起こす。既存の便利な移動手段がないのなら、今ある手札を組み合わせて別の手段を作り出せばいい。
(作用と反作用の法則だ。足元に向けて『突風』や『空気塊』を放ち、その物理的な反発力を推進力に変えて、ジャンプ力を底上げできないか? 壁の突起にギリギリ手が届く高さまで身体を押し上げられれば、活路は開けるはずだ)
僕は痛む身体に鞭打ち、崩落の穴の真下で姿勢を低くした。残されたなけなしの魔力を練り上げ、足元の空間に焦点を合わせる。
「『空気塊』ッ!」
ドンッ! という鈍い破裂音と共に、足元の空気が爆発的に膨張した。僕はその反発力に合わせて全力で地面を蹴る。身体がふわりと宙に浮き、通常ではあり得ない数メートルの高さを稼ぎ出した。
(いける! このまま空中で連続して風を生み出せば……!)
だが、現実は冷酷だった。空中で姿勢を安定させる足場が一切ない状態で、次の魔法を正確に真下へ放つことなど至難の業だ。わずかに軸がブレた二発目の風は僕の身体を斜めへと吹き飛ばし、僕は洞窟の壁面に無様に叩きつけられ、再び冷たい石畳へと落下した。
「ぐっ、がはっ……! 空中での姿勢制御の概念が完全に抜け落ちていた……!」
その後も、風の強さや放出のタイミングを変えて何度か試行を繰り返した。だが、初級魔法の貧弱な力では、根本的に人間一人を数十メートル押し上げるだけの絶対的な魔力が足りていない。
無残な落下を繰り返すうちに、ついに僕の身体の奥底から、空のコップをすするような不快な疲労感が押し寄せてきた。魔力の完全な枯渇だ。
「……ハァ、ハァ……。ダメだ、完全にカラだ……」
SPは底を突き、頼みの綱の魔力で運用する魔法による脱出計画も、完全な失敗に終わった。僕は全身の打撲と魔力枯渇による激しい眩暈に蹲り、自分の準備不足と世界の不条理を呪いながら、明日という名の「SPの回復」を待つしかなかった。
2-5. 不本意な助け合いと、見知らぬ仲間たち
深い闇の底。湿った土の冷気が容赦なく体温を奪っていく中で、僕は自分の微かな呼吸音だけをぼんやりと数えていた。次にSPが回復し、現状を打開するための新たな行動を起こせるのは二十四時間後だ。だが、今の僕の著しく衰弱した身体が、この極限状態の中で明日まで持ちこたえられるか。その限界の時間を冷静に割り出すだけの気力は、すでに僕の脳内から完全に枯渇していた。
寒さと飢えで意識が混濁し、この冷たい暗闇が自分の一部になりかけた、その時だった。
「――おい! 下に誰かいるのか!?」
遥か頭上の穴から、地下の静寂を暴力的に引き裂くような、野太く力強い大声が降ってきた。直後、眩いばかりの光の柱が暗闇を真っ直ぐに貫く。それは松明が放つ、荒々しくも温かな、紛れもない「生きている人間の灯り」だった。急な眩しさに痛む目を細めながら穴の縁を見上げると、そこには三つの人影が逆光の中に浮かび上がっていた。
「生きてるか! 今、ロープを投げるからな! しっかり掴まってろよ!」
彼らが迷いなく投げ落としてきたのは、僕がなけなしの「1SP」をケチって作り出したあの無残な残骸とは決定的に違う、確かな品質と絶対的な強度を持った「本物の命綱」だった。その太く頼もしい麻の感触を両手で掴んだとき、僕は自分がまだ見捨てられていないという事実に、思わず熱いものを込み上げさせた。
地上へと引き上げられ、久しぶりに肌を撫でる森の夜風に身を震わせながら、僕は泥だらけの膝をついたまま彼らを見上げた。
「……助かりました。……不本意ながら、見知らぬ方々からの無償の助けを受ける形になってしまいましたね」
「なんだそりゃ。よくわかんねえが、とにかく無事なんだな?」
松明を掲げた大柄な戦士が、困惑したように太い眉をひそめる。その日に焼けた無骨な顔には、見ず知らずの他者を助けたことに対する損得勘定や、見返りを求めるような打算など、微塵も感じられない。
「俺はガラム。こっちはリィンとシノだ。俺たちは同じ孤児院で育った、幼馴染のパーティーでな。あんた、名前は?」
「……キース、です。ラグリマのギルドで、Fランクの冒険者を細々とやってます」
名乗るのも憚られるほどの低いランクだが、彼らは僕を馬鹿にする風でもなかった。幼馴染同士という、僕の「効率至上主義」とは正反対に位置する、極めて強固で理屈抜きな結びつきを感じさせる空気。それが今の僕には、ひどく眩しく、そして少しだけ羨ましく見えた。
一息ついたところで、僕はどうしても気になっていた疑問を口にした。
「ところで、一つお聞きしたいのですが。なぜ僕がこんな地底深くで息絶えかけていると分かったんです? この森の最深部で、しかも崩落した穴の底をピンポイントで捜索するなど、偶然にしては発見される確率が低すぎるはずです」
僕のひねくれた問いかけに対し、ガラムはカラハハと屈託なく笑った。
「ああ、それはシノのおかげさ。こいつ、魔力に敏感でな。地面のずっと下の方で、誰かが繰り返し魔法を使っている気配を感じ取ったんだよ。『すごく焦って、何度も魔法を撃ってる人がいる』ってな」
ガラムに背中を叩かれ、魔法使いの少女シノが恥ずかしそうに、けれど安堵したように小さく頷く。
(……魔法の気配? ああ、僕が穴の底でジャンプのために足掻いた、あの『空気塊』の連続発動か。完全に魔力を使い果たしただけの、無残な失敗だと思っていたが……結果的に、あの無駄撃ちによる魔力の波動が、地上に向けた偶然の『SOS信号』として機能していたわけか)
無駄な行動など、どこにもなかったのだ。あの時、泥に塗れて諦めずに最後まで足掻いたからこそ、この奇跡的な助けを引き寄せることができた。
「キースか。それにしても、ひどい怪我じゃないか。……おい、俺が町まで担いでってやるよ。その血だらけの足じゃ、夜明けまでに辿り着けねえだろ」
ガラムが気風よく大きな背中を向けてきたが、僕は咄嗟に首を振った。
「いえ……。これ以上の借りを作るわけにはいきません。自分で歩くことは……可能です」
これ以上、正体不明の他者に負担をかけることを、僕のちっぽけな意地が拒んでいた。しかし、それまで黙って僕の惨状を観察していた弓使いの少女、リィンが鋭い声を上げた。
「ちょっと、あんた、自分の顔を鏡で見てから言いなさいよ! そんな理屈っぽいこと言って、今にも死にそうな顔してるじゃない! ガラムは馬鹿力だけが取り柄なんだから、こんな時くらい大人しく助けられときなさい!」
彼女の容赦ない言葉が、僕の薄っぺらな意地を正確に打ち抜く。隣に立つシノは何も言わなかったが、ただ心配そうに、祈るような目で僕を見つめていた。
「……リィンの言う通りだ。遠慮なんていらねえ。ほら、しっかり捕まれ!」
「…………。分かりました。では、町までの移動を、あなたにお願いします。……深く、感謝します」
「馬鹿丁寧な言葉ばっかりだな……。まあいいや、振り落とされないようにしっかり捕まってろよ!」
僕はガラムの分厚く温かい背中に、自分のボロボロになった身体の全てを預けた。
(……ああ、情けないな。自己責任の原則すら守れないなんて。だが――)
懐にある、見知らぬ先人たちが遺した『未来を託す』という重すぎるバトン。それに押し潰され、孤独に行き詰まっていた僕にとって、彼らのお節介なまでの善意は、冷え切った身体の芯まで染み渡る、これ以上ない極上の助けだった。
(……今日は完全な敗北だ。人生最大の計算違いで、借金も身体もボロボロだ。……だが、この三人の好意に一時的に甘えれば、今日一日は『実質タダ』で生き延びられる。……ありがとう、先人たち。僕、もうちょっとだけ生きてみるよ……)
大きく揺れるガラムの力強い背中で、僕は深い感謝とともに、鉛のように重い瞼を静かに閉じた。
これが、自らの寿命と知略を賭け、1ポイントの重みに一喜一憂し、世界の理を相手に泥臭い交渉を続けることになる、不本意極まる「再建の物語」の真の幕開けであることを、この時の僕はまだ知らない。




