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第一章:計算高い男の計算違い

1-1. 泥濘ぬかるみの日常と、底辺の懐事情

ギルド『琥珀の爪』の重厚な木扉を押し開けると、湿り気を帯びた腐敗臭が逃げ場のない熱気と共に肺の奥を突き刺した。荒くれ者たちの鼓膜を叩く怒号、安酒が染み込んだ床の不快なべたつき、そして魔獣の血が乾いたときに放つ鉄錆に似た生臭さ。この無駄に満ちた非効率な熱量の中に身を置くだけで、僕の集中力は泥沼に足を取られたようにひどく削り取られていく。


(……人生の最終的なゴールは、投入する労力を極限まで削減し、働かずに生きていくことだ。だというのに、どうして僕はこんな割に合わない場所に立っているんだろうな)


僕は湿った羊皮紙の束に視線を落とすふりをしながら、自らの『人生の目標』を苦々しく反芻した。僕がこの街ラグリマに拠点を移して、およそ一年。ここに至るまでの僕の足跡は、お世辞にも順風満帆な計画とは呼べないものだった。


五年前、父がこの世を去った。遺されたのは、祖父の代よりはるか前から続く錬金術師としての古びた道具や、カビの生えた難解な専門書といった、売れるかどうかも怪しいガラクタばかりだ。僕はそれらを一点ずつ、古物商の足元を見た言い値で買い叩かれながら売り捌き、手元の資金の減りを最小限に抑えつつ食いつないできた。しかし一年前、ついに所持金は底を突き、僕の生活は完全に立ち行かなくなった。


目の前に突きつけられたのは「餓死」か「労働」かという、冷酷極まりない二択である。


生まれ故郷の辺境には、単調で割に合わない肉体労働しか存在しなかった。僕はより稼ぎの良い頭脳労働を求めて重い腰を上げ、知識が金になると期待されたこの街ラグリマへと辿り着いたのだ。


だが、ここで致命的な予測の甘さが発覚した。都会に来れば、素性の知れない若造でも錬金術師の末裔としての端くれの知識を活かして頭脳労働にありつけると考えたのは、あまりにも楽観的すぎた。実態として、そうした稼ぎの良い職業は貴族や有力商人による完全な独占状態となっており、後ろ盾も元手もない僕が食い込める隙など皆無に等しかったのだ。


かといって商人を目指そうにも、商売の元手もなければ信用という担保もない。どこかの商会に下働きとして潜り込む選択肢も検討したが、提示されたのは「丁稚奉公」とは名ばかりの、労働力に見合わない悪辣な搾取だった。健全な判断として、僕はその場からそそくさと退散せざるを得なかった。


途方に暮れた僕が最終的に選択したのは、田舎から都会に出てくる若者がその日を生きるために選ぶ、最も手っ取り早く始められる職業――すなわち、冒険者だった。


「……はぁ。今日の稼ぎも、この程度か」


手元の、鈍い光を放つ鉄製の冒険者プレートを指先でなぞる。そこに刻まれているのは、名誉とは無縁な現実だ。


名前:キース

レベル:5

ギルドランク:F


僕のランクは、文字通り最底辺の「F」だ。だが、レベルという絶対的な基礎数値だけで言えば、一つ上の「Eランク」に相当する実力を有している。一年もの間、薬草採取やホーンラビットの駆除といった、死亡リスクの極めて低い小規模な依頼を地道に繰り返して実績を積み上げてきた結果だ。基礎体力というものは、どれほど消極的な立ち回りをしていようと、長期間の反復によって嫌でも上がっていく。


半年もあれば大半の冒険者がEランクへと昇格していく中で、僕が最底辺に居座り続けている事実は、ギルド内でも「向上心のない落ちこぼれ」としての評価を定着させていた。だが、それは僕の戦略的な足踏みに過ぎない。昇級試験に伴う高額な受験料と、一週間に及ぶ実戦訓練という名の負傷リスクを天秤にかければ、現状維持こそが最も賢い選択だと確信しているからだ。


「キースくん、またぼーっとして。さっき渡した依頼の一覧、ちゃんと目を通したのかしら」


カウンター越しに、呆れたような声が降ってくる。受付嬢のエレンさんだ。彼女はこの一年、右も左も分からなかった僕に、この不健全な暴力市場での立ち回り方を叩き込んでくれた、数少ないまともな恩人である。


「確認済みですよ。薬草の乾燥による目減り防止策と、スライムの核の損傷による価値の低下を避ける剥ぎ取り手順ですよね。……すでに対策済みです」


「またそんな理屈っぽい言葉を使って。まあ、石橋を叩き壊すどころか、虫眼鏡でヒビの数でも数えてるんじゃないかってくらい慎重なのは分かったけど。その丁寧さを少しは出世欲に回せないのかしら? いつまでそうやって、安い依頼だけでお茶を濁してるつもりなのよ」


エレンさんはクスクスと笑いながら、大銀貨一枚をカウンターに滑らせた。今日の僕の労働の成果。森の湿地帯で指先の摩耗を最小限に抑えながら採取した薬草の山と、数匹のスライムを間引いた報酬の合算である。


僕の信条は「一日の稼ぎで三日分の生活費を賄う」ことにある。そうすれば、残りの二日は『休息』という名の利益を享受できるからだ。だが、この計算式には致命的な欠陥がある。治安の悪い街『ラグリマ』において、最低限の「平穏」を維持するための生活費が、僕の計算を常に狂わせるのだ。


(パーティーを組んでいれば相部屋の費用を分散して割安に抑えられるが、ソロの僕にはその選択肢はない。就寝中に持ち物を奪われる、あるいは命を狙われる危険性を考慮すれば、銀貨二枚を投じて鍵付きの個室を確保せざるを得ない。この出費がなかなか馬鹿にならないのが、僕の生活を地味に圧迫している……)


結果として、手元に残る金は常にゼロへと収束していく。残ったのは、湿った空気の不快感と、慢性的な腰の重い痛みだけ。明日もまた泥にまみれてその日暮らしを続けなければならないという、逃れようのない現実。その重みが、安物の革鎧越しに僕の肩へと深く食い込んでいた。


1-2. 甘い「毒」という名の儲け話

「キースくん、あんまり無理強いはしたくないんだけど……このままじゃ、冬の厳しい時期を越せないわよ?」


エレンさんは分厚い依頼台帳の角を苛立ち交じりに指で叩きながら、僕の顔を真っ直ぐに射抜いた。その視線には、窓口担当としての事務的な義務感だけではなく、危うい崖っぷちを歩き続ける僕を本気で案じているような熱が混じっている。


「あなた、もう十八歳でしょう。そろそろランクを上げて、もっと実入りの良い仕事がもらえるようにならないと。将来困るのはあなた自身なのよ?」


彼女の言い分は、この世界の常識に照らせばぐうの音も出ない正論だ。しかし、僕という人間の考え方は、世間の成長神話とは真っ向から対立する。


「エレンさん。ランクを上げれば責任という名の負担が増える。責任が増えれば、予期せぬトラブルという不確実な危険も増える。それは僕の貴重な思考力と自由時間を浪費させる、非効率な道です。現時点でのかけた労力に対する見返りを厳密に計算すれば、現状維持による危険回避こそが最も賢明な判断なんですよ」


僕が肩をすくめて、賢しげな論理を盾に防戦一方の姿勢を見せると、エレンさんは深い、深く重い溜息を吐き出した。


「本当、その頭を少しでもまともな仕事に回せばいいのに。……ねえ、そんなに効率がどうのって言うなら、これなんてどうかしら? 慎重すぎるあなたには、どうせ縁のない高嶺の花でしょうけど」


エレンさんはそう言って、僕を挑発するような意地悪な笑みを浮かべた。彼女が台帳から、僕の反応を楽しむようにわざとらしく抜き出したのは、一際目立つ紅い封蝋が施された、緊急性の高い依頼書だった。その鮮やかな赤は、まるで人を惑わす甘美な毒のようにも見えた。


『ゴブリン五体の討伐』

報酬: 大銀貨二十五枚(金貨二・五枚相当)


「……大銀貨、二十五枚」


その数字が視界に飛び込んできた瞬間、僕の脳内にある算盤が、摩擦熱で火を噴くほどの超高速回転を始めた。


一日の手取りが大銀貨一枚、そこから宿代や食費を引けば雀の涙ほどの金しか残らない僕にとって、この報酬額はあまりに暴力的だった。それは一ヶ月分の労働を、たった一日という極めて短い期間で完結させてしまう魔法の手段に他ならない。これだけの現金があれば、日々の支払いに追われるその日暮らしを脱し、当面の生活を強固に確保できる。


もちろん、巨大な利益の裏には、必ず相応の致命的な危険が潜んでいる。僕は瞬時に脳内で状況を組み立て、この案件に内在する「不確実性」を徹底的に洗い出した。


(……標的はゴブリン五体。正面から五体同時に相手をするのは、生存の観点から見て極めて割に合わない無謀な行動だ。だが、ここで効いてくるのが、一年間安全圏でコツコツと積み上げてきたレベル5という基礎能力になる。身体的な数値の比較だけで言えば、ゴブリン単体なら完封可能な水準だ)


問題は「五体」という数による暴力だ。ゴブリン一匹は脆弱でも、集団による包囲網は、僕の貧弱な防御を瞬時に食い潰す。ならば、勝利の方程式は一つしかない。


(……各個撃破だ。錬金術師の末裔としての知識と、周囲の地形を巧みに利用して、強制的に『一対一』の状況を五回作り出す。敵の集団という優位性を分断し、一匹ずつ確実に処理していけば、危険を分散しつつ利益を確定できる。……いける。この戦術を完遂すれば、計算上の勝率は九十八パーセントを上回る……!)


僕が目を細め、獲物を値踏みするような表情で固まっていると、カウンターの向こうでエレンさんの声が引きつった。


「っ、ちょっとキースくん!? 何その、悪いことでも企んでそうな目。怖いわよ!」


その声で、僕は思考の深淵から無理やり地上へと引き戻された。僕は表情を取り繕うように、一つ咳払いをする。


「大丈夫ですよ、エレンさん。僕は勝算のないギャンブルはしません。僕には僕だけの、確実な計算式がありますから」


将来の安泰を買うための資金を一気に確保する。それが今、僕の手札において最も効率的な判断だと言えた。


「パパっと片付けて、明日は一日、完全な休みを満喫させていただきますよ」


「ちょっと、キースくん! 話を最後まで聞きなさいってば!」


依頼書をひったくろうとした僕の手を、エレンさんがカウンター越しにガシッと掴んで引き留める。


「これ、西の森の最深部にある古代遺跡での案件よ。王都の学者が派遣した調査隊がゴブリンに道を塞がれて足止めを食ってて、莫大な費用が嵩むからって相場度外視の報酬を出してるの。でもね、昨日様子を見に行ったEランクパーティーが、木の上からの奇襲を受けて逃げ帰ってきてるのよ。ただのゴブリンじゃない、妙に連携のとれた狡猾な群れみたいだから気をつけ……」


「なるほど。金持ちの焦りと、能力不足の同業者がパニックを起こして流した不確定情報が、この異常に高い報酬を生み出しているわけですね。ご忠告、感謝します」


僕はエレンさんの本気の心配を心地よい風のように聞き流し、半ば強引に依頼書を奪い取ってギルドを後にした。


没落した錬金術師の末裔としての「知略」と、石橋を叩き続けて積み上げた「レベル5」という堅実な数値。事前の罠によってこちらが一方的に各個撃破の状況を作れば、小鬼の連携など機能不全に陥るに決まっている。敗北という名の損失など、僕の緻密な計算上は発生するはずがなかったのである。


1-3. 森の悪夢、破綻した計算

ギルドを後にした僕は、西門近くの薄汚れた露店街へと足を向けた。懐の小銭入れを逆さにし、転がり出たなけなしの銀貨と銅貨を指先で慎重に数える。これらは僕にとって、単なる硬貨ではない。今日まで血の滲むような思いで切り詰め、死守してきた全財産そのものだ。


「……これを、今回の討伐案件に全額投入する。後戻りできない、絶対に必要な経費だ」


僕は露店の隅にあるガラクタの山を冷徹な目利きで物色し、二つの「廃棄品」に目を留めた。一つは建設現場で使い古された、束ねられた細い鉄線(十銅貨)。もう一つは、酷い異臭を放つ、廃油がなみなみと詰まった小瓶(五銅貨)だ。周囲の冒険者たちが最新の鋼鉄剣や魔法の触媒といった高額商品に目を奪われている中で、僕だけがゴミ同然の端材に確かな価値を見出していた。


(標準的な冒険者装備など、今の貧弱な僕の懐には重すぎる出費だ。初期費用をわずか十五銅貨に抑え、あとは没落したとはいえ錬金術師の家系で培った知略という武器で、見返りを最大化させる。これこそが、金のない弱者の戦い方だ)


準備を整え、僕は西の森へと足を踏み入れた。目指すは、獣道すら途絶えた森の最深部――古い時代の遺物である『古代遺跡』の周辺だ。

 境界線を一歩越えた瞬間、大気の密度が一段階上がり、湿った冷気が肺の奥をちりつかせる。歩みを進めながら、僕はエレンさんから聞き出した、この案件が異常な高単価である理由を反芻していた。


(……王都の裕福な学者がパトロンとなり、森の奥にある遺跡の調査隊を派遣した。しかし、遺跡の入り口付近に運悪くゴブリンの群れが棲みついてしまい、調査が完全にストップしている。調査隊を森の手前で待機させているだけで、護衛や人足への日当、高額な機材のレンタル費用など、毎日莫大な待機費用が垂れ流しになっているわけだ)


だからこそ、学者のパトロンは「金に糸目はつけないから今日中に障害を排除しろ」と、大銀貨二十五枚という異常なプレミアム価格を乗せて緊急依頼を出した。


(金持ち特有の焦りが生み出した、好条件の美味しい案件。僕はそれに乗じて、莫大な利益をかすめ取るだけだ。……レベル5のステータスに、錬金術師の末裔としての知略。不確定要素を徹底的に排除した、負ける要素のない計画だ。落ち着け。心拍数の無駄な上昇は、体力の浪費に他ならない)


自分に言い聞かせながら、僕は遺跡へと続く細い隘路を「処刑場」として選定した。

 崖を背にした逃げ場のない獣道。僕はそこに買い取った廃油を薄く、かつ広範囲に塗りたくり、極限まで滑りやすくした地帯を構築した。さらにその先の死角に、細い鉄線を地面すれすれに張り巡らせた即席の罠を仕掛ける。


「……標的、視界に入った」


藪をかき分けるガサガサという不快な音と共に、五体のゴブリンが姿を現した。ひどく濁った目をした小鬼たちだ。

 先頭の一匹が僕の姿を認め、醜く顔を歪めて突進してくる。だが、彼が僕の設計した罠に足を踏み入れた瞬間、物理法則が無慈悲に牙を剥いた。


「ギギッ!?」


廃油に足をとられて無様に転倒し、勢いのままに地面を滑ったゴブリンの足首を、目に見えない鉄線が鋭く切り裂き、その機動力を完全に封殺する。動きを止めた一匹に対し、僕は即座に影から飛び出し、腰の安物の短剣を突き立てた。抵抗する間もなくゴブリンの首筋を貫き、その命を即座に絶つ。


(……軽い。環境を利用した罠と安価な消耗品を組み合わせた戦術は、やはり最強だ)


その確信に近い安堵が、僕の脳内に致命的な計算ミスを引き起こした。


「ギャアッ!」


死角である頭上の枝から、二匹目のゴブリンが音もなくダイブしてきたのだ。

(上からだと!? ゴブリンが木登りをして待ち伏せをするなど、生態のセオリーから完全に外れている……!)


ただの野生の小鬼ではない。遺跡周辺という複雑な立体地形に適応し、冒険者を狩る術を学習した、極めて狡猾な群れだったのだ。高額な報酬の裏には、学者の焦りだけでなく、この異常な戦闘適応能力という「隠れた危険」が存在していたのである。


咄嗟に身を捩るが、完全に回避することはできない。ガツン、と肩を重い鈍器で殴られたような衝撃が走る。鋭い爪が粗末な革鎧を貫き、肉まで届く熱い痛覚に全身の毛穴が逆立った。僕は必死に短剣を振り回し、泥にまみれてもつれ合いながら、のしかかってきた二匹目の喉笛を辛うじて掻き切った。


だが、真の絶望はここからだった。

 残りの三匹は、仲間が二人も死んだことに怯むどころか、手負いの獲物を確信した獰猛な笑みを浮かべ、一斉に襲いかかってきた。四方から包囲網を縮めてくるその統率された動きは、僕の「各個撃破」という脆い計画を、いとも容易く粉砕していった。


「――痛手覚悟で排除する……っ!」


恐怖を無理やり喉の奥に押し込み、正面から突き進んでくる三匹目に対し、僕は渾身の力で短剣を突き出した。刃はゴブリンの硬い肋骨の隙間に深く食い込み、その心臓を確実に破壊した。――だが、その勝利の代償は残酷極まりないものだった。


――パキィィィィンッ!!


乾いた破断音が、森の静寂を切り裂く。

 長年の酷使、そしてなけなしの金で買った安物ゆえの金属強度の限界。僕が所有する唯一のまともな武器であった短剣の刀身が、三匹目を絶命させたと同時に、根元から無残に折れ飛んだのだ。


「っ、耐久限界か……!? 唯一の武器が完全に使い物にならなくなった……!」


手元に残ったのは、もはや武器としての機能を全く果たさない鉄の柄だけ。目前には激昂し、血走った目を剥く残り二匹のゴブリン。対抗手段は皆無。次の一撃を受ければ、僕の「最小の労力で生きる」という人生の計画は、ここで完全に破綻する。


(……ダメだ! これ以上の戦闘継続は、生存本能という絶対的な理屈に反する!)


僕は見栄もプライドも、収穫すれば確実な金になったはずの三つの死骸の証拠部位も、その場の全てを未練なく投げ捨てて走り出した。手に入るはずだった報酬を惜しんでいる余裕など一秒もない。今はただ、この命という最大の元手をこの危険な戦場から即座に引き揚げるのが最優先だ。


背後にべったりと張り付く、獲物を追う獣の悍ましい殺気。激しい呼吸で肺が焼け焦げ、足が泥にもつれ、肩からの出血で視界がぐにゃりと歪む。死に物狂いで森を駆け抜ける僕の背中に、ゴブリンたちの嘲笑うような、耳障りな鳴き声が執拗に浴びせられた。


この惨めな逃走の先に、金貨一枚という今の僕にとっては天文学的な「絶望の請求書」が待ち受けているとも知らずに、僕はただ、夜の闇へと続く獣道を泥だらけになって逃げ続けた。


1-4. 突きつけられた『絶望の請求書』

どれほどの時間を、泥と血にまみれて走り続けたのだろうか。肺は焼けるように熱く、喉の奥からは鉄錆のような血の味が絶え間なく込み上げてくる。背後にしがみついていたはずのゴブリンの嘲笑や殺気さえも、いつしか遠い幻聴のように霞んでいた。ラグリマの境界を示す、古びた石造りの西門が視界に歪んで映ったとき、僕の膝はついにその「耐久限界」を突破した。

 石畳の冷たさが頬に触れたのを最後に、僕の意識は激しい肉体的な過負荷によって暗転した。


次に意識が浮上したのは、鼻持ちならない消毒液の臭いの中だった。ギルド『琥珀の爪』の救護室。天井のシミを数える間もなく、隣から漏れた短い吐息が僕の耳に届いた。


「キース君……気がついた? 本当に、バカなんだから」


傍らにいたのは、泣きはらしたように赤く目を腫らしたエレンさんだった。彼女の表情には、僕が目を覚ましたことへの安堵と、それを上回るほどの暗い影が落ちている。


「運び込まれたときは、もう手遅れかと思ったんだから。すぐに神殿の高位神官を呼んで、緊急の『奇跡』をかけてもらったわ」


命を繋ぐための、最短かつ最も高額な選択。神官の手による高度な神聖魔法は、僕の肩を割っていた無残な傷を強引に塞いだが、大量の出血によって失われた体力までは完全に回復させてはくれない。僕は鉛のように重い腕を動かし、自分の身体がまだ使い物になることを確認した。


だが、安堵する暇さえエレンさんは与えてくれなかった。彼女は震える指先で、僕の胸元に一枚の冷酷な書状を置いた。それは、ギルドが非情に弾き出した、現時点での清算書だった。


【依頼失敗および損失補填に関する清算書】

・クエスト違約金:大銀貨七枚・銀貨五枚(予定報酬の三割)

・神殿寄付金(治療費):大銀貨二枚・銀貨五枚

・合計負債額:金貨一枚


「……金貨、一枚」


喉の奥が引き攣り、乾いた笑いさえ出なかった。一日の手取りが大銀貨一枚に満たない今の僕にとって、それは単なる借金ではない。人生における完全なる破産の宣告だった。


「エレンさん……僕の収支が、一瞬にして絶望的な大赤字に陥りました。これは手元の現金が足りないなどという、生易しい危機を遥かに越えている」


「……期限は一週間。それまでにこの額を全額返済できないと、キース君、借金奴隷として二、三年は北の鉱山に送られることになるんだから!」


北の鉱山労働――強制労働。それは僕の信条である「最小の労力で楽をして生きる」という至高の理想の、完全なる対極に位置する地獄だ。サボる権利も、昼まで寝る自由もない、ただ死ぬまで鉱石を掘り出すための消耗品としての毎日。


(……働かずに生きるために冒険者になったというのに、三年近くも無休で肉体を酷使させられるなんて。負担が大きすぎる。労働による拘束時間という莫大な時間の無駄も、僕の将来的な価値も、すべてがゼロになる……)


絶望の淵で、何かこの状況を覆す逆転の手段はないかと脳から血が出るほど思考を絞りながら、僕は足を引きずるようにして宿屋『星屑の亭』へと戻った。薄暗く、ひどくカビ臭い狭い個室。この底辺の安宿の壁でさえ、今の僕にとっては支払えないほどの高級な防壁に見えた。


僕は硬いベッドに倒れ込み、荷物の中から父の唯一の形見である古書『魔力と魔法』を手に取った。この本はかなり年代の古いもので、我が家が没落する前、王都で錬金術師として一時代を築いていた頃に手に入れた稀覯本きこうぼんだと祖父や父から聞いていた。子供の頃に未知の力に憧れて何度も読み返した、極めて思い入れの強い品だったため、これまでどんなに困窮しても手放さずに残しておいたものだ。


この本に記されていた「魔力操作」の基礎訓練は、コツコツとした地道な反復そのものは嫌いではない僕にとって、かつて異常なほどの執着をもって取り組んだ時期があった。当時は少し病的なまでに没頭し、無意味に魔力を体内で循環させることだけに情熱を注いでいた記憶がある。

 結局、ある程度成長してから、実際に魔法を習得するにはさらに高価な魔術書を別途入手するか、高額な授業料を払って専門の師につく必要があると知り、その割に合わなさに絶望してからは一度も開くことはなかったのだが。


「……今さらこんな学術書を読んだところで、金貨一枚が空から降ってくるわけじゃないか」


自嘲気味に呟き、指先の力が抜けた拍子に、本がバサリと床に落ちた。静まり返った部屋に、乾いた音が響く。落ちた衝撃で、長年使い古された古書の表紙、その分厚い革の継ぎ目がわずかに捲れていた。


「……何だ、これ。二重底か? 隠された……いや、未確認の遺産か?」


慎重に、だが震える指先でその隙間を裂くと、中から滑り落ちたのは一枚の黄ばんだ古びた地図。そして、その下から現れたのは、深海のように静かな、だが不気味に青白い燐光を放つ未知の羊皮紙だった。


1-5. 遺品の底、不吉なバトン(一発逆転への賭け)

宿屋『星屑の亭』の狭い個室は、埃っぽさと安物の油ランプが放つ微かな熱に包まれていた。窓の隙間から入り込む夜風が、傷口に貼られた包帯を冷やし、僕の意識を否応なしに現実に繋ぎ止める。


床に落ちた古本の中から姿を現したその「紙」は、魔法の灯火に照らされ、深海に潜む怪物のような、不気味で瑞々しい青白い燐光を放っていた。表面に並ぶ文字は、父の穏やかな筆致とは似ても似つかない。それは、書き手の激情か、あるいは呪詛そのものが染み出したかのような、禍々しくも力強いものだった。


「……父さんの筆跡じゃないな。それに、この記述内容は……あまりに理不尽な、失敗の記録だ」


王都の市場を渡り歩き、かつて錬金術師として隆盛を極めていた我が家が買い取ったこの古書。そこに挟まれていたのは、過去の所有者たちが遺した記録だったのだろうか。記されていたのは、かつてこの紙が示す『神の理』とやらを手にした三人の見知らぬ人物が辿った、凄絶な後悔と不条理な歴史そのものだった。


一人目:『神の理』を手にし、一度は天を突くほどの巨万の富を得るも、大陸を焦がす大戦の火に巻かれ、戦死。

二人目:『神の理』の力を振るい、一時は絶対的な力を誇示するも、正体不明の厄災に呑まれ、惨殺。

三人目:『神の理』を得るも何も成せぬまま、恐怖に怯え、この世界の果てで誰に知られることもなく寿命により絶命。


凄惨な最期の羅列。本来の僕なら、この時点で「関わるだけ時間と体力の無駄だ」と断じ、即座に破り捨てるか、暖炉の火種に投げ込んでいただろう。しかし、計算高い僕の目は、ある一箇所の記述からどうしても離れることができなかった。


「……ここに書かれている『神の理』を得る事で、莫大な富や力が手に入るというのは事実らしいな。過去にこれを得た三人の最期が悲惨極まりないものではあるが、今は背に腹は代えられない。ここで手をこまねいて強制労働送りになるくらいなら、この一縷の望みに賭けるしかない」


僕の脳内にある算盤が、再び火花を散らしながら、乾いた音を立てて冷徹な皮算用を弾き出していく。震える指先で古びた地図をなぞれば、そこに描かれた目印は、今日僕が命からがら逃げ出した、あの古代遺跡の廃墟の目と鼻の先だった。


(金貨一枚の借金なんて、過去の所有者たちが手にした『富』の規模に比べれば、計算上の誤差みたいなものだ。借金を完済してお釣りが来るほどの莫大な金が眠っているなら……一生遊んで暮らせるだけの見返りが手に入るはずだ)


絶望的な負債状況。その裏側に透けて見える黄金色の見返りが、僕の慎重さを、強欲なまでの理屈で塗りつぶしていく。僕の前に提示された計画は、極めて単純な二者択一だった。


・現状維持(確実な破滅):このまま一週間を無為に過ごし、二、三年の過酷な強制労働に身を投じる。自由という貴重なものは、ギルドによって完全に奪われる。

・一発逆転の賭け(ハイリスク・ハイリターン):この不吉な手紙が示す場所へ向かい、一か八かの博打に打って出る。成功すれば、「一生の安寧」という莫大な見返りが手に入る。


「……かけた労力に対する見返りのどちらが勝るかと言われれば、答えは明白だよな」


未来のない苦役に数年を捧げる「確実な損失」を選ぶより、一瞬の奇跡に全てを懸ける「不確実な利益」に賭ける方が、まだ判断として理にかなっている。

 僕は軋むベッドから這い出し、折れた短剣の柄を固く握りしめた。もはや武器としての価値がないはずの鉄の塊が、今は妙に熱を帯びているように感じられた。


「……待ってろよ、見知らぬ先人たち。あんたたちが残したその呪いのような負の遺産、僕がこの手で一気に利益に変えてやるからな」


夜の帳へと踏み出した僕の足取りは、まだ出血のせいでふらつき、頼りなかった。だがその瞳には、かつての「守り」一辺倒だった消極的な光ではなく、運命というものを根本からひっくり返そうとする、冷徹で強欲な炎が宿っていた。この一歩が、僕自身の存在価値を、そして世界のありようを決定的に変える大勝負の始まりになるとは、この時の僕はまだ知る由もなかったのである。

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