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見知らぬ女に刺された私

作者: たま
掲載日:2026/03/20

数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。

拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。

傷痕の向こうに


高校二年生の冬、コンビニのバイトが終わったのは午後九時を回っていた。吐く息が白く煙る寒い夜だった。私は自転車置き場まで歩き、防寒用の手袋を探しながらカバンを漁っていた。その時、背中に鋭い衝撃が走った。


最初は誰かにぶつかられたのかと思った。しかし、次の瞬間、左脇腹に焼けつくような痛みが広がり、温かい液体がコートの内側に滲み出ていくのを感じた。振り返ると、長い黒髪を夜風になびかせた女が、手に握った何かが月明かりで鈍く光るのを一瞬見た。彼女は無言で、まるで幽霊のように暗闇に消えていった。


「誰か…助けて…」


声にならない声を絞り出すと、膝がガクンと折れた。コンクリートの冷たさが頬に伝わり、視界がゆっくりと暗転していく。遠くで誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。


意識が戻ったのは病院の集中治療室だった。全身に管が繋がれ、モニターの規則的な音が耳に届く。母が泣き腫らした顔でベッドの横に座っていた。


「マリア…目を覚ましてくれて…よかった…」


母の声は震えていた。後から知ったことだが、あの夜、私を含めて五人もの人が同じ女に刺されていた。一人は搬送先の病院で亡くなり、二人は重体、私ともう一人は一命を取り留めたが深い傷を負った。


事件から三日後、刑事が病室を訪れた。四十代前半の、少し疲れた目をした男性刑事だった。


「鈴木マリアさんですね。私は捜査一課の高木と申します。いくつかお聞きしたいことがあります」


高木刑事は丁寧に事件の経緯を聞き取ると、ため息混じりに事件の背景を話し始めた。


「犯人は神崎美咲、三十四歳です。彼女の夫が浮気をしているのを知り、精神的に不安定になっていました。先月、夫と浮気相手の女性が自宅で遺体で発見されました。どうやら神崎が…」


刑事の言葉が途切れた。彼は窓の外を見つめ、続けた。


「夫を奪った社会への復讐として、無関係な人々を襲うようになったようです。あなたは…偶然にも彼女の通り道にいただけなんです」


その言葉を聞いた時、私は怒りよりもむしろ空虚感を覚えた。私の人生が、見知らぬ女の破綻した愛憎の犠牲になった。ただの「偶然」に。


三週間の闘い


入院生活は三週間に及んだ。刺された傷は深く、脾臓に損傷を受けていた。手術は成功したものの、リハビリが必要だと医師から告げられた。


「鈴木さん、これから少しずつ体を動かしていきましょう」


担当医の佐川先生は三十代後半の優しそうな女性医師だった。彼女は私のリハビリ計画を立てるだけでなく、勉強面でもサポートしてくれた。


「大学受験を考えているんですよね? 教科書を持ってきてもいいですよ。空いた時間に見てあげますから」


母は学校に掛け合い、オンライン授業を受けられるように手配してくれた。しかし画面越しの授業は集中できず、特に数学と物理が理解できなくて悩んでいた。


ある午後、佐川先生が回診に来た時、開きっぱなしの数学の教科書を見て言った。


「微分積分でつまずいているみたいね。実は私、医学部に入る前に理学部で数学を専攻してたのよ」


それ以来、佐川先生は医師としてだけでなく、家庭教師としても私を支えてくれた。彼女の説明は驚くほど明快で、病室が一時的な塾のようになった。


「先生、どうして医者になろうと思ったんですか?」


ある日、私はふと尋ねた。佐川先生は点滴の調整をしながら、少し考え込むように答えた。


「高校生の時、大切な人が事故に遭ったの。その時、何もできない自分が歯がゆくて…。人の命を救える仕事がしたいと思ったからよ」


その言葉が、私の中で何かを揺さぶった。


転機


退院の前日、高木刑事が再び訪ねてきた。今回は事件の詳細な報告と、今後のサポートについて話すためだった。


「神崎美咲は逮捕されました。精神鑑定の結果、責任能力が大幅に減退していると判断され、刑事責任を問うのは難しい状況です。彼女は現在、精神科病院に入院しています」


刑事は申し訳なさそうにうつむいた。


「被害者の方々には本当に申し訳ないと思っています。私たちももっと早く手を打てなかったか…」


「刑事さん」私はベッドの上で体を起こしながら聞いた。「どうしたらこんな事件を防げたんでしょうか?」


高木刑事は深く息を吸い込み、ゆっくりと答えた。


「完全に防ぐのは難しい。でも、早期にサインに気づき、適切な介入ができれば、ここまで悪化させずに済んだかもしれない。神崎美咲の近所の人たちは、彼女が夫の死後、明らかに様子がおかしかったと証言しています。もし誰かが専門家に相談するきっかけを作れていたら…」


その夜、私は眠れなかった。窓の外には都会の明かりが輝き、普通の生活が続いている。しかし私の中では、何かが変わろうとしていた。


大学進学についてずっと悩んでいた。文学部に行って小説を書くのが夢だった。でも今、その夢は色あせて見えた。代わりに、高木刑事の後悔に満ちた表情や、佐川先生の「人の命を救える仕事」という言葉が頭を巡る。


明け方近く、私はある決心をした。


母が朝の見舞いに来た時、私は宣言した。


「お母さん、私…警察官になりたい」


母は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに優しく微笑んだ。


「突然ね…。でも、あなたが真剣に考えたのなら、お母さんは応援するよ」


新しい道


退院後、生活は一変した。リハビリに通いながら、オンライン授業を続ける日々。しかし、以前とは違って、勉強に対する姿勢が変わっていた。


私は刑事関係の本を読みあさり、法学の基礎知識を学び始めた。佐川先生は退院後も連絡をくれ、時折勉強をみてくれた。


「警察官になるなら、体も大切だけど、頭も使わないとね。法律の知識はもちろん、心理学や社会学の理解も必要よ」


高校三年生の春、私は完全に回復し、学校に通えるようになった。事件のことはクラスメイトの間でも知られており、好奇の目で見られることもあった。しかし、私は臆さずに自分の目標を語った。


「警察官になりたいんです。私のような被害者を減らしたいから」


夏休みには、高木刑事の計らいで地元の警察署を見学させてもらった。そこでは、事件対応だけでなく、地域の安全を守るための多様な活動が行われていた。


少年課の女性警察官が話してくれた。


「私たちの仕事は、犯罪を起こさせない環境を作ること。特に子どもたちが犯罪に巻き込まれないように、学校や家庭と連携しています」


交番勤務の若い巡査は、日常的なパトロールの重要性を語った。


「地域の人たちと信頼関係を築くことで、小さな変化に気づけるんです。それが大きな事件を防ぐことにつながります」


これらの経験は、私の決意をさらに固めるものだった。


受験への道のり


秋になり、大学受験が現実的な課題として迫ってきた。警察官になるにはいくつかの道があるが、私は大学で法学を学び、より広い視野を身につけたいと考えた。


志望校は、刑事法学で有名な国立大学の法学部に決めた。かつて文学を志した私が、六法全書と向き合う日々。時には自分の変わりように驚くこともあった。


「マリアちゃん、本当に変わったね」高校の担任の先生が言った。「事件の後、ずっと心配していたけど、むしろしっかりとした目標を見つけたみたいで嬉しいよ」


十一月、事件からちょうど一年が経とうとしていた。裁判所から連絡があり、神崎美咲の公判を傍聴できることになった。


法廷で彼女を見た時、私は複雑な感情に襲われた。あの夜、暗闇で刃を握っていた女は、今では痩せ細り、うつむいたままほとんど動かない。弁護士の質問にも単調な声で答えるだけだった。


検察官が事件の被害状況を述べる時、私の名前が読み上げられた。その瞬間、神崎美咲がわずかに顔を上げ、私の方を見た。彼女の目には、何の感情も読み取れなかった。空虚で、深い闇だけがあった。


公判後、高木刑事が近づいてきた。


「大丈夫ですか?」


「はい」私はうなずいた。「でも…彼女には何の感情もないんですね。私たちを傷つけたことへの後悔も、罪の意識も」


高木刑事は苦い表情で答えた。


「彼女の心は、夫を失った時点で壊れてしまったのかもしれない。私たちにできるのは、二度とこんな被害者を出さないこと。そして、彼女のような人が早期に助けを求められる社会を作ることだと思います」


決意の春


三月、私は見事第一志望の大学に合格した。同時に、警察官採用試験の一次試験にも合格した。


卒業式の日、私は事件の被害者たちと連絡を取り合っていた。全員が回復の途上にあり、それぞれの方法で前を向いていた。


あの夜、命を落とした女性の家族とは、手紙のやり取りを続けていた。最初は苦痛だったが、今ではお互いの癒しになっている。


「娘が亡くなって、生きる意味を見失いそうでした。でも、マリアさんが警察官を目指していると聞いて、娘の死が誰かの役に立つかもしれないと思えるようになりました」


その手紙を読み、私は涙が止まらなかった。悲劇は無意味ではない。それをどう受け止め、どう活かすかが重要なのだ。


四月、大学の入学式を終えた私は、警察学校の入学手続きにも向かった。大学在学中に警察学校に入校する特別コースを選んだのだ。


初めて警察官の制服を手にした時、私はあの寒い夜を思い出した。痛み、恐怖、無力感。そして、それらを乗り越えてここに立っている自分。


佐川先生が言っていた。


「傷は癒えても、痕は残る。でも、その痕があなたを強くするのよ」


確かに、私の体にはまだ傷痕が残っている。しかし、それは弱さの証ではなく、生き延びた証であり、新たな使命へと向かう勲章なのだ。


大学の法学部の最初の授業で、教授が問いかけた。


「法とは何でしょうか? 正義とは何でしょうか?」


私は席で背筋を伸ばし、心の中で答えた。


法とは、弱きを守る盾である。正義とは、傷ついた者に手を差し伸べる勇気である。私はこの学びの場で知識を蓄え、やがては現場でその知識を活かす。神崎美咲のような悲劇を未然に防ぐために。私のように理不尽に傷つく者をなくすために。


教室の窓から春の光が差し込み、新たな季節の始まりを告げていた。私の長い闘いは終わったわけではない。むしろ、ようやく本当のスタートラインに立ったのだ。


警察官になるまでの道のりは長く、困難も多いだろう。しかし、あの寒い夜に失った無垢さの代わりに、私は確かな目的を得た。傷ついた者だけが理解できる、他者を守りたいという切実な願い。


私は鈴木マリア。かつては被害者だったが、これからは守る側になる。この決意を胸に、一歩ずつ前へ進んでいく。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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