第3話
教会の扉を押すと、古い蝶番が静かに軋んだ。
外の喧騒とは切り離されたように、礼拝堂の中は薄暗く、静まり返っている。
奥の長椅子に、一人の男が座っていた。
神父だ。
背筋を伸ばし、いつもと変わらぬ姿勢で聖書を閉じると、こちらへ視線を向ける。
「来ましたか、雨宮さん」
響子は扉を閉めながら、ゆっくりと歩いていく。
神父の前で立ち止まり、しばらくその顔を眺めた。
「……大丈夫?」
神父は一瞬だけ視線を落とした。
「ええ……」
「……あんま気落としたらだめだよ。変なのに憑かれるし」
神父はかすかに苦笑する。
「……そうですね」
手に持っていた聖書の表紙を、静かに撫でただけだった。
響子は口を開きかけて、やめた。
礼拝堂の静けさの中で、沈黙が落ちる。
やがて響子が口を開いた。
「ところで、今日はなんで呼んだの?」
神父はゆっくりと立ち上がる。
「依頼ではないんでしょ?」
響子がそう言うと、神父は小さく頷いた。
「ええ。今回は、少し事情が違います」
礼拝堂の入口へ視線を向ける。
「紹介したい子がいるのです」
「え……?」
響子は思わず眉をひそめ、同じ方向へ顔を向けた。
礼拝堂の入口から、柔らかな光が差し込んでいる。
その逆光の中に、一人の少年が立っていた。
背の高い影が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
光を背にした輪郭が、少しずつはっきりしていく。
整った顔立ち。
黒髪。
無駄のない立ち姿。
制服の着こなしまで、妙に隙がない。
響子は思わず目を細めた。
えっ……。
思考が一瞬止まる。
神々しい……というか、え?
数秒遅れて、頭の中で言葉がまとまる。
櫻木慧……!?
思わず声が出た。
神父がわずかに眉を上げる。
「ご存じでしたか」
「えっ……まぁ……」
この辺じゃ有名人だし。
ちらっと慧を見る。
全国模試トップ。
剣道インターハイ常連。
学校のパンフレットの表紙までやっていたはずだ。
スクールカーストの頂点みたいな人だ。
どうして教会に……。
慧は一瞬だけこちらを見た。
視線は落ち着いている。
「……誰?」
響子は一瞬詰まる。
「あ、えっと……同じ市の高校で……」
慧は小さく息をついた。
「そう」
それだけ言うと、教会の奥を見回す。
「……ここ、安全なんですよね」
神父が答えた。
「少なくとも、今は」
慧は小さく頷いた。
それから、もう一度だけ響子を見る。
「……普通の人?」
響子はきょとんとした。
「えっ……普通? 普通ですけど……」
神父が肩をすくめた。
「雨宮さん。何を言っているんですか。あなた、呪術師でしょう」
響子は頭をかいた。
「ああ、そうだけど……」
慧は一瞬だけ視線を止めた。
表情はほとんど変わらない。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「普通じゃないと思ってた」
「え?」
おかしいな……。
友人からは、もっぱら「ドラマのエキストラに出てそう」って言われるのに……。
「あの……櫻木さんは、どうしてこちらに……?」
慧は少しだけ視線を外した。
礼拝堂の奥を一度見て、それから入口の方を振り返る。
ほんのわずか。
何かを確かめるような目だった。
「……逃げてきた」
「逃げ……?」
響子が聞き返した瞬間、慧は言葉を続けた。
「変なのに、見られた」
「変なもの……?」
神父は何も言わない。
慧は淡々とした声のまま続けた。
「最初は、見えるだけだった」
「……」
「ずっと無視してた。
気づかないふりしてれば、向こうも寄ってこないから」
響子の背に、たらりと冷や汗が流れた。
それ、呪術師が一番最初に教わるやつだ。
――見るな。
――反応するな。
――関わるな。
慧は視線を落としたまま言う。
「でも最近……声が聞こえるようになった」
「え……」
慧はゆっくり顔を上げる。
「昨日、電車で。
思わず、返事してしまった」
礼拝堂の奥で、何かが軋むような気配がした。
慧はその音の方へ、ちらりと視線を向ける。
そして、ほとんど表情を変えないまま言った。
「……で」
小さく息を吐く。
「気づかれた」
その瞬間。
礼拝堂の天井のどこかで、
かすかに“笑い声”がした。




