3話:転校(浅倉朝太郎)
その日夢を見た。父が持ってきた布団があまりにも柔らかかったからか、自分は宙を飛んでいた。
かなりの高さを浮遊している。それは眼下には山々を優に見下ろせ、雲のうっすらとした白い線も自分よりも下層に棚引いている。
しかし、ひとつ奇妙な感覚があった。所謂、夜景というやつが存在しない。大きな大陸が闇の中にじっとこらえるように佇んでいることはわかる。しかし、そこには人の気配ともいうべき明かりは存在しない。ただの闇が支配している。
あとは海だ。黒い水がゆっくりとただ蠢いている。奇妙だと素直に思った。
しばらく漂う中、一つの存在に気が付いた。
この大きな海に、まるで一粒の雨音が落ちたかのように波紋が起きていた。
その中心に存在しているもの。
近くにある岩山と同じ大きさだろうか。そして、それは動いている。
その存在がゆっくりと大地に近づいている。そのたびに海は揺れ、突風がこちらまでも届き、浮かぶ自分にも届く。
その存在の正体がどうしても気になった。ゆっくりと動く島のようなもの、それは一体何なのか。
──よく見ろ。
目が開けられないほどの突風の中、その存在を捉えようとする。何もわからない。そう思った時、宙を浮いていた自分はそれに向かい、急降下を開始する。
なんで俺はこんな夢に本気になっているんだ。そう自嘲しながらも、空からその物体に向かい飛んでいく。
次第に闇に埋もれたそいつは姿を現してくる。あと少しで姿を掴めそうだ。だが、こいつは一体。
ほんのあと少し、というところで一本のだらりとした紐のような存在が、その黒い巨大な物体から伸びた。
──首?
そう思った瞬間。耳がちぎれるほどの轟音が鳴り響き、爆発にも近い衝撃が自分の体に走った。体はあらぬ方向へねじれ、激痛がほとばしる。
そして魔法が溶けたかのように、自分を宙に浮かばせていた何かも消え、自分は海の中へ沈んでしまう。暗い、闇の中へと。
そして布団から飛び起きた。じとり、とした汗が体にまとわりついている。
「なんだってんだ」
あの夢の中にいた存在。真っ黒の巨大な物体を思い出すと、少し寒気を感じた。時計を見たが、まだ6時半であった。
引っ越してそうそうに悪い夢を見るとは何となく幸先が悪い。リビングへ出て昨日買った牛乳を飲む。あたりを見回してみても、父はおらず、海外の土産だけが静かに佇んでいる。
「帰ってないのか」
結局、引越しをしたその日から父は帰ってはこなかった。一人で荷ほどきをして、とりあえず自分の部屋である和室は形にはなったが、それ以外は手付かずで今もダンボールが転がっている。そして、いよいよ転校初日の朝が訪れていた。
携帯電話を見る。叔母から「大丈夫?」というメッセージが届いていた。それに簡単に返事をする。
「たぶん。大丈夫」
数年振りに出会う父は、かつての記憶となんら変わっていない。自分のことを本当に思ってくれているのかも、少し心配ではある。
けれども、自分もそんな歳ではない。17歳になり高校2年生になった。今が江戸時代なら立派な大人だ。
北海道時代の学ランのズボンを履いては白いシャツのボタンを留める。結局のところ制服はまだ出来上がってはいなかった。周りから少し浮くのでは、と危惧してはいるが、新しく通う鎌倉第一高校は厳格な校則は無いようだった。だからこそ、登校初日でイジメられるなんてことはないだろう。
朝食の菓子パンを頬張り、リュックサックに筆箱やらを入れ込む。そして目についたのは机の上に並べられたカメラ。
実家に昔からあったそれは、今では自分の相棒でもあった。それもカバンの奥底にしまった。
さて、学校にいかなければ。
外に出るとまだ馴染まない古民家、自宅を背に駅とは反対方向の国道へ出る。
まだ七時半だというのに、日差しは既に強かった。数歩歩いただけでも避暑地に馴染んだ体は汗が吹き出てしまうのだった。
髪の癖が汗であらぬ方向へと曲がってっしまうのを少し気にしながら、なんとか歩みを進めていく。
登校時間は8時半ぐらいで良いのだが、あらかじめ手続きやら何やらを済ませなければならないらしく、父経由で早めに学校に行くように言われていた。校門に辿りついたのは8時前、すでに朝練の生徒がグラウンドを駆け回っている。海の匂いが鼻をつん、と刺激する。
校庭の端を歩き、なるべく影に隠れるように校内へ入ると蝉の声が窓から入り込んでいた。当然クーラーが効いているなんてこともなく、職員室へ向かうまでにさらに背は汗まみれになった。そして、心の中で毒づいた。
──夏を越せるか怪しいぞ。
2階にある職員室へ入ると、古今東西の学校の職員室は本当に過ごしやすい環境であることを再認識することができる。冷風が火照った体に染みた。
「お、来たか。浅倉クン」
あたりを見回していた自分にいち早く気がついた女性教師が声をかけてきた。歳は三十代くらいだろうか。茶色の髪を一本に後ろに縛り、細い目がこちらをきりりと見つめる。
「よく来たわね。私は2年B組の担任の藤井香。あなたの担任にもなるわ」
「あ、いたたた」
溝落ちのあたりを手のひらでさすりながら立ち上がる。腹痛持ちなのか、妙なところを痛がっていた。するとその手を翻し、彼女は自分に向かい差し出す。それが握手を求めていることに気がつくのに数秒かかった。
「ど、どうも」
「北海道からじゃ、関東の暑さは効くでしょ」
「ええ。かなりキツイです」
「はぁ。私も夏休み北海道行きたいわぁ」
そう言いながら藤井と名乗る教師は自分の机からひょいひょいとプリントを手渡していく。修学旅行の積立やら、親睦会費やら。父に手渡す必要があるらしいことは何となくわかった。
「でも浅倉くんは昔こっちに住んでたんでしょう」
「はい。小学4年くらいで引っ越したんで、それまでは此処で」
「どう。久しぶりの鎌倉は」
藤井はあれやこれやとせわしなく準備をする。
「あまり変わっていないなあって思います。変わったことと言えば、駅の近くにコンビニとかスタービックスとかができてるぐらいじゃないですか」
「なるほどね。まあそう見えているならいいのかもしれないわね」
「はあ」
含みのある彼女の言葉に対して、特に補足を付け加えることはなく、自分に付いてくるよう指示をした。
廊下に出ると先ほどとは異なり、生徒が廊下で見受けられるようになった。
自分と同い歳くらいだろうか。自分のことを不審人物のように怪訝そうに見ている。
藤井教師から一通り学校の説明を受け、三階にある教室に辿りついた。2年B組。教室からはざわついた声が漏れ出している。
そして彼女がドアに手を掛ける。その瞬間ぴたり、と生徒たちの声は消える。
「おはよう」
高らかな声に彼らも「おはようございます」と返事をする。
「今日も暑いが、みんな元気かー」
「元気ですけど、早く転校生を紹介してくださいよ」
ひとりの男子の声が廊下にいる自分にも届いてきた。
「もう。仕方ないわね。じゃあホームルームの前に先にしちゃいますか」
藤井はこちらに目配せをする。じとり、と手に汗がにじむ。この汗は先ほどまでの暑さのせいではない。
一歩、教室に入る。教壇の上へ進み、壇上へ立つ。
そしてクラスを一望する。ひとつ思ったことは色々な人がいるなあ、という漠然とした感想であった。
髪の色も黒以外の人も多く。服装もバラバラだ。だがひとつ共通していることはみな自分を品定めをしている目をしていた事だ。
「初めまして。浅倉朝太郎です。北海道の手稲から一昨日こっちに引越してきました。これから宜しくお願いします」
そしてざわつく。こそこそ。がやがや。その言葉までは聞き取れない。
「はい。じゃあ、みんな浅倉くんをこれから宜しくね。浅倉くんの席はあそこね」
「は、はい」
背中に刺さる視線を感じながら、後ろにある席へ進み、そして座る。
──まあ、こんなもんだろう。
と一人、心の中でつぶやいた。淡々と進むホームルームの内容が頭へ入ることはなく、藤井は「以上、今日もよろしく」と言い放ち教室を後にした。
そわそわと特に意味もなく、リュックを開け閉めしていると、前に座る男子が振り返った。
「なあ。北海道から来たってマジ?」
金髪の短い髪をしている。彼は派手なオレンジのポロシャツを着ており、大きな瞳をこちらに向けていた。
「あ、申し遅れた。俺は村尾虎丸。で、お前さん北海道から来たんだよな」
「う、うん。まあそうだけど」
「いいなあ。涼しいんだろうな。さぞかし」
彼は景気良く笑う。
「とりあえず、よろしくな。浅倉」
「よ、よろしく」
彼はそう言ってはスマートフォンを差し出す。
「ほら。連絡先交換しようぜ」
「あ、うん」
そして彼は手をこまねき、耳打ちをする。
「お前以外と顔がいいから、いつか役立つんだよ」
そうしてケラリと笑う彼は、見た目の割に人懐っこい性格であることが何となくわかった。第一印象が頭が弱そうな不良だと思ったことは内緒にしておこう。
転校初日に友人が出来るというのは幸運だった。だが、一限が始まると、彼は机に突っ伏し爆睡を始める。すくなからず、授業に取り組む姿勢は見た目通りである。
まわりを見回す。自席はクラスの一番後ろ。だからこそ他の生徒の後ろ姿しか見ることはできないが、やはり北海道時代の制服は少なからず浮いており、そして何よりも地味だと感じる。
前は茶髪。隣の窓際の女子は金髪のギャルだ。
──ん?
その茶色の髪の彼女の横顔にふと違和感を感じた。
「あっ」
思わず声に出てしまった。スマートフォンを弄る彼女は声に気がついたのか、こちらを横目でちらりと見る。目が合う。その目は先日訪れたコンビニ店員にそっくりであった。いや、あの時の店員、それは隣の彼女だ。
同じ高校の同級生、それも同じクラスの女子が働いているとなると、今後あのコンビニは行きづらいと思った。
そして先ほど藤井から貰った書類の中に名簿もあったことを思い出した。
教科書の上に名簿を乗せ、隣の彼女の名前を探す。
──柊木鈴音。
それが名前であった。そして、その時昔のおぼろげな記憶が蘇る。
引っ越す前の小学生の時だ。この柊木という名前に覚えがあった。それもかなり仲が良かったような。
月日というのは人を変える。それは女性ならばなおさらと叔母は言っていた。
あの時、クラスのみんなで鬼ごっこやら、神社でかくれんぼをしていた。そうだ、確か小さなおかっぱの女子がいた。そして、ぼんやりとした記憶ではあるが、あのおかっぱの子が柊木という名前だったような。
気がつくと彼女と再び目が合ってしまう。
慌ててその目をそらす。長い髪はくるりとカールされており、白くはだけた制服を着る彼女。もし隣の彼女が、「柊木鈴音」であるとするならば、まるで脱皮をした蝶なのかと思うほど、変化している。
そんなことを考えている合間に授業の終了を知らせるチャイムは鳴る。
偶然の一致かもしれない。だからこそ、声をかけるのは憚られた。前に座っていた村尾という陽気な男はそそくさと教室から出て行ってしまう。
一つ見えない壁に阻まれらながら、皆の視線に耐えなくてはならなくなった。
気がつくと彼女の周りに女子が複数いた。
「ねえ、隣のクラスの桜井まだ家に帰ってないらしいよ」
嫌が応でも会話が聞こえてしまう。どうやら柊木に声をかけているらしい。
「あ、インステ見た。でもなんかあれでしょ。彼氏とどっか行っちゃったんでしょ? なんか昨日写真上がってたじゃん。彼氏と旅行中とか言って」
取り巻きの一人が返事をする。インステグラム、SNSアプリのことだ。
今じゃ皆やっている。写真を投稿し、それに皆がメッセージを書き込む。
好きでやっているのだから良いかもしれないが、こうした話題の種にされてしまう事を自分は知っていた。だからこそインステからは遠ざかっていた。うん。決して流行に乗り遅れたわけではない。
「いや、でもあの写真なんか変じゃなかった? なんか不気味っていうか、ホラーっぽくない?」
「え、そうなの? 写真とか見てなかった。そのままイイねだけしたから」
「ほら、見てみなよ」
盗み聞きをしている気がしてしまったこともあり、気まずくなってしまったので、トイレに行こうとした。しかし、無意識のうちに女子が持つ携帯の画面を見てしまった。
──奇妙な写真だと思った。
ピントもあっておらず、光源もない。彼女が桜井というのだろうか。しかし、光がないせいで、その顔はおぼろげで表情もわからない。笑っているのか、泣いているのか。そもそも場所はどこなのだろうか。
知っている事といえば最近、インステに投稿されている写真の大体は明瞭かつ大胆、構図もしっかりしている。それは当然、写真を用いてアピールをするためだ。だからこそ、こういった脈絡もない写真を投稿する意味もまた分からなかった。
「あ、転校生も気になる感じ?」
立ち尽くす自分に、女子たちの視線が集まる。
「あ、ごめん」
そう言って逃げるようにトイレへ向かう。彼女とも目が再び会ってしまった。印象を悪くしたかもしれない。転校初日であまり良くはない一手を打ってしまったと後悔した。
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