2話:父と帰る(浅倉朝太郎)
高速道路を降りると随分と懐かしい匂いが鼻についた。
季節は夏。この昼下がりの灼熱の中、水着を着た男女がはしゃいでいる。何が楽しいのか正直理解に苦しむ。
「寄っていくか」
車を運転する父はぽつりと言った。
「いや。大丈夫」
「そうか。小さい頃はよく行ったが、もう朝太郎も十七だもんな」
父は少し白髪の混じった髪を撫で、空白の数年を埋めるかのように笑ってみせる。いつもならば微笑み「何言ってんのよ」と茶化す叔母はもういない。
「あの人に着いていくって言うなら止めはしないけど」
長期の海外赴任から父が帰ってくる。
鎌倉の街に来るまでは父の妹の叔母の二人で北海道に住んでいた。
叔母は驚いていた。なぜあんな父に付いていくのか、と。母は自分が8歳の時に亡くなった。その記憶は思い出したくもないが、母が亡くなった後の父は人が変わったように、ただ、がむしゃらに働いていた。
父のアメリカ転勤が決まった時、半ば育児放棄に近い状態となっていたためか、叔母は幼い自分を引き取って育ててくれた。それにはとても感謝している。
だからこそ叔母の反対を押し切って、父と共にこの場所へ戻るとこを告げた時、とてつもなく困惑した顔をしていた。
だが、次の瞬間には「まあ、実の父と過ごすのが一番良いかもね」と優しく微笑んでいた。
しかし、自分でもなぜ父のもとへ戻ったのか理由はわからなかった。それこそ、父と過ごした記憶など小学生の時だ。今でも克明に覚えている記憶はそれほど多くはない。
けれど、父がこの昔みんなで住んでいた鎌倉の街に帰ると聞いた時、思わず自分の体が震えた。そこまで良い思い出もない。強いて挙げるならば家族のみんながいた、そんなわずかな記憶だ。けれども、自分はこの街に戻りたいと思ったのだ。
車は走り、街特有の曲がりくねった細道を進んでいく。海岸沿いから少し離れた住宅街に近づくにつれて観光客は減り、人通りも少なくなっていく。
「とりあえず一軒家を借りたんだ。結構年季が入っているけど、良いところなんだ」
父はウインカーをチカチカと光らせ、右へ左へと曲がる。
そうこうして辿り着いた家は「年季が入った」と言えば聞こえはよいが「老朽化し耐震性能に不安を覚える」新居だった。
夏の日差しを何十年耐えたのだろうか、あちこちは黒ずみ、いつ倒壊してもおかしくはないとうにみえた。木造で玄関も古い作りで、いわゆるドアではなく引き戸だ。
すでに家の前にはトラック数台が新たな家の主人を待っていた。小柄な老人が自分たちの車を見るなり手をこまねく。
「浅倉さん。こっちこっち」
父は老人を見つけると同じく手を振ってみせた。運転中に、そんな素振りをするものだから車体は振れ、反対車線へはみ出しそうになる。
「ちょっと親父」
「おっとと。すまん。すまん。なあ朝太郎。あの海鮮丼屋の爺さん覚えているかい。あの時の親父さんがここの大家なんだよ」
存在が次第に明瞭になるに連れ、薄れた記憶の中で見たことがあった気がしてくる。
「えらく安く貸してくれるんだよ。それに俺がいない時でも安心だしね」
そう言っては車庫、となるのかわからない雨ざらしになりそうな空き地に車を停める。
「どうも考太郎さん。お久しぶりですな」
父に向かいしわくちゃな笑顔を見せ言う。
「いやあ。まさかまたこの町に戻るとは思わなかったですよ」
「私もですよ。しかし息子さんと二人暮らしになるとは思わなかったですがねえ」
「それは僕も一緒です」
そう言っては「あはは」と笑う。
自分はどのような反応をして良いのかわからず、とりあえず大家である老人にペコリと頭を下げた。
「じゃあ、とりあえず荷物のことは朝太郎に聞いてください。僕はこの足で仕事に行かなくちゃいけなくて」
「えっ」
初耳だった。父は手を顔の前に出し、ごめんごめんと小さく呟いた。そのまま大家に向かい、ペコリと頭を下げると車に乗り込みどこかへ消えていった。
「ありゃ朝太郎くん。聞いてなかったのかい」
「も、もちろんです」
昔から飄々としていたのは記憶にあるが、ここまでだったろうか。
「だって、今日数年ぶりに会ったんでしょう」
「そうです、ねえ」
「まあ、昔からああいう人だったからねえ」
そう言って、目をさらに細めて笑う隣の老人に、ついに自分の記憶が追いついた。
とおい昔。幼稚園に通っていた時だろうか。たびたび家族で海鮮丼を食べに行っていた、鎌倉駅の近くにある料理屋の亭主。彼がこの目の前にいる老人であった。
どうやら顔に出ていたらしく老人は「思い出したかい」肩に手を置く。
「さて、朝太郎くん。こんな老いぼれだけど手伝うよ」
大家はトラックの運転手にあれやこれやと指示を出してくれた。
海外生活から使っていたであろうソファやら棚やらが、どんどん運びこまれていく。自分の荷物はほとんどなく、この数台のトラックに乗っているのは父のものしかない。
しかし、一緒に家に押し込められていく海外の飾りものや、お面の類は何に使うのだろうか。
「ほら、朝太郎くん。とりあえず中に入って。引越し屋さんに置き場所を教えてあげてちょうだい」
「は、はあ」
玄関に入ると他人染みた畳と古い木の匂いがした。靴をぽん、と脱ぎ捨て廊下に上がる。
その時、土壁に触れたが、ポロリと剥がれ落ちることはなかった。どうやら綺麗に整えられているようであった。
二階建てだが、そこまで部屋数は多くはない。居間はフローリングになっているがそれ以外の部屋は全て畳の和室だった。それらの各部屋は襖で区切られており、一階と二階にそれぞれ二つずつある。合計四部屋。
日当たりがよく、いや良すぎているのか日差しで畳は変色している。
荷物はテンポ良く運び込まれていく、タンス類、衣装棚、冷蔵庫、洗濯機の必需品以外の無数の段ボール。とにかく量が凄まじく、明らかに一人単身赴任の男の生活とは思えない程だ。父は一体どんな生活を送っていたのかと不安になる。
「すいません。この衣装ケースはどこに」
呆気にとられる暇もなく、あちらこちらと指示を出す。そもそも物心ついてからの引越しは初めてであったため、大家さんが大分助けてくれた。
結局、引越しが終わるのは日が暮れ始めた時だった。結局父は、今回の引っ越しは、ほぼ不参加であった。
「よし、と」
ひたすらに大家さんと荷ほどきをして何とか住まいとしての形にはなった。
まだ未開封の段ボールは隣の和室にごまんとあるが、居間には生活用品を置くことはできたため、少なからず人間的な生活を送ることはできそうであった。
「それじゃあ、これで私は帰りますかな」
老人はポンポンと腰を叩く。
「あ、今日は本当にありがとうございました」
「いやいや。楽しかったよ。考太郎さんによろしくね。あ、あと朝太郎くん。今度また海鮮丼、食べにきてよ」
「はい。ありがとうございます。父と二人で近々行きます」
大家は、にこやかに笑っては見せるが、やはり久しぶりの重労働であったのか、玄関先で少しよろめいた。
けれども、最後には手を振って消えていった。
それぞれの窓を閉めようとした時、夕闇が次第に支配し始めていくことに気づいた。初めての家。そこに大家さんがいなくなると、いよいよ他所よそしい。とりあえず父にメールを打つ。
「引越しおわった」
そしてすぐさま返事が来る。
「お疲れさま。帰り遅くなります。夕飯は各自調達しましょう」
せっかくの二人暮らし初日。それも久しぶりの親子の再会。
だからこそ、一緒に夕飯を食べれられると勝手に思っていた。少し残念ではあったが、父は昔からこういった人間であったことを改めて実感する。決して嫌というわけではなく、むしろ懐かしい気持ちだ。
「この辺ってコンビニあるのかな」
独り言は静かに部屋に響く。スマホの地図で探してみると近場にコンビニはあるらしい。他にも、新たな住処は鎌倉駅にも近いことがわかった。
どうせやることはなかったため、探索も含めて少し出かけることにした。
とりあえずそのままの格好で外に出る。玄関に置いてある鍵を握りしめ、夕闇が支配する鎌倉の町を散歩することにした。
街灯が明かりをつけ始めた。家から少し歩いた先のトンネルを抜け、ものの数分で駅まで辿りつくことができた。観光客だろうか。たくさんの荷物を抱えた人たちが往来している。北海道の田舎とは違い駅の落ち着きはない。外国の人もたくさんいた。
こんな町だっただろうか。微かに残っている記憶を頼りに駅周辺をぶらつく。
すると面白いことに当時の記憶が段々と蘇ってくる。ああ、ここは小学校までの通学路だったな、ここには昔駄菓子屋があったな、など。
はるか昔からある歴史のある街、といっても流石に時代の波は存在しているらしくスタービックスコーヒーなどが新しく出来ていた。
そこには女子高生が談笑している姿があった。自分の転校先の生徒なのだろう。これから通う鎌倉第一高校の「K」の印字がYシャツに刻まれている。今日は土曜日なので、初登校は明後日。しかし、自分の制服はまだできていない。
「親父は頼んでくれてるんだっけ」
そんなことを気にしながら町をふらりふらりと歩いていると、地図で見つけたコンビニがあったので立ち寄ることにした。
さすが本州関東の暑さであった。北海道の涼やかな気候とは違い、纏わりつくような鬱陶しい暑さではあった。しかしこうして我慢した後のクーラーが入った場所は、とても気持ちが良いものだった。
とりあえず今日の晩飯と明日の食料を調達しなければならない。カゴをとり、とりあえずの弁当や菓子パンを買い込む。
こうして見ると少しばかりの寂しさが襲ってきた。いつもならば、叔母が作る食事にありつける時間だ。だが今はこうしてよく冷えた弁当をたんまりと買おうとしている。
かつての学校の友人、家族。それらの慣れ親しんだものを捨ててまで、なぜ自分は父とともにこの町に来たのか。
──わからない。
それこそ、東京の大学には行きたいと思っていたからこっちに引越すことにメリットも感じた。叔母はいつでも遊びに来ても良いと言っていたし、今度遊びに行くとも言っていたから、今回の引越しにそこまで重い感情はなかったのだが、やっぱり少しさみしいものだ。
北海道の友人にLIMEを返しながら、必要な代物を買い込む。歯ブラシもシャンプーもなかったはずだ。
とりあえずレジで買い物カゴを二つばかしドンと置くと、バイトのギャルは驚いていた。
同い年くらいの人間が途轍もない量の生活用品を買うのが、珍しいのかギャルはじっくりと自分の顔を見る。ゆっくりと何かを確かめるような瞳で。
「あの、レジ打ってもらっていいですか」
その大きな瞳があまりにもマジマジと見るものだから、思わず声をかけてしまう。
すると彼女は、一つ首を振って「スンマセン」と言ってはバーコードを読み取っていく。
「全部で3800円」
なかなかの金額になってしまったが、まあ良しとした。そして会計を済ませ商品を取ろうとした時、彼女は声をかけてきた。
「あの」
「はい」
彼女は何やら困った顔をしてみせる。ぱちぱととつけまつげが大きく揺れる。
「いや、なんでもないです」
「あ。そうですか」
なんだったのだろうか。今日び高校生が一人で夕飯の買い出しに行くのはそこまで珍しくはないだろう。
そうして、帰路に立つ。車のテールランプと、柔らかい街明かりの中を歩く。ただ帰るといっても今日来た初めての家だから少し現実味がない。けれども久しぶりに嗅ぐこの潮と街の匂いは自然と心を落ち着かせてくれた。
家、と呼ぶにはあまりに早いその住処に帰るも、明かりはついていなかった。まだ父は帰っていないようだった。とりいそぎ居間にありったけの食材をならべる。レンジは動かせるようになっているから、すくなからず暖かいご飯にはありつける。
誰もいない家。ちりり、と虫の音、時折車の走るエンジン音。
それは何とも言い難い感覚であった。どこかワクワクするようで、少しもの悲しい。
小さいころ一人で夜の街を探索するようなそんな感覚。
唐揚げ弁当とサンドウィッチ、それにおにぎりは少々やりすぎたかもしれないが、とりあえずそれらを平らげた。父が夕飯をたべられなかったことも考慮し、机に買っておいた余りの弁当を置いておくことにした。
「さて、と」
廊下を少し歩くと風呂場があった。青いタイルが散りばめられた古めかしい雰囲気がある浴室だ。蛇口をひねって湯をためる。少しひねると熱すぎて、水を少し混ぜるとと冷たい。前までボタン一つで出来たことは、意外と複雑な手順が必要なのだと少し驚いた。
窓を眺める。湯気はくらりと揺らめき、外へ吸い込まれるように逃げ出していく。湯船に腰を下ろし、顔を洗った。
数年振りに再会する父、そして街。
なぜここに来たのだろうか。自分の疑問を天井に聞いてみても何もかえってはこない。それは北海道でもここでも同じだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます!




