2話
キイ、と軽い音が鳴ると同時に、『黒猫亭』の白いドアが開く。
「いらっしゃいませー」
カウンターで皿を洗いながら、やる気のない声を出した茶色の髪の少女に、少女のもとへ客の下げた皿を運んでいた老婆はたしなめるような視線を送った。それに対し、少女が一瞬だけ気まずそうな表情を見せたことに老婆は苦笑いして肩をすくめる。つい先ほどまで、客が入れ替わり立ち替わりやってきて、厨房もカウンターもフル回転だったのだ。老婆は、少女が疲れていることに気づいていた。
カウンターの上に皿を置き、グレーの簡素な服の上につけている白いエプロンのしわをさっと伸ばす。
入ってきた客は同じくらいの背丈の二人組みだった。どちらも魔法使いが身につける黒いローブを頭から足の先まですっぽり覆うように着ている。一人は普通のローブだったが、もう一人は首の周りに装飾品のようなものをつけているようだった。
「奥の席を借りたいのですが―――マリアーナ殿」
老婆から見て左側の普通のローブ姿のほうが、深く被ったフードを左手で後ろへ少し引き下げながら言った。フードの下から現れた顔を見て、老婆――マリアーナが、眼鏡の奥の茶色の瞳をわずかに見開く。さっと店の中を見回し、運よく客が一人もいないことを確認すると、少し沈黙した後、
「・・・わかりました。シシー」
カウンターの少女の名を呼んだ。顔を上げた孫娘に、上に行くよう指で合図する。シシーは素直に頷くと、パタパタと足音を響かせながら、カウンターを通り過ぎた先にある階段へ消えていった。その足の速さに苦笑いしてから、
「奥へどうぞ」
マリアーナは、ドアの左右にある窓のカーテンを閉じると、一番奥にある小さな席へ二人を案内した。
暖かい紅茶を二つの白いティーカップに注ぎ、砂糖入れとともにトレーにのせて運ぶ。二人の前にティーカップをそれぞれ置くと、さっき顔を見せたほうが頭を下げた。
「忙しい時間に申し訳ありません。マリアーナ殿」
「謝らないでくださいな。ウォーリア様」
恐縮している青年に、マリアーナは安心させるために微笑みかける。
「大事なお客様の一人ですもの。・・・お水、必要かしら?」
砂糖入れを、ウォーリアともう一人の中間に置いてから小さな声で聞くと、ウォーリアは首を縦に振った。
「わかったわ。少し待っていてちょうだい」
マリアーナは、ウォーリアの隣に座っているローブ姿のほうをちらりと見るとカウンターへ向かった。水をグラスに入れ、再び二人のもとへ戻り、ローブ姿の前へ置く。
「エイド様、マリアーナ殿が水を持ってきてくださいましたよ」
マリアーナとウォーリアが見ている前で、エイドはグラスに手を伸ばすとフードをかぶったまま飲もうとして、邪魔だったのか、さっきウォーリアがそうしたように後ろに引き下げた。フードの中から現れた短い銀髪と青い瞳の少年の顔に、本人にはわからないよう、マリアーナはこっそりため息をつく。
「エイド様!フードはかぶったままで飲んでください」
ウォーリアが完全に脱げてしまったフードをかぶせようとするが、エイドはその手を振り払う。
「うるさい」
至近距離に近づいただけで、匂うほどの量の酒を飲んできたらしい。青い瞳は完全に据わっていた。
「もう帰るんですよね?もう一軒とか言いませんよね?」
振り払われた拍子に脱げてしまったフードを被りながら、ウォーリアが恐る恐る尋ねた。軽いウェーブがかかった、エイドよりはもう少し長い金髪がフードの中へ再び隠される。エイドは、フードをかぶせようとするウォーリアの手を再び払いのけると、頬つえをついて言った。
「・・・そうだなぁ、そういえばまだ2軒しか行ってないしな」
「それ以上飲むというんですか?!」
ウォーリアが半ば泣きながら頭を抱えるのを見て、マリアーナは近くの椅子に座る。
「エイド様」
「うん?」
顔をこちらに向け、素直な子どものような返事を返す少年に、優しく言う。
「今日はもうお帰りなさいませ」
途端に、銀髪の青年はテーブルに視線を落とす。
「・・・お前はいつも、すぐに帰れと言う」
すねたように言うエイドに、マリアーナは続けた。
「私としては、いつまでもここにいていただいても構いませんのよ。けれど、エイド様は帰る場所がちゃんとありますもの。お帰りを待っていらっしゃる方々がいることがわかっている以上は、お引き留めするわけには参りませんでしょう?」
「まだここにきてそれほどたってはいないぞ」
食い下がるような言葉に、マリアーナは寂しそうな笑みを浮かべる。
「それでも、ですわ」
エイドは、マリアーナの言葉を受けて青い瞳を閉じると、頭を抱えているウォーリアに言った。
「・・・実は、迎えは、ちゃんと呼んである」
言いたくなかったのか、わざと一言ずつ区切るような言い方だったが、ウォーリアの表情がさっきまでとは一転して輝く。
「だが、到着までにもうしばらくはかかるだろうから、それまではいいだろう?」
「ええ、もちろんですわ。ですが、エイド様」
マリアーナは立ち上がってエイドの脱いだフードに手をかけると、再び被せた。
「フードはきちんと被ってくださいませね?」
「・・・わかった」
エイドの青い瞳を見つめ、マリアーナはにっこり笑った。
魔女協会は、その名の通り、魔女が運営している組織である。魔女は、魔法学校を卒業すると、必ず協会に所属することになっている。協会の本部は、魔法庁があるサンレスティーア国にあり、支部はそれぞれの国にある。本部は一見宮殿のようなきらびやかな建物だが、支部となると規模も国によって違い、偏見が残っている国では国の外れにひっそりあったり、そうでないシェルサードのような国はメインストリートにあったりと、様々だ。
協会の仕事は、各地を旅する魔女にその国の最新の情報を提供したり、宿泊施設の斡旋、魔女が何かしらの事件・事故に巻き込まれたときの保護、職を探している魔女への求人情報の提供など、多岐に渡る。求人に関して、一般の職業紹介所を頼ってはいけないということではないが、協会へ寄せられる求人のほうが条件が良い場合が多いため、多くの魔女たちは協会の求人情報に頼ることが多い。そのため、アーシェも協会の求人情報を利用しているのだが、ここ最近はいい仕事に出会えていなかった。
協会の中の壁に貼り出してあった求人は、さすがシェルサードと思わせるほどの条件のよい内容が多数を占めていた。何件かに目星をつけ、窓口に座っている長い黒髪に琥珀色の瞳の魔女に紹介を依頼する。魔女はファイルをパラパラめくった後、首を横に振った。
「じゃあ、この屋敷の皿洗いと掃除のとかは?」
皿洗いや掃除などの仕事を嫌がる魔女は多い。(もちろん魔法使いもだが)アーシェは平気だった。
受付の魔女は、ファイルをめくることなく、再び首を横に振った。
「そこに出ている求人は、全部紹介済みなんです」
「え?一件もないの?」
「ええ。ご存じかと思いますけど、シェルサードにおける魔女や魔法使いたちの人口割合って結構高いので、求人の奪い合いになってる状態なんですよ。時期にもよりますけど、うーん・・・今の時期は特に厳しいかなぁ」
のん気に言う魔女に、アーシェは、
「明日になればまた求人きます?」
その問いに、魔女は首を傾げる。
「確かに求人は毎日来ますけど、あなたが希望される仕事とは限りませんし」
「何でもいいの!皿洗いでも掃除でも平気だから!」
魔女は目をぱちぱちさせながら、きょとんとした表情で頷いた。
「じゃあ、また明日来ます!あ、今からの時間でも泊れそうな宿ってありませんか?」
黒髪の魔女は、別のファイルをパラパラめくって何軒かの宿のリストをアーシェに見せた。
「黒猫亭・・・」
トップにあった宿の名前には聞き覚えがあった。
「黒猫亭はご飯がおいしいですよ。宿泊料金もリーズナブルだし」
料金のところを見ると、銀貨2枚とかなり安い。これでご飯がおいしいとなれば、もう言うことはない。
「ありがとう。ここに行ってみます」
アーシェは、さっき出会ったばかりの老婆の柔らかな笑みを思い出していた。