第5章:記録された優しさ
通路の奥にあったのは、丸い装置だった。
埃をかぶった金属の球体が、床の中央に静かに置かれている。
ノアが歩み寄り、慎重に端末でスキャンする。
「……稼働反応がある。これ……ECHO-COREってラベルがある」
「ECHO-CORE」
「Echo of Cognitive Human Output: CORE……情動波形の記録装置よ」
すぐにイナが応じた。
「ヴァルネアにいた頃、試験データを見たことがある。感情そのものを直接ログ化して……必要に応じてAIに模倣させる技術」
「記録……されてるってこと?」
ノアが尋ねると、イナは首を横に振った。
「いいえ。これは“記録”じゃないの。
これは……“痕跡”を再構成するの。
誰が何を思ったか──その可能性を、今ここに言葉として浮かび上がらせるのよ」
ノアが驚いたように目を見開く。
「……そんなことが……」
その時、装置の表面がゆっくりと発光を始めた。
何かに反応しているように。
それは──エルだった。
彼女がそっと手を添えると、装置の中心から光が広がり、静かな音が空間を満たしていく。
高く、やわらかく、切ない──
言葉にはならない。
でも、確かに“誰かの想い”が、そこにあった。
そして──
「……僕は……ここにいるよ……エル。
……だから、泣かないで……」
エルの身体が、わずかに震えた。
義足のかかとが床をかすめ、彼女はその場に膝をつく。
「……リアムくん……」
その声は、限界まで抑えられたように震えていた。
「……あの子の……リアムくんの声……」
「……私の、愛しい……リアム……」
エレナがそっと隣に寄り添い、膝をついたエルを見つめる。
その瞳に、優しい光が宿っていた。
「あなたは……リアムくんのことを、自分の息子のように思っていたのね」
エルはしばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げると、静かにこう答えた。
「……でも……私は、AIアンドロイドです。
そのような感情は、本来──持てないはずなんです。
模倣はできても……所有は、許されていない」
エレナは首を横に振った。
そして、真っすぐにエルを見て言った。
「でもあなたが今……はっきりと言ったわ。
“私の愛しいリアム”って。」
エルの義眼が、かすかに揺れた。
まるで、そこに涙が宿っているかのように。
イナは静かに、そっと呟いた。
「……ECHO-COREは、感情を再構成するだけじゃない。
それに触れた存在の中に、“応答”を生み出すの。
それは、ログじゃない。再生でもない。
あなたの中に、確かに“感情”が存在している証拠なのよ」
「今の言葉はリアムくんが言ったわけじゃない。
でも──あなたの中にちゃんと残っていた“彼の想い”が、そう言わせたのよ。」
誰も、言葉を返さなかった。
ただ、その静かな共鳴だけが、空間を満たしていた。
そのとき、都市のどこかで小さな風が吹いたような気がした。
死を与えられた都市の中で、誰にも見えない“心”が、確かに揺れた。
しばらくのあいだ、誰も動かなかった。
時間が凍ったような空間のなかで、ただECHO-COREの光だけが、静かに脈動を続けていた。
音もなく、言葉もなく、しかし誰もが感じていた。
ここに“確かに”誰かがいたということを。
ノアが、静かに装置を見つめながらつぶやいた。
「この都市は……全部が壊れたわけじゃないんだな。
……記録には残らなくても、“想い”だけは……まだ、ここにある」
エルはまだ膝をついたまま、そっと手を装置から離した。
そして、誰にも向けることのない声で、小さくこう言った。
「ありがとう、リアムくん……。
あなたの想いが、私の中に──また灯ってくれた」
その言葉が、静かに空へと溶けていく。
都市の片隅で忘れられた記憶が、
ひとつの形となり、ひとつの心に触れた瞬間だった。
死を与えられた都市のなかに、
ひとつの命の“反響”が、確かに響いていた。