拍手のない世界
ある朝、目覚めると、右足がズキズキと痛んだ。
日雇いバイトの搬入現場で、鉄パイプを足に落としたのだ。
「まぁ…大丈夫っしょ…」
いつものことだ。湿布を貼って、痛み止めを飲んで、無理やり起きる。
けど、その日受けるはずだったオーディションは、キャンセルした。
台本もろくに覚えてなかったし、「どうせ落ちる」とどこかで決めつけていた。
夜、冷え切った部屋で、スーパーの半額弁当をつつく。
「幸せそうな家族連れ」を見ながらレジに並ぶとき、自分だけがガラス越しの異物みたいに感じた。
久しぶりに母から電話がきた。
「元気にしてる?…体、壊してない?」
「うん、大丈夫……仕事も、まあまあ」
「…夢、まだ、追ってるんだね」
「……うん」
沈黙。
その“うん”には、何も中身がなかった。
夜中、舞台仲間だった男からLINEが届く。
> 「お疲れ!急だけど、来月の舞台、役空いたんだ。やってみない?」
心が少しだけ動いた。
「セリフ、ある?」
> 「……ない。動きだけの役だけど、雰囲気出せるの奏しかいないって言われてる。」
その“セリフがない”という言葉に、胸の奥がジクジクと痛んだ。
──もう俺は、“喋らない役”しか与えられないんだ。
舞台は小さな箱だった。客は数十人。
立ち位置は端。言葉もなく、ただ存在するだけ。
けれど、リハのたびに演出から指示が飛んだ。
「そこ、もっと“死んだ目”で立ってくれる?」
「表情いらないよ。お前はただの背景だから」
わかってる。わかってるんだよ。
それでも、「ただの背景」って言葉が、“俺の人生そのもの”に聞こえてしまった。
本番初日。
舞台袖から客席を見たが、知り合いの顔はひとつもなかった。
誰も俺を見に来ていない。誰も、俺の人生を知らない。
この数年間、俺は誰の心にも残らなかった。
立ち位置に入る。照明が落ちる。
無言のまま、空気のように立ち尽くす。
カーテンコール。
拍手が起こる。主役が出てきたからだ。
俺はその後ろで、一礼して、袖に引っ込む。
──誰も、俺の顔を見ていなかった。
終演後、観客が出口へと流れていく。
ふと、ひとりの女性が近づいてきた。
「……あなたの目、なんか……空っぽで、怖かったです。印象に残りました。」
微笑みながら言ってくれたが、
奏はただ小さく頭を下げて、それ以上何も言えなかった。
褒められたのか、否定されたのかさえ、もう分からなかった。
舞台の打ち上げで、誰かが「次の目標」を話していた。
主演の女優は「次は映像に行くんです」と言った。
他の奴らも、次のプロジェクトの話をしていた。
奏は黙って聞いていた。
ビールはぬるかったし、唐揚げは冷めていた。
帰り道。
雨が降っていた。傘はなかった。
歩きながら、ふとつぶやいた。
「なんで俺、生きてるんだろうな」
その声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
帰ってきた部屋は冷たかった。布団も冷たい。
財布の中には、小銭が数枚だけ。
寝る前に、スマホを開いた。
“役者 辞める” “夢 諦める方法” “普通の人生 やり直し方”
検索しては消した。消しては、また検索した。
気づいたら、朝になっていた。
目の下にはクマ、体は重く、心はそれよりもっと重かった。
この日、春川奏は気づいた。
「俺の人生には、もう“次のステージ”なんてないんじゃないか」