東京は舞台じゃない
新宿の街を初めて歩いたとき、春川奏は息を呑んだ。
田舎では見たこともないようなネオン、雑踏、人の多さ。
「やっと物語が始まった」──本気で、そう思っていた。
演技の専門学校では、夢を持つ若者たちが集まっていた。皆が“主役になれる未来”を信じていた。
──いや、皆が“主役になれるつもりでいる”だけだった。
「よろしくお願いします!」
明るく挨拶する奏に対し、周囲の反応は薄かった。すでに元子役だったり、演劇科高校出身だったり、地元ではありえない経歴を持つ奴らがゴロゴロいた。
即興演技の授業で、台詞のないシーンを演じると、講師が口を開いた。
「春川くん、…演技“してる”よね。“生きて”ない。」
笑いが起こったわけじゃない。誰もバカにしていない。ただ、あぁ、“レベルが違う”んだと肌で感じた。
それからは日々、比較だった。
「Aは泣ける。Bは声がいい。Cは顔がいい。Dは動きが洗練されてる。」
そして俺は?
何もなかった。
少なくとも、自信が持てるものは一つも見つけられなかった。
部屋は四畳半、風呂なし、トイレ共用。隣の部屋から聞こえるオーディション練習の声にイライラした。
だけど──本当は、その「努力する声」がうらやましかった。
こっちは帰ってきたらもうバイトでヘトヘト。練習なんてできるわけない。
「…才能あるやつはいいよな、時間も余裕もあってさ」
そうつぶやいた瞬間、自分が“言い訳する側の人間”になった気がして吐き気がした。
ある日、クラスメイトの一人が小さな事務所に所属が決まった。
飲み会での彼の笑顔がまぶしすぎて、まともに顔が見られなかった。
「春川くんは…今どんな活動してるの?」
何気ないその質問に、頭が真っ白になる。
「……まだ、探してる段階かな。」
嘘じゃなかった。でも、“何もしてない”ことをオブラートに包んだだけだった。
深夜の帰り道。コンビニ袋をぶら下げながら、街灯の下に立ち止まる。
鏡に映る自分の顔が、知らない人間に見えた。
「……誰だよ、これ」
昔、舞台で主役を張っていた自分は、どこに行ったんだろう。
ある晩、アパートの天井を見上げていたら、急に心がざわついた。
なんの役にも立たない自分、ただの“その他大勢”。
「俺、なんで東京来たんだっけ?」
問いが自分の中で空回りする。答えはもう知っているのに、認めたくなかった。
“夢”は、舞台の上じゃなく、現実の泥に沈んでいた。
そして、気づけば息を吐くように呟いていた。
「あの頃が、一番幸せだったのかもしれないな」