君と出会うまでの時間
悠一は朝、いつものように目を覚まし、窓の外の薄明かりをぼんやりと見つめた。目を開けてすぐに浮かぶのは、何もかもが空虚に思える日常だった。これといった理由もなく起き、何の目標もないまま、ただ時間が過ぎていく。昔は、人々とつながりたかったこともあった。しかし今は、そうした感情がどこかに消えてしまったように感じる。寂しさを感じていたはずなのに、それさえも忘れてしまっている自分に、気づかないふりをしていた。
そんな毎日が続く中、ひとつの出来事が悠一の日常を少しだけ変えた。駅のホームで、彼は見知らぬ少女を見かけた。その少女は、少し大きめのコートを羽織り、足元に転がったカバンを拾おうとしている最中だった。悠一はその姿に何となく惹かれ、歩みを止めた。
「お手伝いしましょうか?」悠一は声をかけた。カバンが散らばっているのに気づいたからだ。
「ありがとうございます。」少女は少し驚いたような顔をしながらも、礼を言って微笑んだ。その笑顔には、どこか哀しさを感じたが、同時に温かみもあった。悠一は思わず、視線をそのまま少女に向けてしまった。
「君、毎日ここにいるのか?」と尋ねた悠一。
「はい、毎日帰りがこの時間なので。」少女はほんの少しだけ目を細めて答えた。その目の奥には、何か隠しきれない寂しさがあった。悠一はその目に、知らず知らずのうちに引き込まれていた。
「名前は?」悠一がもう一度尋ねると、少女はしばらく黙ってから答えた。
「莉子です。」
その名前を聞いて、悠一は何故かどこか安心するような感覚を覚えた。その後、少しずつ彼と莉子の間には、言葉が交わされるようになった。最初はただの挨拶程度だったが、日々顔を合わせるうちに、二人は自然に会話を続けるようになっていた。
だが、その莉子に何か秘密があるように感じていた悠一は、ある日思い切って聞いた。
「君、元気そうに見えるけど、なんだか少し無理してるように見える。」
莉子はその質問にしばらく沈黙し、そして静かに答えた。「実は、余命を宣告されたんです。」
その言葉に、悠一は言葉を失った。莉子が病気であることを感じていた自分に対して、何か不安に駆られた。余命宣告を受けた少女が、どうしてこんなにも明るくいられるのだろうか?悠一はそのことを受け入れることができず、ただただ呆然とした。
「余命宣告?でも、君は毎日こうして笑っているじゃないか。」
莉子は少しだけ笑みを浮かべて言った。「そうね。でも、そうやって少しでも笑って過ごすことが、私にとって大切なんです。」
その言葉が悠一の胸に強く残った。莉子は、彼にとっての「死」を受け入れ、まるでそれが生活の一部であるかのように過ごしていた。その姿勢に、悠一は自分自身の弱さを感じ、反発するように心の中で思った。
「でも、そんなふうに無理して笑っていることに、意味があるのか?」と、心の中で問い続けた。しかし、同時にそれを自分に問うことはできなかった。なぜなら、自分はその「意味」を感じることなく、ただ毎日を無為に過ごしてきたからだ。
それでも、莉子との会話は次第に彼の心の奥を突き刺していった。彼女の笑顔、優しさ、そしてその背後にある深い悲しみ。それらが、彼を無意識のうちに引き寄せていった。毎日顔を合わせるたびに、悠一の中で「今、何かを感じる」という感覚が、少しずつ芽生えていた。
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それから数週間が過ぎ、莉子と悠一の関係は日に日に深まっていった。何気ない会話、些細な出来事が、二人にとって特別な瞬間となっていった。悠一は徐々に彼女の言葉や行動に触発されていき、自分が今までどれほど無関心に過ごしてきたのかを痛感するようになった。
「悠一さん、見てください。」ある日、莉子が指を差した先には、夕日が沈みかけている空が広がっていた。悠一はその美しい光景に思わず立ち止まった。
「こんなにきれいな景色を見て、こんなにも幸せだと思うことが、私は好きなんです。」
その言葉を聞いたとき、悠一は彼女の中にある「生きる力」を感じた。死を間近に控えた彼女が、それでもこんなにも美しいものを感じ、心から生きることを大切にしているのだと、強く思った。そして、その姿勢が、悠一の中にあった自分への無関心を少しずつ変えていった。
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しかし、時間は無情にも過ぎ去っていく。莉子の容態は確実に悪化していた。歩くことが困難になり、日常的な動作も辛くなってきた。それでも、彼女は笑顔を絶やさず、毎日悠一との時間を大切にしていた。だが、悠一はその姿を見ていて、胸が締め付けられるような思いを抱いていた。
「本当に君はすごいね、そんなに辛くても笑っていられるなんて…」悠一が呟くと、莉子は静かに答えた。
「辛いことがあっても、それを避けてばかりいては何も学べないと思うんです。私は、自分が死ぬことを恐れたくないんです。」彼女の言葉には、深い覚悟と共に、何か清らかなものが感じられた。
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そして、その時が来た。莉子が静かに息を引き取った。悠一はその日、病室で彼女の手を握りしめていた。彼女の顔には、まるで平穏な眠りについているかのような、穏やかな表情が浮かんでいた。
「ありがとう、悠一さん。」彼女が言った言葉が、今でも悠一の耳に鮮明に残っている。彼女は、最期の瞬間まで自分を支えてくれた悠一に、感謝の気持ちを伝えていた。
その瞬間、悠一は涙が止まらなかった。彼女が教えてくれたこと、彼女との時間が、これからの自分の生き方を変えていくのだと、彼は心から感じた。彼は、彼女の死を通じて、初めて「生きること」の意味を深く理解することができた。
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君と出会うまでの時間――それは、悠一が自分自身を見つめ直し、莉子との出会いがもたらした「生きる力」を受け継いでいく物語だった。莉子の死を悲しむことはもちろんあったが、それ以上に、彼女が教えてくれたことを胸に、悠一はこれからの日々を真摯に生きていくことを決意した。