09 幻じゃなかった
酔い潰れてしまったライナルトとの飲みから幾日か経ったが、クラウスとの拗れた経緯を吐露したとて日々に変わりはなかった。
というよりも、最近の魔物の動向が怪しくて、魔術師団内はそれどころでなかった。というのが実情なのだが。
ちなみに、飲んだ翌日ライナルトには丁重に謝罪をした。
何度振り返っても上司であり我が帝国の第三皇子に対して、なんてことをしたんだと穴があったら入りたい。
笑いながら「まあ、吐かなかっただけましだな!」などと許してはくれたが、これから一生この件でいじられ続けるかもしれない。いっそのこと埋まりたい。
酔いの醒めた翌日の絶望感と羞恥心というものはあまりに酷かったし、ベッドの上で延々悶えてしまった。本当にもう誰か埋めてくれ。
そんな中、討伐任務が一気に増えさすがに多すぎでは? と日々くたくたになりながらも団内がざわつき始めた頃、ついに招集がかかった。
整列した早々一枚の資料を配られる。
「第二研究課からの報告書があがってきた。各々目を通してくれ」
そう言うライナルトは、いつもなら気さくな笑みで場を和ませてくれるのだが、今ばかりはゲッソリとした隈を浮かべていた。
それどころか誰もかれもが気のせいではなくゲッソリしていた。
そしてそれは、エルダも例外ではない。
連日の絶え間ない討伐任務は日を追うごとに増え続け、ついに実戦部隊は一日中フル稼働となったのだ。
クラウスの論文を読みふけり、嬉々としてその喜びを書き殴った至高の休日以来、エルダには休んだ記憶がない。
今となってはあのときが最後の幸せ時間であった。
なんて遠い目をしていたエルダの横から「ついに来たか……」「やっぱりなぁ」などと沈んだ隊員たちの声がする。全員の目は手元の資料に注がれていた。
第二研究課は主に魔物の研究に力を入れている課だ。
発生地の予測から魔物の生態に至るまで、実際に魔物と対峙する実戦部隊にとってはためになる情報ばかりで、毎度世話になっている課である。
第二研究課からの報告資料には『厄災の発生を確認』とあった。
その文字に、思わずゴクリと喉を鳴らした。
厄災とは、簡単にいえば数年に一度訪れる魔物の群勢である。
そもそも魔物とは瘴気の森から現れる獣であり、瘴気の森とは地脈を流れる魔力の筋――魔道の上にできた森のことを指す。
大地から滲み出た高濃度の魔力が長い年月をかけて森にため込まれ、時と共に変異した瘴気。
その力に充てられすっかり別種へと変貌した動植物が多く住まう瘴気の森は、大小さまざま、世界各地に存在する。
その瘴気の森から餌として人の血肉を求めて現れたり、または人里近くに住み着いてしまったり、そのような魔物を討伐するのが実戦部隊の主な任務なのだ。
だが、どうやら数年の周期で魔道を流れる魔力の量が爆発的に増えるか強まるかするらしい。
それを厄災と呼ぶ。
いざ厄災が始まれば、まるで溢れるように一層獰猛さを増した魔物が、森から一斉に湧き出てくるのだ。
エルダが入団してから初めての厄災ではあるが、おそらく現状はまだ予兆にすぎない段階だろう。
実戦部隊に配属される際には、強く念を押された。
この部隊は厄災をしのぎ切ることがなによりも重要な任務であると。このために存在しているといっても過言ではない。その意識を持って任務にあたってくれと。
魔術学園時代も厄災時に帝都の防衛として学生が駆り出されたことはあったが、騎士団や魔術師団の打ちもらしをわずかに相手した程度で本格的な厄災の戦場はまだ未経験だ。
一気に緊張感が身体を駆け巡る。
「第二実戦部隊は第一騎士団とともにスラハル大森林に配置される。魔物の発生が急激に増えてきてることを鑑みて、明日の早朝には発つ予定だ。あと今回は第一研究課から二名同行がある」
そこで一旦言葉を切ったライナルトと、目が合ったような気がした。
なんとも嫌な予感がする。
「クラウスとニコラだ」
やっぱりな! と思わず天井を見上げたら、現れた白衣の二人を見た隊員全員の視線がエルダに向いたような気さえした。が、おそらく気のせいではないだろう。
「先日転移魔術を完成させたクラウスと、回復魔術を研究している二コラが実地検証もかねて同行する」
スラハル大森林は帝都の西に広がる広大な瘴気の森だ。厄災が起これば帝都とこの森林間の防衛が一番の戦場になるだろうことが予想できる。
そのため第三皇子であるライナルト率いる第二実戦部隊と、精鋭揃いと聞く第一騎士団は全員がスラハル大森林の対応に投入されるのだろうが、そうなると運ばなければならない物資もかなりの量になるのだ。
それを、クラウスの転移魔術で送るらしい。
これができるのならば移動もかなり楽になる。きっとそこから検証を重ねて、最後は人間と物資全てを転移できるようにするのが目標なのだろう。
その検証、してみたい……! とエルダの心も躍った。
すでに小さな荷物はいくつか転移済で、問題無いことも確認できているらしい。
その検証、見たかった……! とエルダの身体もソワソワした。
気もそぞろにそんなことを考えていたら、咎めるようなライナルトの瞳と目が合った。じとりと胡乱気な視線が痛い。危ない。考えていることを見透かされている。
第二実戦部隊のエルダは、それよりも迫る厄災に集中しなければならないのだ。
慌てて背筋を伸ばしたところでライナルトの咳払いが聞こえた。
チラリとクラウスをうかがい見たら、眼鏡の奥からこちらを見据える視線とぶつかって、小さく肩が跳ねる。ずっと睨まれていたのだろうか。目つきがとんでもなく怖い。
なんだなんだと思いつつ、この場は表情を引き締めて隊長であるライナルトに集中した。
クラウスの横に立っているのは、いつも彼と一緒にいる、先日研究棟の前で遭遇した女性だった。
彼女の名前はニコラというらしい。
こうやって改めてみると本当にスラリとしたデキる美女。といった佇まいである。相変わらず二人が並ぶ姿は絵になっていて、見ていて眩しい。
ニコラは回復魔術を研究していると言っていた。これもなかなか興味をそそられるので、機会があれば詳しく話を聞きたいしその魔術構成も――。
などと、つらつら考えている間に解散となっていたらしい。
他の団員たちの姿は見えなくなっていたが、なぜか目の前にクラウスが立っていた。
「……え、なに?」
よほど間抜けな顔をしてしまったのだろう。見上げたらクラウスの眉間に険しい皺ができた。でもあまりに予想外だったのだから仕方がないと思う。
「お前は……」
出てきた声は明らかに不機嫌そうであった、が――。
(相変わらず低くていい声だな。素晴らしい)
じっと見ていたら不快そうに目を眇められた、が――。
(怒っててもいい顔だな。好き)
好みど真ん中のクラウスを思う存分堪能しようと開き直っていたエルダは、ひたすらにご満悦だった。
だが次の言葉で激しく猛省する。
「我を見失うほど酔いつぶれるなんていい歳をしてなにをしているんだ? 隊長に背負われて帰るなんて恥ずかしくないのか?」
なんのことを言っているのか、瞬時に察した。
隊長であるライナルトに背負われて帰ったのなんて、あの酔いつぶれた日だけだ。
(ぎゃあああああああっ!)
兵舎の入口で見たのはクラウスの幻でもなんでもなく、本人であったらしい。なんということだあんな痴態を見られていたとは。今にも悲鳴が飛び出しそうな口を必死に引き結ぶ。
火を噴きそうな恥ずかしさに顔が真っ赤になったのが自分でもわかった。
そんなエルダの様子を目の当たりにして、クラウスがわずかに目を瞠る。
「つ、次からは気を付けるよ」
「次……」
「じゃあ、私も準備があるから!」
それだけを言い捨ててエルダはその場から逃走した。