08 思い出の横顔はよけいに輝くものだ
学生時代、エルダは放課後ともなれば図書館の角席で本を高く積み重ね、時間を忘れてひたすら読みふけりノートをとっていた。
カリカリとペンを走らせていたノートに影が落ちる。
こうやってエルダが一心不乱に没頭する最中に声をかけてくるような物好きは、一人しかいなかった。
その人物を思い浮かべれば、胸の奥で心臓が跳ねる。
見上げて目に入ったのは、珍しい黒褐色の髪をした男子生徒。いつも冷静に見下ろしてくる黒色の目が、真っすぐとエルダを見つめている。
この吸い込まれそうな漆黒の瞳が、エルダは好きだった。
そして相変わらずいい顔をしている。
クラウスと初めて会ったときなんて、しばし息をするのも忘れてしまったほどだった。
忘れもしないその日も、やはりエルダは図書館の角席で必死にノートをとっていた。
この頃は帝国と異国での魔法陣の違いに関する本が大変面白く、没頭しすぎて毎日読み込んでいた気がする。
そんな中ふと顔を上げた瞬間に、ちょうど近くを通った男子生徒。
つい声をかけてしまったほどに彼はエルダの目を引いた。
そして振り返った姿に、一瞬、息が止まる。
黒褐色の髪に良く似合う黒色の瞳は切れ長で、通った鼻筋と訝しそうな眉は凛々しく野性味すら感じられた。なのに漂う雰囲気からは高い知性すらうかがわせる。
兎にも角にも、タイプど真ん中の顔をした男子生徒がそこにいたのだ。
大きく跳ねた心臓が痛いほどそれを主張してきた。
つまり見事なまでの一目惚れである。
「いつも飽きないな」
人生最大の衝撃を思い出しながらしばし見惚れていたら、低い声で問われた。
この常に落ち着きを孕む声も、エルダは好きだった。
とりあえず全部がタイプど真ん中で好きだった。
それでいて――。
「クラウス。早いね、もう訓練は終わったの?」
「なにを言っているんだ。とっくに日が沈んだぞ」
言われて窓を見れば、空は深い紺色から闇夜に覆い尽くされようとしている。館内も気付けば照明が灯っていて、遠くでせわしなく動く司書を見るに、まもなく閉館の案内が聞こえる頃合いだろう。
「……気付かなかった」
「今日はなにをそんなに読んでいたんだ?」
クラウスが隣に座り、聞く姿勢を見せてくれたことが嬉しくていそいそと本を二冊広げた。
「この本にそれぞれ描かれている魔法陣。両方とも同じ効果を起こすものなんだけど、細部の構成が異なっているでしょう?」
「……ああ、確かに。左の本に出てる構成は一般的だが、右の魔法陣も同じ効果があるのか?」
「そうなんだよ! 構成は異なっても効果は同じ! 魔法陣には作った人の個性がよく出るから癖とか比べてると面白くて」
興奮で鼻息を鳴らしたら、クラウスは呆れたような苦笑を浮かべた。
「……マニアック」
「ふふふ。褒めてくれるな」
「褒めてると思うのか? 毎度語られるおかげで、俺まで詳しくなってしまった」
「うんうん。そのマニアックな私の話をクラウスはいつも聞いてくれるから嬉しいよ」
それはまさに言葉の通りで、知り合ってから毎度魔法陣について語りつくすエルダの話を、こんなに聞いてくれるのはクラウスだけだ。
それでいて――クラウスは、内面も素晴らしい人物だったのだ。
実戦魔術ではずば抜けた才を見せるまさに天才。そしてエルダの鬱陶しいほどの魔法陣への情熱にも嫌な顔をせず付き合ってくれる。
これでときめくなという方が無理な話であろう。
嬉しい気持ちをそのまま言葉にしたら、クラウスはわずかに目を見張ってなにかを言いかけたが……結局彼は言葉を飲み込んだ。
そのままなにを言うでもなく本のページをめくっていたのだが、ふとその手が止まる。
「どうしたの?」
なんだかその一連の様子が気になって、手元を覗き込んだ。
開いたページは、現代では失われた過去の魔術に関するページだった。
「転移魔術……が気になるの?」
「これは本当に、過去実際に使われていたものなのか?」
「そうらしいよ。でももう資料が残っていないから完全に途絶えてしまったけれど」
有力な魔術師が使っていたと言い伝えられるものの、過去に起きた大きな争いで名のある魔術師が多く失われ、途絶えた魔術が多くある。転移魔術もそのひとつだ。
過去の魔術師にとって魔術とはおのれの財産であり、他人に教え伝えるなどあってはならないことだった。術の漏洩が死活問題となる時代があったのだ。
やけに真剣な面持ちで本に目を走らせるクラウスを、エルダは黙って見つめていた。横顔も完璧じゃないかなどと不埒なことを考えながら。
正面もいいがクラウスの横顔もエルダは好みであった。
困ってしまうくらいタイプである。
「そうなのか……」
クラウスが呟いたところで、司書から「閉館でーす」と声がかかった。
*****
懐かしい思い出に浸ってから、もう一度論文の表紙に目を落とす。
「とか言ってたのに、本当に転移魔術を復活させるんだもんなぁ」
まだ試作段階とはいえ、これは魔術界としても大変な成果だ。だからこそ、この論文を借りるのは苦労したといえる。
若き研究者、クラウス・ダーミッシュの名前はさらに知れ渡るだろう。
「すごいなぁクラウスは」
部屋に一人でいるときは、こうやって素直に口に出せるのに本人を前にすると上手くいかない。
ただ、過去がどうであれ今は嫌われているのだから考えるだけ無駄である。ライナルトには吹っ切るだとかどうとか話したものの、そもそもその前の段階で関係を断たれているのだ。
となれば。
もう一度研究ノート兼日記を広げてペンを取る。
『任務で特攻したらクラウスに鉢合わせて「見苦しい」「愚直」だととても怒られた。でも馬鹿を見るような目も視線が鋭くて相変わらず恰好いい』
『言うことは切れ味が鋭すぎるが、あの声で言われたら全部チャラになる気さえする。内容に関しては考えたら落ち込むので、声が聞けて良かったなと思うことにしよう』
『今日は二日続けてクラウスに会った。ラッキー! 向こうは嫌そうだったし嫌味は相変わらず心を抉ってくるが、元気そうで安心した』
嫌われているなら単純に、タイプど真ん中の顔と、低いのに耳障りのいい美声、そしてよだれが出そうなほど素晴らしい論文を心ゆくまま楽しませてもらえばいいのだ。
思う存分堪能したクラウスの見目と論文について再度思いの丈を書き殴ったところで、今朝会ったときの少し疲労を滲ませた顔を思い出す。
『けれど徹夜は身体を壊しそうだから、ほどほどにしてほしい。私が言ったら気分を悪くするかもしれないから、同じ研究課のあの女性に頼んでみようか。いや、そもそもあの人はクラウスとどういう関係なんだ。仲が良さそうだったな。羨ましい――』
そこまで書いたところでハッと手を止めた。
「だから、こういうのはいいんだって。やめやめ」
シャッと上から線を引き、今の一文を消してから下の行にペン先を置く。
そしてまた思いつくままひたすらにクラウスについて書き殴り、すっかり窓の外が明るくなった頃、ほくほくと心が満たされた気持ちでエルダはようやくベッドに潜ったのだった。