07 萌え散らかす
夜風に当たってだいぶスッキリしたエルダは、自室に戻るなり机に向かった。
飲んで食べて散々ライナルトにグダを巻いた清々しい解放感に包まれて、心はここ最近では感じたこともないほど軽い。
そうだ。すでに嫌われているのだから、なにも気にする必要はないではないか。
そう思えば悩む必要などない。
しかも明日はせっかくの休みときた。
イスに腰かけ、いい気分のまま机の両脇に高く積み上げられている本の一番上から紙の束を取る。ドンと机の真ん中に置いた分厚い束は片側をしっかりと紐で留められ、表紙には重々しいタイトルが記されていた。
ふふふ、とにやける口元を抑えることが出来ない。
『転移を可能とする魔法陣の構成および発動時における魔力流動の解明』
研究課の知り合いからようやく借りることのできた論文の写しである。
現在は実戦部隊に身を置いているエルダだが、学生時代は魔法陣の研究に没頭していた。図書館の角席を陣取っていたのもそのためで、ひたすら研究に打ち込んでいたものだ。
積み上がっている本もすべて魔法陣に関するもの。実戦部隊に配属された今は完全に趣味となった研究だが、休みの日には朝から晩まで部屋に籠って本を読み漁りああだこうだと試行錯誤するのが楽しみとなっている。
そんな中で、今回の論文は待ち望んでいた特別なものだった。
新しく発表される論文というものは常に心躍るが、これは別格である。
ちまちま読むのがもったいなくて、じっくり読みふける時間を確保できるまで寝かせておいたほど。
そして今。
気分はいいし、明日は丸一日休みだ。夜更かしからの寝坊を気にしなくても大丈夫。
まさに、時は満ちた。
ページをめくる前にスーハーと深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
いざ! と、手をのばしたが最後、エルダは時間を忘れて一心不乱に論文を読みふけった。
*****
「…………はああぁぁー」
最後の一文字まですべて読み終え、名残惜しくも顔を上げれば、口から溢れたのは感嘆のため息。
充実感に頬が高揚しているのがわかる。
恍惚とはまさにこういうことだろう。
窓の外は薄らと明るくなっていたが、疲労感はない。それどころか昂った気持ちで身体中に力が満ちているようだ。
「すばらしいろんぶんだったなぁ……」
あまりの感動に呂律が回らない。ぽわぽわとした気持ちのまま机の引き出しから分厚いノートを取り出した。
これはエルダの魔法陣研究ノート兼日記みたいなものである。とにかくはやる気持ちを抑えてペンを取りノートを開く。
ひとつ深呼吸をしてから、エルダは刮目してノートに覆いかぶさった。
その瞬間、猛烈な勢いでペンが紙を走る。
この滾る気持ちをしたためないわけにはいかない。思いの丈を書き記さぬわけにはいかない。ノートの上でペンが激しく踊りインクは跳ねる。
「相変わらず隙のない魔法陣構成に素晴らしい発想と着眼点……っ! 特に、転移する物質を判別するのではなく魔法陣上に設定された一定の空間そのものを切り取るという術式の構成! しかもその範囲設定の変更すら単純化を可能にしている! 改良の余地はありそうだけど、基盤としては文句ないんじゃないか!? ないよね!?」
溢れる思いに文字が追い付かなくてもどかしい。怒涛の勢いで手を動かす。とにかくこの気持ちを余すところなく書き残す! 熱い情熱に興奮が最高潮に達していくのがわかる。
間違いなく今、机にかじりつく自分の目は血走っている。
「そして丁寧な魔力流動の解析……っ! 魔力と魔法陣が連動していくまでの詳細な証明、特に24ページの証明の流れは相変わらずの生真面目さで、相変わらず――」
ペンを走らせる手を止めないまま論文の表紙に視線を投げ、タイトルの下に記された著者名を空いた手の指でそっとなぞった。
『クラウス・ダーミッシュ』
これは久しぶりに発表された、クラウスの論文だった。
「相変わらず最高だったさすがクラウス――っ!」
興奮のあまりノートの紙がぐしゃぐしゃっとヨレて破け、エルダはその勢いのまま机に突っ伏した。そして悶絶。
「はああぁ……こんかいのろんぶんもほんとうにすばらしかったなぁ……」
すでに語彙も出し尽くした。もはや無意識に垂れ流れる称賛の言葉を、それこそ無意識にそのまま芋虫でも這ったようなぐにゃついた文字でひらすら書いていく。さながら死に際のような字であるが、まだ書き足りない。
「しかもこれ、今まで出していた論文は全部この転移魔法陣に繋がっているよね……?」
パラパラと研究ノートをめくり確認すれば、予想は的中していてさながら長編小説の盛大な伏線回収を見たような感動に叫ばずにはいられなかった。
隣の部屋からドンと壁を叩く音がしたが今ばかりは許してほしい。朝謝りに行くから。
感動に打ち震える脳内では、不愉快極まりないとでも言いたげに馬鹿をみる目で見下ろしてくるクラウスの顔が浮かんだ。
黒褐色の前髪の下で、鋭く光を反射する眼鏡。
その奥から冷ややかに見据えてくる黒色の瞳。
「あぁああぁぁー……」
じっとしていられなくて、机上で頭をゴロゴロと転がした。
「本当にもう……っ」
確かにおっかないし、出てくる言葉はとんでもなく鋭い切れ味を持っているが、対峙したときにエルダが抱いた感情はそれだけではなかった。
普段必死に堪えているぶん、抑える必要のないこの瞬間、顔面が溶けそうなほど緩んでいくのが自分でもわかる。
「あの顔――好き!」
あんなに貶された裏で、エルダの心臓はクラウスの顔に延々とときめいていたのだ。
正直、クラウスの顔はエルダのタイプど真ん中を打ち抜いていた。
どんなに辛辣な言葉が飛んできてもおっそろしい目で見られようと、タイプど真ん中を打ち抜いていたのだ。