第6話 弟子の野外訓練風景
訓練開始から二時間。このころには、話し込んだり、眠っていた魔法騎士たちも目を覚まして、気だるげながらも訓練に参加し始めた。
全員が全員、葉介が登るのに二分は掛けた崖を、十秒と掛からず登ってしまい、そうして強化した身体のまま森へと入っていく。そうして木々の間を走り抜けようとするが、そうしている人間の大抵は、いくつも生えている木に引っかかったりぶつかったり、ツタや木の根、雑草や石などに足を取られたりとしているため、賢い者や経験者は、崖を登って森に入った時点で魔法を解いて、必要な部分でだけ魔法を使い移動をしていく。
熟練者ともなれば、かなり広大であるこんな森も、抜けるのに一時間と掛からない。もちろん、崖を登ることも。
そうして、早々にゴール地点に登っている関長三人は、白い崖――森のど真ん中にそびえる岩山――の頂上から森を見下ろしていた。
「まあ、例によって、ボクの部下たちは無難に全員ゴールしてくるだろうね」
崖の端に腰かけ、両足は下にぶら下げている。そんな危なっかしい状態でいるメアが、能天気に二人へ話しかけていた。
「ただ、あのおっさんは、どうかなー……最初の崖くらいは簡単に登れそうだけど、この森は、魔法無しじゃキツイよー。何より、この崖登るのだって大変だし」
自分の足と、その足のはるか下。大よそ40メートル下の地上を見下ろしながらそう言った。
「やっぱり、彼にアヤルカの森は早すぎたのでは?」
能天気に笑顔を浮かべるメアと、無表情で地上を見下ろすだけのミラに、後ろに立つセルシィは心配そうな声でそう語りかけた。
メアの言った通り、野生動物などが多くいるこの森も、魔法さえ使えれば、魔法騎士でなくとも通り抜けること自体は容易い。白い崖はコレ一つしかないし、森の中のどこからでも見えるこの崖さえ目指していれば、道に迷う心配も少ない。
そう。全ては、魔法さえ使えれば……
「けどまぁ、若い連中の中でも、ハッキリ言って落ちこぼれの集まりな第4関隊の全員ができるんだからさ。このくらいのことやってもらわないと、魔法騎士なんてやってらんないでしょ」
「……それが目的?」
無表情なまま、ミラは視線を崖下からメアに向ける。メアは悪びれる様子も無しに、返事を返した。
「ボクみたく適当にやってたって、魔法さえ使えりゃ、誰でも魔法騎士にはなれるし、関長にだってなれちゃう。そんな中で、魔法も無しに魔法騎士団やるっていうならさ、全員が普通にできることくらい、やってもらわないとね」
「そんな……!」
「ん……一理ある」
セルシィが声を上げようとしたのを、ミラは肯定で遮った。
その一言を最後に、オロオロするセルシィを背に、メアは笑顔で、ミラは無表情なまま、崖下を見下ろしていた。
(ようやく見つけた……このくらいのことしてもらわなきゃ、わたしの弟子失格)
葉介としては知ったこっちゃない、過大に過ぎるそんな期待を、ミラは眼下に広がる森のどこかを歩いているであろう、年上の弟子に向かって念じていた。
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目の前や周囲に青々と広がる木々が、向こう側の景色を遮っている。
転がっている木の枝や、飛び出している木の根、落ち葉等によって、地面はデコボコだらけ。
人が通るためにキチンと舗装されていたり、人工の道が作られている現代日本とは違って、人の手がほとんど入っていないらしい森の中は、ただ歩くだけでも様々な危険を孕んでいる。
そんな危険のうちの一つ。
道の上を、大きな蛇が這っていた。大きいといっても、アナコンダとか、ニシキヘビレベルの巨大なものではなく、マムシやアオダイショウくらいの、身近の大き目な蛇としては想像しやすいサイズだ。
そんな蛇がこちらへ這ってくるのを、葉介はジッと見ている。
種類は分からない。アオダイショウかもしれないし、マムシかもしれない。蛇の種類と見た目の知識など、葉介は全く持ちあわせていない。頭の形が三角形なら毒蛇だという説を聞いたことはあるが、全くアテにならない俗説だということも知っている。
もっとも、葉介が今考えているのは、目の前にいる蛇が毒持ちかそうでないか。
そんなこと以上に……
「蛇……どんな味かしら?」
太陽の高さや空気の匂いからして、何となく、今がお昼ごろなのは想像がつく。
朝メシはキチンと食べてきたし、節約のために昼メシを抜くことにも慣れている葉介ではあるが、それでも単純に腹は空く。
そう思っていた時に見つけたのが、目の前を這ってくる蛇と、大昔に読んだマンガにあった一場面だ。
「蛇は毒持ちでも、頭さえ取っちまえば食う分には問題ないのよな……」
とは言え、食えるかどうかと、食いたくなるかどうか、の二つでは、その意味合いはかなり変わってくる。いくら昆虫は栄養価が高く体に良いと言われても、その見た目のせいで、じゃあ食べよう、という気には簡単にはなれない。
蛇も同じ。しかも、まだ生きていて目の前を這っている、それなりの大きさの蛇だ。
「……なんて、ためらってても仕方ないか」
自分自身に言い聞かせて、早速歩き出した。
右手には、必要になるかもしれないと、持ってきておいたナイフを握る。
あまり蛇を刺激しないよう真横に回り込んで、こちらに反応する前に、頭の付け根の部分を握って捕まえる。
子どものころなら、これで満足してすぐ放してやったが、今回は急いで頭と逆方向に出てきている胴体にナイフを立てて、切り落とした。
落ちた頭は捨てて、まだ動いている胴体を掴みつつ、またマンガを思い出す。
「まずは血抜きか」
手に持ったソレを上に持ち上げ、下に向けた切り口の下に口を持ってきて、舌を出し、滴ってくる血を受け止める。
(うげぇー、鉄臭ぇ……)
当たり前である。
とは言え、動物の血は栄養満点らしいし、川も見当たらない森では貴重な水分だ。
なので、できる限りの血は飲み込むことにした。
そうして血を抜いた後は、切り口部分の皮を摘まんで、下に引いてみる。
指が滑って、簡単には剥けない。次に前歯を皮に立てて、両手の指に力を籠める。
すると、結構な力はいるが、皮はズルズルと下へ剥けていった。
(身は白いんやな……)
かなり固いが、半分以上剥くことはできた。腹の内側には、当たり前だが内臓が赤く光っていて、それは指でできる限り取り除く。
(確か、心臓は丸飲みするのが、蛇を食べる時のマナーだって聞いたことあるけれど……)
また次の機会にして、他の内臓と一緒に廃棄。あとはキチンと洗いたいところだが、そんなことで、持ってはきたが、多くはない水を使いたくはない。
煮るなり焼くなり火を通した方が安全だろうが、それもさすがに面倒だし、そもそもマッチが無いし、時間もない。
これでも、お腹の強さにはそこそこ自信あるし、川の水も平気だったことだし……
「いただきます」
そこまで考えて、この世界に来て初めての肉にありついた。
(骨がエグイな……そもそもが生臭っせぇ)
マンガのような丸かじりは無理だと分かって、魚を食べる時と同じく、横に向けて、骨が残るよう外側を少しずつかじっていく食べ方に変えた。
「ヘビーな食事だ」
ドサッと、後ろで何かが倒れる音が聞こえた。
(動物か? ……うん、動物だ)
蛇をかじりながら、そこへ歩いていく。そこには黄色の動物が、倒れていた。
ついさっき、登った崖から落ちかけていたのを引っ張り上げた、小さな少女だ。
身長は、メアより余裕で高く、ミラと比べてもやや高いくらいだろうか。
それでも葉介はもちろん、おそらく葉介の知る平均の身長よりも低い。
茶髪の下の顔立ちは幼くも整っていて、やや肉付きが良いようだが、美少女として十分に通じる外見。
そんな少女が、葉介の後ろで倒れていた。
「なーにやっとるんだ、この娘は……」
蛇をかじりながら、少女の体を調べてみた。
首に手を当てると、普通に脈はある。顔に手の甲を持ってくると、呼吸はしている。
頭を打ったわけでもなさそうだし、大ケガを負っている様子もない。
(単純に気絶した? 何かヤバい物でも見たとか? そんな、マンガでもあるまいに)
蛇をかじりながら、ただただ倒れている少女に疑問を感じるばかりだった。
(まあ、なんでもいいけど……助ける義理もないことだし)
蛇の食えそうな部分は食い尽くし、残った骨と皮は捨てた。持ってきた小さな酒瓶を取
り出して、それに入れた水を口に含んで、ゆすいだ後で飲み込んだ。
「ごちそうさまでした」
口に残った生臭さもひとまずは解消したところで、下痢が起きないことを願いつつ、また白い崖に向かって歩き出した。
「…………」
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場所は変わって、葉介とは別の、森のどこかにいる黄色の集団。
彼らもある程度進んだところで、岩の上だったり、木の上だったり、適当な場所に腰を下ろして昼食を取っていた。
持ってきたパンやら干し肉をかじり、魔法で出した水を飲みつつ、和気あいあいと談笑している様は、お遊び半分の陽気さ気楽さがにじみ出ている。
実際、最初の風景や会話の通り、彼女らのほとんどは、ココへは修行とか訓練というより、面倒な遠足の感覚でやってきている。
過去の時代にはこの森も、国を護るための魔法騎士を育成するための、サバイバル訓練の場として重宝されていた場所ではあった。
だが、魔法で戦うという行為や考え自体が一般的でなかった一昔前ならいざ知らず、時代が変わり、人々が当たり前に魔法を使いこなすようになり、強くなるために過酷な訓練を必要としなくなった今となっては、この森も、ただこの国の魔法騎士らが伝統的に使ってきた場所として形式上使っているに過ぎない。
実際、この森には数えるほどしか来たことがない者も含む彼女ら自身、ここへ来るまで何匹かの野生動物に出くわしてきたが、ほとんどは無視して逃げることができた。血の気の多い者の中には、特に襲ってもきていない動物に面白がって魔法を撃つ者もいるし、メアの言葉を無視して邪魔な木を無駄に切り倒す者までいる。
いずれ魔力切れになっても次の日にはまた同じだけ使える。そんな便利で楽しいおもちゃがあるのだから、使うのは当然だし、彼女ら魔法騎士の中に、魔力切れの計算もせずそんなお遊びをする人間はいない。
彼女らがその気になれば、関長ほどではないにせよ、早々にこんな訓練、切り上げてしまうことはわけない。そうしないのは、いつもの城で、いつもの仕事や魔法の練習をしているのとは違うこの瞬間が、面倒事であると同時に、関長の目も無しに羽を伸ばせるちょうど良い機会だからだ。
普段から、仕事さえ終わってしまえば羽を伸ばし、自由にやっている連中ではあるものの、やはり、属する組織の中と外では感覚が違う。なので、望んで来た場所でないにしろ、普段の自由以上の自由と外の空気を満喫し、与えられた義務だけはこなすよう、ノンビリ歩いているのである。
そんなふうに、関長含め、基本やる気の無い若者たちが集まってできた第4関隊ではあるが、どんな団体でも人が集まれば、少数だろうが多数派とは考えを異にする人間は必ずいるものだ。
リムと呼ばれる小柄な少女も、その一人である。
幼いころから自分の故郷や、国内の町や村を護り、魔法を悪用する犯罪者や、危険なデスニマと戦ってくれている、そんな魔法騎士たちの格好いい姿は憧れだった。
だからリムも、魔法騎士を目指した。選ばれた時は嬉しくて、受け取った騎士服に袖を通した時は、この国を護る魔法騎士団の一人として、一生懸命やっていこうと奮起していた。
ところが、フタを開けてみれば……
魔法騎士団、特に、自分がいる第4関隊には、リムが憧れ理想とした姿を目指そうと考える者は誰もいなかった。
大抵が、他にやりたい仕事もなく、何となく城に来て雇ってもらっただとか、実家の仕事を継ぐのがイヤだから、自分でもできるちょうどいい仕事として魔法騎士になっただとかいう、ただ楽がしたいだけのやる気の無い連中ばかり。
第1関隊や第2関隊にはマジメな人たちも多いものの、その多くは、立派なお家柄の出身だったり、入団から期待されてきたようなエリートばかりで、リムのような、しがない農家の娘とは根本的に違っていた。
それでも、自分だけでもがんばろうと思ってはいた。
それでも、回ってくる仕事は、城下町の簡単な見回りに、書類作り、その他簡単な雑務といった、地味で、成長性の欠片も感じられない仕事ばかり。
何かしら功績を残せば第2関隊や第1関隊への異動もあるらしいが、その功績を残す機会も与えられず、その実力も無い。何より、他の第4関隊の連中はそれで満足していて、むしろ、今以上に忙しくなることを嫌っている者ばかり。
そんな人間に囲まれて、自分一人だけがやる気を出そうと思い続ける気概は、リムには持つことができなかった。
しかも、リムにとって最もショックだったのが、他よりやる気はあったリムよりも、そうしてやる気なく何もしてなさそうな連中の方が、要領よく仕事をこなしていたことだ。
どんなに簡単な仕事を回されても、リムはどこかで必ず失敗し、それを何度も繰り返すことは珍しくなかった。
なのに、周りの他の連中は、一度か二度失敗した後は二度と失敗らしい失敗をせず、手順や手段はどうあれ、手早く仕事を終わらせてしまう。
その度に、一緒になったリムに呆れ、嫌悪し、仕舞いには怒りだすようになって、気がつけば、落ちこぼれの集まる第4関隊の中でも、最底辺の落ちこぼれとして位置づけられるようにさえなった。
昔から、要領が悪く、頭が悪い自覚はあった。それでも魔法騎士になることができて、こんな自分でも、がんばればやれるんだって、少しの間だけでも自信を持てたのに。
分かったのは、そもそも魔法騎士自体、希望さえ出せば誰でもなることができてしまえる職業だという事実。
加えて、できる人は最初からできて、できない人は、どれだけがんばっても意味が無い。そんな現実だけ。
毎日そうやって失敗して、笑われて、見下されて、バカにされて、次第に理不尽な命令をされたり、仕事を押しつけられたり、それが常態化していっても、イヤだとは言えず、肩身は狭く、居心地は悪く、息苦しくなっていく――
だから、気にはなっていたが特に話しかけようだとか思わなかった、黒い服を着た男の人に、話しかけろ、と命令された時も、いつも通り、大人しく従った。
けど、その人は話しかけるより前に、魔法も使わずに、崖を登りだした。
その姿は、魔法を使って解決することしか知らないリムにとって、衝撃的だった。
だから、話しかけろという命令以上に、何となく興味が湧いて、すぐに追いかけた。
そこでまた、いつもみたいに失敗して落ちそうになったところを助けられて、話すことができた。
それで余計に興味が湧いて、けど一緒に行くのも恥ずかしかったから、ここまであまり気づかれないよう、無言でついてきたのだけれど……
ダーリ……ダーリ……
そんな声が、リムの耳に聞こえてきた。
あまり遠くからは聞こえない。ちょっとずつ、ハッキリ聞こえてくるその声は、割と近くから聞こえてくるように感じる。
ダーリ……ダーリ……
いや、割と近くどころか、すぐ近く、すぐそばから聞こえてくる。
それを感じた時、自分の体が、小刻みに揺れているのを感じた。
そんな揺れている体は、何か大きなものに体重を預けている。とても温かいものだ。
両足は、太ももの辺りがガッチリと捕まっているけど、それも、痛いわけじゃない。
それらもろもろの、なんだか懐かしい感触を自覚したところで――
ようやくリムは、自分の今の体勢を自覚した。
「ダーリン♪ ダーリン♪ フフンフ♪ フフフフフフンフフ♪ フンフフン……」
倒れていた黄色の少女を背負いつつ、葉介は、うろ覚えの歌を歌いながら歩いていた。
人一人を背負ってはいるが、そこまで体重は重くはなく、道も平らで、落ち葉はあるが、比較的滑らかな地面が続いているため、特に苦も無く歩くことができている。
「ダーリン♪ ダーリン♪ フフンフ♪ フフフフフフン……」
それらのことで色々とテンションも上がり、この世界に来てダリダリ言っているうちに思い出した歌を歌いながら、ゴールへと歩いていた。
「ダーリン♪ ダーリ……ん? 起きました?」
幼いころ、テレビのドラマだったかバラエティだったか忘れたが、とにかく聞いた覚えがあるだけで、歌詞も音程もここしか知らない。そんな歌を歌っている最中でも、自分の背中で眠っていた少女が、目を覚まし、体を起こしたことは感じ取った。
「え? あ! ……は、はい、その……!」
目を覚ました少女は、多いに混乱しているのが見て取れる。
それもそうだろう。何を見てあんなところで気絶していたかは知らない。そんな少女を放っておくのも忍びないので、様々な意味でヘビーな昼食を終えたその手で少女を背負って、ここまで歩いてきた(手はちゃんと濡れタオル拭いた)。
これが現代日本なら、間違いなくセクハラだとか大騒ぎされて逮捕されちまうだろうなぁ……
ただの親切心すら犯罪になる。イカレた実家を思い出しながら、また少女に話しかけた。
「何やら向こうでノビていましたけど、何かあったのですか?」
「え、それは……」
言われてリムは、こうなる前のことを思い返してみる。
この人の背中を追っていた。それは覚えている。
口笛を吹きながら、崖と同じように慎重に、それでも崖よりはサクサク速足で進んでいくこの人を追いかけるのは少し辛かったものの、それでもどうにか見失うことなく追いかけ続けていた。
そんな彼が突然立ち止まった。その目の前には、一匹の蛇が這っていた。
その蛇としばらく睨めっこした後、彼は突然蛇を掴んで、ナイフで首を落として……
(ゾー……)
そこまで思い出した後で、背筋が寒くなった。
「何か、恐ろしいものでも見たのですか?」
「あ……いえ、その――」
さすがに本当のことは言いにくい。目の前の人が突然、目の前の蛇を捕まえて、殺して、食べ始めたことに驚いて、気絶してしまっただなんて……
「まあ、話したくないのなら、無理に聞き出す気もありませんが」
そう言ってくれたことで、話さずに済んだことにホッとした。
そしてまた、彼は歩きながら歌いだした。
「あ、あの――」
「はい?」
「その……もっと、静かにした方が。他の動物たちに、わたしたちの居場所がバレると、ココに来ちゃうかも……」
「……? ええ。むしろ、動物たちに聞いてほしくて歌っているのですが……」
「えぇ!?」
驚愕しているリムに対して、首を傾げた葉介は続けた。
「むしろ、歌なんか歌うまでもなく、動物たちは私たちのことなど、気づいていると思いますよ? 大抵の動物は、耳も鼻も人間以上に利きますし。むしろ危険なのは、こちらがいることを彼らが知らない状態です」
「そう、なんですか?」
淡々と語っていく葉介の話に、リムは納得しかねる声を上げていた。
「でも、野生動物に襲われると危ないから、気づかれないよう音を立てちゃいけないって……」
「それ誰から聞きました?」
「え? その、みんな、言ってました、けど……」
「それウソっぱちです。完全にダマされてます」
「ダマされてる、んですか?」
「ええ。森とか山に出るような野生動物たちは、私ら人間をわざわざ襲うようなことはしません。むしろ、人間がいると分かれば、怖がって勝手に逃げていきます。それでも襲ってくるのは、よっぽど腹ペコで凶暴になっている時か、子どもが危険だと思った時、もしくは、突然目の前に人間が現れて、驚いて思わず攻撃してくる時、くらいですかね?」
「そうなんですか?」
「はい。だからこうして、歌ったり会話したり、とにかく音を立てて、野生動物の方へ、私たちがいることを報せてあげます。それでも出くわした時は仕方がないですが、少なくとも静かに歩くよりも、危険は少なく、なります……」
と、突然葉介は、口と足を止めた。視線はジッと、正面を見ている。
リムも、それに釣られて正面を見てみると――
「ひっ、クマ……!」
「シッ、慌てないで――」
リムの言った通り、続いている道の向こう。体はあまり大きくなく、全身の毛は黒い。そんなクマが一頭、二人に顔を向けて、じっと佇んでいるのが見える。
「し、死んだフリです――」
「は?」
「死んだフリをしたら、クマは襲ってきません……!」
なんと懐かしい……そう微笑ましく感じつつ、
「それよか、両手を広げて下さい」
「え? 両手?」
「はい。両手です。大きく伸ばして、クマに向かって大きく振って下さい」
優しく話しかけながら、手近に生えている切り株の上に立った。
そのタイミングで、おぶられているリムは言われた通り、肩から離した両手を目いっぱい広げて、大きく振ってみた。その間、葉介はクマに向かって、おーいと優しく叫ぶ。
しばらくそうしていると……
クマは興味をなくしたように、進行方向へ逸れて、姿を消してしまった。
「すごい……どうして?」
「高いところに立って、声を出して、私たちがいるとハッキリ見せたのと、両手を振って体を大きく見せたことで、襲ったら危険だと感じて逃げていったんです」
理屈が合っているのかは葉介も知らない。それに、昔、興味本位で調べただけの、クマと出くわした時の対処法を試しただけで、上手くいくかの保証もなかった。
なので内心、距離があるとは言え、かなり怖かったものの、上手くいったことに安堵していた。
そして、自分以上に怖がっている、若い少女をこれ以上怖がらせないよう、余裕な声を上げていた。
「ちなみに、死んだフリは効果がないうえ、逆に襲ってくるので絶対にしないように」
「えぇ? は、はい……あの! 名前、聞いてもいいですか?」
「名前ですか……見た目と大きさからして、ツキノワグマ、じゃないですかね? もしくは、マレーグマか、アメリカクロクマか――ナマケグマではなさそうですけど」
「……あ、いえ、クマじゃなくて、えっと――わたし、エミリム・ルカールって言います! 16歳です!」
「ああ……葉介です……歳は、31です」
「ヨースケ、さん……?」
しばらく、その名前を繰り返し呟いた後で、嬉しそうに言った。
「わたしのことは、リムって呼んで下さい!」
「リムさんですね。よろしくお願いします……多分、夕方には忘れていると思いますが」
「えぇー!? なんでですか?」
「人の名前を覚えるの、苦手なんです。昔から」
さっき言った通り、周りにも聞こえる声で会話しながら、歩いていく。
リムは、肩に掛ける手に余計に力を込めて、温かい背中に体重を預けた。
他の若い男の騎士たちに比べても、決して大きいわけじゃない背中だが、今のリムには、とても心強く、そして、心地よい温かさだった。そんな男の背中に、魔法騎士団の誰よりも実った乳房を押し当てることにも、何の抵抗も感じなかった。
(歩く気無いんかい、このガキゃ……)
目を覚まし、会話して、クマとも出くわして。そうして時間がそれなりに経ったにも関わらず、改めて手に力を込めて、体重を預けている。
今さら降りろとも言い出せず、そのせいで、幼さはあるが中々に美少女であるリムの、年齢や体格からは考えられないほどのビッグサイズを押し当てられて、世の男性が見れば泣いて羨みそうな状況で歩いている。
そんな状態にありながら、葉介が考えているのは、目を覚ましておいて歩こうとせず、背中に図々しくしがみついてくる少女への、ちょっとした呆れとイラ立ちと……
(こんだけ肉がついてて、こんだけ軽いんだものな……羨ましー)
この31年、恋人がいたこともなく、当然、異性に背中から抱き着かれた経験もない。倒れているのを見つけた時も、呼吸や脈、ケガの有無だけ簡単に見て、必然的に顔も見たが、騎士服の下の体つきなど、いちいちよく見ていない葉介からすれば、今背中に押し当てられているものが、どの部位の肉かなんか分からんし、どうでもいい。
加えて、今日までの人生で、自身の身に、一切の贅肉が無い状態など見たことがなかった。
いくら運動しても痩せてくれない。あまり頻繁に体重を測ることもしなかったが、最後に測った時は、身長168センチに対して、体重70キロ。どこかで見た、自身の身長の標準体重に比べて明らかに太りすぎていた。
人一人おんぶして、歩いていきながら、自身の背中でブルンブルン揺れているのと、自身の腹でダルンダルン揺れているの。
二つ分の揺れを感じながら、涙目になるのだった。
(絶対綺麗になってやる!!!)
今まで何度宣誓したか分からない、31歳の心の雄叫びである。
涙と雄叫びの経験ある人は感想おねがいします。