中西くんの覚醒
夢乃が前職の頃、そのまま寝落ちしてもいいようにと買った二人掛けソファにくつろいで、高瀬くんが『闘魂』を読む。この光景にも慣れてきたなあ、と思いながら夢乃は洗濯物を干した。
「あー、この話めっちゃいいんだよなー!」
大声が聞こえたと思ったら、高瀬くんがぎゅっと目を瞑り漫画を伏せていた。
「えっ、どこどこ?」
高瀬くんが『闘魂』第五巻の真ん中あたりのページを見せる。
「ああああそこね! 中西くんが無双するターン!」
『闘魂』の主人公、中西一生は今では全国区のピッチャーだ。しかし最初は投手としてまったく目が出ず、一度野手になろうとしたことがある。
中西くんは癖のあるフォームをしていた。それは幼少期から高校生になるまで、指摘してくれる環境がなかったためだ。青葉高校に入学してからも、先輩からは「速いだけ」と揶揄され、常に一人だった中西くんはそれを鵜呑みにしてしまったのだ。
それを救ったのが、高瀬くん含む、今の三年生レギュラーだ。
「確かに癖があるが、肘を痛めない程度に直すだけで格段にキレが上がるだろう」
と言ったのが今のキャプテン、中条大将くん。
「だな。てか、先輩に言われたくらいで自分の夢、捨てんなよ」
まだ一年だぜ俺ら、と続けたのが高瀬くん。
「それに、ボールの出どころが見えにくいフォームは、メジャーではスモーキーと呼ばれる。つまり、お前の武器だ」
「中条くん……」
大将くんは後に青葉高校のキャプテンになる男で、あだ名ではなく名前だ。
人には努力を強いらない高瀬くんと違い、熱血・努力・規律のキャラクターで、部員だけではなく、自分自身にも厳しい。青葉高校野球部がまとまっているのは、彼のキャプテンシーゆえである、と夢乃は思っている。
「そのままで強くなって、あの先輩、見返してやろうぜ」
「直人……分かった。俺もっと自分で調べて、コーチや監督にもアドバイス貰ってくる。そしていつか、このチームのエースになってみせる!」
普段穏やかで自分の意見を言わない中西くんが、初めて豪語するシーン。
そして第五巻では、初めて出た練習試合でノーヒットノーランをやってみせたのだった。
「ずっとやってきた投手を諦めかけたところに現れた仲間……まだ入学して日も浅いのに自分の力になってくれるなんて……そこは三人の絆が生まれた瞬間だよね。
ノーノーはオドオドしてた中西くんの覚醒! って感じで震えたなあー。
『闘魂』って野球を知らない私には難しい単語も多いけど解説してくれるし、何より友情や努力がアツくて、しかもリアリティがあって簡単に勝てないところがまた」
「ストップ、ストップ松崎さん」
「はっ」
高瀬くんに止められて、夢乃は我に返る。
『闘魂』世界の人間に何を力説しているのだ。夢乃なら、自分が生きている世界を絶賛されてもピンとこない。
「ごめんね……『闘魂』の話になると人が変わるって周りにも言われてて」
周り、といっても主に祐介だが。
「投げると豹変する中西に似てるな」
「中西くんに似てるなんておそれおおい!」
干そうとしたタオルを振って否定すると、高瀬くんがぷっと吹き出した。
「なんかいいな。俺だけじゃなくて、中西とか青葉とか全部ひっくるめて、応援してくれてんだな、松崎さん」
「それはもちろん! 当たり前でしょ?」
夢乃は何を言うのだとばかりに眉をひそめる。そんな夢乃に対して高瀬くんは、他に好きなエピソードは? と楽しそうに話を続けたのだった――。
◇
(松崎さんって、俺のためならマジでなんでもしてくれるけど……)
高瀬からすれば、その理由が「推し」ってことしか分からないので、どうにも居心地が悪いところがあった。
といってもどこでも寝れるしどこでも過ごせる元来の性格のおかげで、恐怖心などはないのだが。
しかし、高瀬自身ではなく、『闘魂』や中西のエピソードについて熱く語られたことで、夢乃が使う「推し」という言葉をようやく高瀬の中で落とし込めたのだ。
(俺だけじゃなくて、青葉高校……いや、俺の世界全てを応援してくれてんだな、この人は)
そう考えたらなんだかむず痒くって照れくさい気持ちが心に色づいていく。
「松崎さん」
「ん? なあに?」
高瀬のリクエストで、『闘魂』のエピソードを語り続ける夢乃に告げる。
「ありがとうほんとに。俺のこと、応援してくれて」
高瀬がぺこりと頭を下げる。以前はしてもらったことに対する礼だったが、今回は違う。改まって言うのが照れくさくて、高瀬はしばらく俯いていた。
「そんな……不意打ちずるい。こちらこそ、私の世界に存在してくれてありがとうございます」
けれど、感激のあまり涙して頭を下げる夢乃に、その照れは瞬時に飛んでいく。いちいちスケールがでかいんだよ、と高瀬は苦笑いを浮かべた。
(松崎さんって、なんか憎めねえよな。これだけ世話になっといて言うセリフじゃねえけど)
「どういたしまして」
夢乃の過剰反応に慣れてきた高瀬は、そう言って、『闘魂』の続きを開いたのだった。