推しとユニクロデート
「ただいまぁー」
帰ったって誰もいないのだが、防犯上習慣にしている言葉に対して、「おかえり」と返ってきたことに夢乃は驚く。
制服の白いワイシャツを腕まくりした高瀬くんが不思議そうに目をやる。夢乃にとって命の恩人とも言える人がそこにいた。
「なに玄関で突っ立ってんの?」
夢乃は軽く卒倒しそうになる。
(そうだ、高瀬くんがいたんだった……!)
そのために早く帰ってきたというのに、まだこの非現実に慣れない。オフィスでは丁寧にメイク直しまでしたというのに。
「会社という現実からの推し、なんというギャップよ……」
「なに言ってるかわかんねえ」
高瀬くんが薄く笑った。
(顔面が良すぎる!)
夢乃は眉間を強く揉み、なんとか意識を保つ。
慣れなければならない、と自分に言い聞かせながら玄関に入れば、食欲を誘う匂いが鼻腔をくすぐった。
「適当に料理したから、よかったら食って」
一人用の小さなホワイトのテーブルには、同じく白で揃えられた食器が何枚か並んでいる。
高瀬くんのイメージカラーがオレンジだ。グッズの邪魔をしない色をチョイスしただけで大したこだわりのないお皿には、色とりどりの料理が盛られていた。
「ええええええええ推しの手料理? え? すみませんごめんなさい」
なぜか謝り倒す夢乃に、高瀬くんはもう慣れたのだろう。
「元気だよな、松崎さんって」
高瀬くんが呆れぎみに、でも少しだけ楽しそうに笑った。
「美味しい……!」
「それはよかった」
肉じゃがをメインとした和定食は、お店が出せるのではないか錯覚するほどの出来映えで、夢乃は唸る。
「料理が得意って書いてはあったけど、ここまでとは……!」
「そんなことまで書いてあんだ?」
もはや高校生の腕前ではない。しかも、ある程度のお金は渡してあったとはいえ初めてのキッチンに見知らぬ土地で、である。
食欲も落ち着いて彼を見れば、腕まくりした白シャツから日焼けした肌と鍛えられた筋肉があらわになっている。夢乃は脳がぐらりとしたが、大人なので耐えた。
前の職場に感謝することがあれば、高瀬くんに出会えたことと、この忍耐力ぐらいだろう。
ご馳走様と手を合わせる。洗い物を始めようとする高瀬くんに、後ろから「私がやるよ」と近づけば、「あ、あんま近寄んないで」と言われた。
(えっ……嫌われた? 同居モノによくある、ここから先は俺のスペースはだから入ってくるな的な?)
とぐるぐる思考をしていると、高瀬くんが苦笑いする。
「バット振ったのにシャワー浴びれてないからさ。汗臭いと思う」
(そんなことを気にするなんて……! なんて尊いの!)
「いくらでも嗅ぎます!」
「松崎さん、それヘンタイ臭い」
夢乃の勢いの良い宣言は即座に却下された。当然である。
あー、あちぃ、と第三ボタンまで開けてパタパタする高瀬くん。茶色い襟足が首筋に張り付いていて揺れている。
(せ、セクシーすぎる……!)
夢乃は鼻血と吐血を堪えながら、意識を保つために質問した。
「どれくらい振ってたの?」
「んー、二千回くらい? そっから数えてねえ」
「えっ、すごい」
「素振りしかできることねえから」
困ったように眉を下げて笑った。私がヲタクを発動して困らせたときとは少し違う顔だった。
(もっとちゃんと、練習したいんだろうな……)
夢乃はなんて言ったらいいかわからず、とりあえず財布を掴んだ。
「ごめん着替えいるよね……! 今から買いにいこう」
「や、もう遅いし。下着類はコンビニで買ったから大丈夫」
「じゃあ明日! 休みだから、ユニクロ行こう」
「ユニクロってユニクモのこと?」
そうだ、あちらの世界では著作権の関係か名前が違うのだった。頷くと、高瀬くんがへぇーと興味深そうな声を出す。
野球用品を真っ先に買いに行って、肝心な生活用品を忘れるとは、昨日の夢乃のテンパり具合がよく分かる。
じゃあ明日開店一番に行こう、と約束して高瀬くんはシャワーへ、私はメンズサイズのTシャツを探しにたんすを漁りに向かった。
こうして、井上さんにとってのメンテデーこと夢乃の休日は、推しとデートすることになったのだった。
◇
「へえ、結構でかい」
「東京の方が大きいでしょ」
夢乃の給料ではさすがに東京には住めない。『闘魂』のイベントに駆けつけられて、会社からギリギリ徒歩で通える、という条件で神奈川県横浜市の外れに住んでいる。
「どうなんだろ、違う世界だしなあ」
高瀬くんが首を傾げる。
二人きりのお出かけは二回目だ。実はとても早起きして少し寝不足である。
丁寧に髪を巻き、通称『高瀬くんに会えたらセット』……フリルのトップスと花柄スカートに身を通してフルメイクを施した。
隣に高瀬くんがいることを意識したらまた鼻血を吹きかねないので、まつ毛が下がっていないかどうかを考えながら売り場を歩いていく。
「なんかめっちゃ視線を感じる」
制服だからか? と顎元に手をやって考え込む高瀬くん。
(あなたが別次元にイケメンだからですよ……)
ありのままを伝えると、彼は納得したように「あ、そっか」と言った。
「ま、俺かっこいいからな」
と、片頬で笑む高瀬くん。自覚があるのはたいへん良いことだ、と夢乃は思った。
高瀬くんは自分が原作でもかっこいい部類に入ることを知っているし、野球が上手いことも自覚している。
それでも彼が原作で妬まれていないのは、彼が努力の人だからだ。
才能やセンスだけなら、高瀬くんより上の人は『闘魂』にもいる。だが、彼はそれを努力で覆してきたのだ。昨日やった素振り二千回なんて、普段の彼のメニューの何十分の一にも満たないだろう。
ホームランを連発するうえ、「俺が一番」なんて言うから、自信家のラッキーボーイに見えがちだが、裏にある情熱に惚れるヲタクが多い。夢乃もその一人である。
それゆえ高瀬直人は、『闘魂』で人気ナンバーワンを誇るキャラクターなのだ。
「えーと、パジャマだろ、制服じゃ昼間目立つからTシャツを何着か、ズボン、あと何がいっかなー」
「早朝のランニング用にウェアは?」
「たしかにスウェットかハーフパンツは欲しいかも」
「あと、ユニフォーム代わりのシャツは買った? あとアンダーも」
「あ、忘れてた。てかホームランは全部四点なのに、アンダーは分かるんだな」
高瀬くんがいたずらっ子のように少し声色を変えてこちらを見た。
アンダーとは、ユニフォームの下に着るシャツのことだ。選手は汗をかくため、試合用に替えを何枚か持っていく。
「もう。だから『闘魂』読んでから勉強したんだってば。今ならプロ野球も見てるよ」
「マジで? どこが好き?」
「そういうのはないけど」
「見てねえじゃん」
ツボに入ったのか、お腹から笑い声を上げる高瀬くん。本当にコミュ力が高い。昨日一昨日出会ったばかりの異世界の人間、しかも自分の大ファンと普通に会話をしている。
「ま、いつか連れてってよ。こっちの野球も見てみたいし」
「当面は生活基盤整えるのが優先だけどね」
なんてったってお金が大変なことになりそうだから。
結局、高瀬くんは先ほど言っていたものに加えてウインドブレーカー、夢乃は「これ松崎さんに似合いそう!」と不意打ちで鎖骨に当てられた花柄のワンピースを購入したのだった。
調子に乗ったからではない。油断していたところ、至近距離で触れられたため、鼻血を出して汚してしまったからだ。
「松崎さんの鼻血ポイントが分かんねー!」
と頭を抱える高瀬くんであった。
ブクマありがとうございます!
していただけてとっても嬉しいです´ω`*