推しが神様になったわけ
昼休み。高瀬くんの無事を確認しようと思ったけれど、家は固定電話を引いておらず、彼に携帯を与えるのも忘れていた。
(これは今日、絶対定時で帰らないとな……)
なんて思っていたところ、ランチ相手の吉方祐介が目の前の椅子を引いた。
「いつも弁当のお前から誘ってくるなんて珍しいな。で、何があった?」
祐介は大学時代からの友人で、二つ年上の先輩だ。夢乃がこの会社に入ったのも、再就職先に困っていたときに、祐介が斡旋してくれたのだ。
180cmの長身から威圧感を感じられないのは、涙袋のせいかもしれない。舞台俳優が化粧を施したようなハッキリとした顔立ちと長めの黒いスポーツ刈りは清潔さをまとっている。さすが営業部のエースだ。
初めて会ったときはあまりに整いすぎて芸能人かと夢乃は思ったが、今ではすっかり慣れてしまった。
そんな祐介はとても鋭い。私が話を切り出す前に察していたようだ。
本当は祐介に、高瀬くんのことを相談しようと思っていた。しかし、祐介の顔を見ると言えなくなる。
ついに頭がおかしくなったかと思われるのではないか――。
本人を連れてきたとしても、似た高校生を誘拐してきたと思われるかもしれない。
祐介はヲタク趣味に理解はあるものの、度を越している夢乃の愛に半ば呆れてもいるため、どちらの反応も自然に思えた。
となると、言えることといえば今朝の井上さんの発言くらいで。
「フツーってつまらなくないですか、って言われちゃった。もっと夢とか希望とか持って生きましょうよって」
普通のどこが悪いのよ! と二杯目のカフェインを煽る。前の会社にいた頃の癖がまだ抜けず、夢乃はカフェインジャンキーだ。
「推しのグッズに囲まれて死ぬのって、孤独死っていうのかなぁ? なんて言ってた人間が普通なわけないだろ」
「高瀬くんのことはおいといて! 私は平凡に生きたいの!」
「まあ、どっちの意見も間違っていないけれど、井上さんの言い分の方が共感できるわ」
「言い返せなかったことが悔しい……」
「ってことは自分でも分かってんじゃん」
「うっ」
でもさあ、とアイスコーヒーの氷がカランと鳴るのを見ながら呟く。
「井上さんまでいかなくても、夢って大変じゃん。わざわざ苦労しなくても、普通に生きられたらよくない?」
「お前、昔はそんなんじゃなかったのにな。やりたいことのためならなんでも頑張れる! ってタイプだっただろ」
「そんなこともあったっけ」
「あったよ」
「だとしたら、昔のことだよ」
と、夢乃は苦い思いで一息をついた。
◇
(やりたいことのためならなんでも頑張れる! かあ。
そんな頃もあったなあ……)
祐介が仕事に戻ると席を立った後、一人会社のカフェスペースで過去に思いを馳せる。夢乃は新卒の頃、ゲーム業界に勤めていた。
「なんでこんなことが出来ないんだおめェは!」
「すみません! すみません!」
申し訳ございません、と言わせる時間も与えてくれないような上司。終電なんて概念は当たり前にない世界。
そんな世界に夢乃はいた。
それでも、「期待してるからこそやらせるんだからな」
という上司の言葉を信じて、上司の分まで仕事をしていたら、週七で朝から朝まで働いていた。
ずっと夢見ていたゲームの制作、開発部。憧れていた世界。高校生の頃から、自分はゲームのシナリオライターになるんだと信じて突き進んできた。
しかし夢乃はその会社で働いていくうちに、感情を無くしていった。
さすがにおかしいと祐介に指摘され、夢乃が直談判した頃には、上司のパワハラは悪化していた。
「お前ここ辞めて他で働けると思ってんのか?
どこ行っても通用しねえよ、お前みたいなとろくせえヤツ」
「すみません……」
それは夢乃を洗脳するのに十分な言葉だった。
そんな生活を続けているうち、さすがに体を壊して家で療養することになった。ここで夢乃は、神様――高瀬くんと出会うことになる。
(出社したら怒られるだろうなぁ、もう生きていたくないなあ)
そんなことを思っていたとき、適当につけたチャンネルで一挙放送されていたのがアニメ『闘魂』だった。
(へぇ……こんなのやってるんだ)
まだ二年生の頃の高瀬くんがそこには映っていた。
話の流れは半分ほどしか分からなかったけれど、無音も嫌だし、と見ているうちに試合に入って、世界観にのめり込んでいく。
地方大会の準決勝で、ホームランを打った高瀬くんが、人差し指をまっすぐ掲げて、ベースを駆け回るシーン。
三対零で負けていたのに、結局そのホームランがきっかけで逆転勝利してしまった。
(すごいな……青春だなぁ)
なんて思いながら夢乃はカップラーメンをすすっていた。
だが、次の話で高瀬くんが足を怪我をしていた事が発覚する。一つ前の試合で、スライディングの際に靭帯を損傷したらしい。靭帯の損傷といえば歩くことは出来ても、高瀬くんのスピードで走ることなど不可能なはずだ。彼はそれをやってのけた。
いつも笑顔で、チームメイトに誰一人として気付かせず、「俺が一番! お前らは最高!」と笑う彼に夢乃は心が震えたのだ。
(どうしてここまで頑張れるんだろう……)
弱冠十六、七歳の男の子が、体を痛めて、誰にも言えず、それでもキツイ練習を経て、本番で逆転ホームランを放つ。
夢のような人だ、と夢乃は思った。人の夢を全て具現化したような人。
夢を追うとはこういうことなのだ、と肌で感じた。
気づいたら夢乃は泣いていた。鎖骨に水がたまるほどに。
(私はいま、この人を応援したい)
家に帰る間もなく働いて自分の夢を追い続けるより、この人の夢を応援したい。
実現しないキャラクターに何を、と人は笑うかもしれない。
けれど、どん底にいた夢乃を救ったのは、家族でも祐介でもない。画面に映った、たった一人の男の子だったのだから。
これが夢乃が高瀬くんを、神様と拝んでいた理由である。
それから夢乃は自主退職し、半年間の失業手当で体を治しながら、闘魂を一気見した。アニメはもちろん、公式から発売されているものは全て買い揃えた。
夢乃の今の夢は、このヲタク生活を守ることである。
ゲーム制作に未練がないわけではない。しかし、あんな思いをするくらいなら普通で十分だ、と思っている。
一人ならこの給料でも何とかやっていけるし、何の不満もない。
ただ、たまに思う。高瀬くんや井上さんのような、夢にあふれた人のことを……羨ましい、と。
(そんなこと言っても仕方ないし、引きずらないようにしよう)
ネガティブなのは夢乃の悪い癖だ。悪い方に悪い方に、と考えて昔のことまで思い出してしまう。
高瀬直人が唯一出しているキャラクターソング『空』をイヤホンで流して、心を整える。
『きっと君が見てるから きっと君も頑張っているから 聞こえるかなどうか 君に届きますように』
(高瀬くんにハマったあとこれを聞いて、無事退職届を出せたんだよね)
案の定、ものすごく罵られたが、耐えられたのはこの曲のおかげでもあった。その後、嫌なことがある度に聞く習慣がついた。頑張っているのを、高瀬くんが見てくれているような気になれたから。
(さて、午後も頑張りますか)
帰ったら推しが待っている。いてくれている気がする、ではなく、本当にいる。
(今日は鼻血吹きませんように……)
ブラックコーヒーを片手に夢乃はデスクへと向き直った。