エピローグ
高瀬くん視点のサブストーリー、ご要望があれば書きます!
高瀬くんがいなくなって、夢乃は呆然としたまま生活していた。
高瀬くんのいた痕跡は歯ブラシにいたるまで夢乃の家から消え去っていた。高瀬くんにあげたウインドブレーカーも、お揃いのカチューシャも、すべて。
唯一手に残ったのは高瀬くんからの手紙と、夢乃の左手につけられたミサンガだった。
夢乃の記憶も薄れていくことはなかった。どこまでも優しい、次元の神様である。
しかし記憶が薄れない、というのは辛いことでもあった。
朝起きて、おはようと言う相手がいない。
早めに起きて身支度をする必要もない。
いただきます、と前で手を揃える人はいない。
仕事終わりに迎えに来てくれる高瀬くんがいない。素振りをしている高瀬くんがいない。
シャンプーの減りが遅い。高瀬くんのために買っておいたハーゲンダッツは一向に無くならない。
元々そうだった暮らしが、すごく薄っぺらで寂しいものに感じた。
「今夜の金ロー、アクション系だって! 高瀬く……」
喋りかけても答えてくれる人はいない。
きちんとお別れをしたのに、もう二度と会えないという現実が夢乃の心に突き刺さる。それは祐介に未来があるか、と問われたときよりもずっと深く鋭利で、胸の中ががらんどうのようだ。夢乃は泣くことさえできなかった。
高瀬くんは無事に元の世界へ帰れたのだろうか?
野球に影響は出ていないだろうか?
……自分のことを覚えているのだろうか?
そんなことばかり考える日々が続いた、一ヶ月後。
高瀬くんがいる間は休載していた『闘魂』の更新日の零時ちょうどにウェブで確認して、高瀬くんが描かれていたときは本当にほっとした。
と同時に、ようやく心の底から『これでよかったのだ』と思えるようになった。
それでも、時折あの温もりを思い出してしまう。高瀬くんがくれた人がいる温かさを、夢を、前向きさを。
それくらいあの三ヶ月は、夢乃にとって大きい時間だった。
だからこそ仕事に打ち込んだ。高瀬くんが残していった『夢乃の夢』はまだなにか分からなかったけれど、高瀬くんのことを考えなくて済むように、ただひたすらに仕事をこなした。
そうしているうちに、上司から総務部に異動しないかと打診があった。
「松崎さんすごいじゃないですかァ! 総務部って秘書課とかあるところですよォ。お給料アップですねェ」
井上さんは夢乃の手を掴んで喜んでくれたけれど、当の夢乃は時間をくださいと頭を下げた。
それから数日は自分の夢についてたくさん考えた。自分の気持ちをまっすぐ見つめる良い時間だったと思う。
『夢乃は、好きなこともいっぱいあるよ。今まで触れてこなかっただけ』
『だから色んなことをして、生きろよ』
『夢乃の夢が、叶いますように』
そう笑った高瀬くんのことを思い出しながら、心の整理をするためにも夢乃は部屋を片付けていた。するとクローゼットの中から古いノートが出てきて、夢乃は目を見張る。
(これは高校のとき、ゲーム部の友だちに見せるために書いた、ゲームのシナリオ案……)
夢乃がゲーム会社に勤めるきっかけとなったのは、友だちにこのノートを見せて、「面白い! シナリオライター向いてるよ!」と言われたことだった。懐かしいな、と思い出にふけりながらページをめくっていく。
疎遠になっていた幼なじみが突然現れたけれど冷たくて……といった学園モノから、悪魔になってしまい、人間に戻るには好きな人からのキスが条件!? なんてファンタジーまで、今思えばありきたりな話だが、当時は懸命に綴った記憶がある。
(「夢乃の夢」、かあ……)
高瀬くんの言葉を反芻していると、最後のページに見慣れない書き込みがあった。夢乃の字ではない。
(これは、高瀬くんの字!?)
がばっとノートに張り付いてそれを見る。ここにもまだ高瀬くんの痕跡があった、それだけで全身に鳥肌が立って泣きそうになる。
『すげえ面白そうじゃん。これやってみたいから、作るときは俺も出してよ 高瀬』
「バカ……著作権の関係で出せないよ……」
もちろん、著作権がなくても彼が他の女性に甘い言葉を囁くのを想像するだけで泣きたくなるので、出せはしない。
けれど、もう二度と触れることさえ出来ない彼の、たった一言は夢乃の人生を決めた。
「ありがたいお話ですが、お断りします。今までお世話になりました」
「松崎くんにとっていい話だと思うんだが……心境の変化でもあったのかね?」
「はい。ちょっと夢でも見てみようかと思いまして」
不思議そうに首を傾げる課長に対して、夢乃はどこぞの誰かと同じように、目を存分に細めて笑んだ。
◇
高瀬くんが二次元に帰ってから二年が経った。
今は新卒時の経験を活かして、恋愛ゲーム製作会社に勤めている。小さい会社で定時には滅多に帰れないが、充実した暮らしを送っている。
今のところパワハラなどはなく、嫌なことは素直に言えるようになった。もちろん、ネガティブな性格はなかなか変えられなくて、隣の席の人とは上手くやれていない。
「山田さん、おはようございます」
「……」
挨拶してもスルーされることが多い。落ち込んでしまいそうになるが、推しにきな粉味の味噌汁を振舞ったことを思い出す。
(高瀬くんなら、シャイな人なんだろうなって考えて、根気よく挨拶するんだろうな)
そう考えたら、夢乃の口元からふふっと笑みが漏れる。あの三ヶ月のおかげで、高瀬くんの前向きな考え方が降りてくるようになった。
それでも辛かったことはメモに書いて、『いつか自分がストーリーを担当した際に使えるように』と残すようにしている。
今の夢は、自分の手で恋愛シミュレーションゲームのストーリーを作り、プレイヤーに泣いてもらうことだ。
もちろん、高瀬くんを出す予定はないが。
仕事を辞める際、連絡先を交換した井上さんとのお茶会でそんなことを報告したら
「松崎さん、明るくなりましたよねェ。なんというか、強くなった感じ」
と言われたときはなんだか嬉しかったっけ。
高瀬くんといえば、青葉高校は無事甲子園への切符を手に入れた。今は全国高校野球選手権大会、決勝戦の真っ最中だ。高校一年生の頃、高瀬くんが戦った天才ピッチャー・千道颯との対決である。
一年生のときはセンスだけで投げていた千道くんが、高瀬くんにホームランを打たれて以来努力を重ね、全国屈指のピッチャーになってから初めての対決。
そんな三年間の集大成たる戦いに、毎月ハラハラしながらページをめくっている。
ちなみに、家中に飾られていた高瀬くんのグッズは全てしまった。
嫌いになったわけではもちろんない。冷めたわけでもない。ただ、自立の意味を込めて段ボールに収めた。いつか夢が叶った暁には、開封しようと思っている。
ただひとつ、壁に飾ってある複製原画だけ残しているのは、許してほしい。
(必ず優勝してね、高瀬くん。私も頑張るから)
夢乃はミサンガをつけた左手を複製原画に押し当てて、高瀬くんにエールを送った。
◇
「直人! お前どこ行ってたんだよ、一ヶ月も!」
夢乃と別れたあと、出会ったときと同じように強い光に誘われて進んだら、俺は青葉高校の寮への道にいた。
そのまま寮に帰ったら、泣きじゃくった顔の中西やチームメイトに迎えられて、どうやらこちらの世界では一ヶ月間失踪扱いになっていたことを知った。
「キャラブック42ページ目。中西一生、好きなタイプは清楚な女の子」
顔を見たら夢乃の世界で見た情報が頭に浮かんできて、そのまま口をついてしまった。
「はあ? お前、こんなときに何言ってんだよ」
泣きながら困惑の表情を浮かべる中西の横で、目を潤ませて俺の手を掴んでいるのがセカンドの瞬。その裏でセンターを張るがごとく両腕を腰に当てて怒気を放っているのは、もちろん大将。
「どれだけ心配かけたと思っている! 事情によっては練習メニュー五倍だからな!」
そんな大将の声にも安堵の色が浮かんでいるのを察して、俺は涙腺が緩むのを感じた。これ以上人前で泣くわけにはいかない、とあわてて大将に向かってにやりと微笑む。
「キャラブック48ページ目、中条大将。内緒にしていること、未だに母親のことをママと呼んでいる」
「なっ……!」
「おい高瀬、さっきからそのキャラブックってのなんなんだよ。頭でも打ったのか?」
「でも当たってんだろ?」
心配そうにこちらを覗き込む中西に意地悪く言えば、中西はうっと詰まって顔を赤くした。
「ってことは、大将のも……?」
話題を振られた大将は、先ほどから顔を真っ赤にしたままわなわなと震えている。このままだと殴られそうだ、と笑うのを堪えて俯いた。
「馬鹿野郎! 明日から練習メニュー十倍だ!」
「すみませんでした!」
いつもの日常の感覚に、俺は気が緩むのを感じる。しかし一ヶ月部を空けていたのは事実なので、後輩たちに部の規律を見せるためにも、俺はあえて敬語で声を張ったのだった……。
そこからは今まで当たり前だった日常が戻ってきた。
十倍の練習メニューは、なまっていた身体に多大な筋肉痛を与えた。
夢乃との生活が幻覚だったんじゃないかと思うほど、野球をして、授業中は寝るのを耐えて、野球をして……。
腕はやっぱり鈍っていたから、カンを取り戻すためにも野球漬けの日々が続いた。
(二ヶ月で取り戻せたのは、さすが俺)
地区大会の決勝戦でホームランを放ち、夢乃いわく『俺が一番』ポーズでベースを駆け回る。意味もなく全力疾走して監督に怒られちった。
そして今、甲子園の土を踏んでいる。誰よりも長い夏にするために、溶けそうな暑い日差しを誰よりも長く感じるために、俺は今、あのとき夢乃と見た甲子園球場に立っている。
九回の裏、十対八。ツーアウト満塁。サヨナラのチャンス。
(俺が打てなきゃ、チームは負ける。
……じゃねえ。俺が打ったら、チームは勝つ!)
震える両手を包んでから、バットを握り直す。夢乃が俺の両手を、大切な手、と称したときのことを思い出した。
夢乃が祈っている気がした。きっと息もせず見守っているだろう。大田選手のときのように。
ピッチャーが何度も首を振る。ようやく球種が決まったようだ。
(どんな球でも、大田選手の百六十キロに比べたら怖くねえ!)
見とけよ、夢乃。
俺は野球で返すことしかできねえから、
この一瞬を、見といてくれよ。
そして、俺の大好きな笑顔で、笑ってくれ。
バットの芯で球を捉える音がした。
俺は全速力で一塁を駆けながらボールの行く末を見つめる。
ボールが──フェンスを超えた。
地面がひび割れるような声援がわっと沸き起こる。
「っっっしゃあ!!!」
中西が既に泣いている。足が悪く決勝戦だけしか見に来れなかったじっちゃんが、痛めているのも忘れて立ち上がったのが見えた。俺も目の奥が熱くなったけれど、ぐっと堪えて、いつも掲げる利き手とは逆の手を拳にして空に突き上げた。
(今回ばかりは、俺が一番じゃなくて、皆で掴んだ一番だから)
左手に着けられた青色の紐が揺れる。ホームベースを踏んだ瞬間、ベンチも含めたチームメイトが駆け寄ってくる。ぐっしゃぐしゃに抱き締められた。
「直人、ありがとう、ありがとう! 俺ら、日本一だ!」
「ばっか。こちらこそ、ありがとうだよ」
じっちゃんの方をこっそり見る。鼻水が口まで垂れるほど号泣していた。
「直人ー! お前は日本一のショートだあー!」
じっちゃんが小さい身体をめいっぱい反らして叫ぶ。
『つまりすべてにおいて長けとるヤツがショートをやるんじゃ。完璧なショートは、お前が語るにゃ百年早いわい!』
『高瀬直人。日本一速いショートになる男です!』
「じっちゃん、それはずりぃって」
さすがに涙はこらえられなかった。それどころか鼻水まで出てきた。
けれど、夢乃が大好きだと言ってくれた笑顔で笑えていたと思う。
◇
監督の胴上げが終わって、閉会式も終わった甲子園は予想よりも静かだった。
「おい直人、監督が早くバスに乗れって」
「ん、分かった」
空を見上げる。雲一つしかない快晴だった。
左手をなるべく高く手を伸ばした。チームメイトに何度もからかわれた、花柄のミサンガが揺れる。小声で歌を歌った。
「直人、それ誰の曲だ?」
「んー、俺の」
「はあ?」
”きっと君が見てるから きっと君も頑張っているから
聞こえるかなどうか
君に届きますように”
夢乃が号泣しているのが頭の中に浮かぶ。想像したら笑ってしまった。
(もう見えないけれど、声も聞こえないけれど
夢乃が優勝した俺を見て、笑っていますように
最初で最後の、俺の好きな人へ)
◇
月日はあっという間に過ぎて、秋になった。あの人が好きだと言っていた季節。
(俺は夏が好きだから、秋になるとテンション下がっちまうんだけど)
今年は楽しみにしていなかったと言ったら嘘になる。野球部を引退したらしようと決めていたことだ。
制服のズボンのポケットから、クリアケースで保護した写真を取り出した。夢乃がこちらを向いてミサンガを付けているときのチェキ。
(夢乃、どうしてっかなあ。疲れてっかな)
「中西ー」
「どうした?」
「近いうちに俺、しばらく旅に出るかもだけど、心配すんなって皆に言っておいて」
「はあ!? お前またどっか行くのかよ」
「分かんねえけど。どうしても、会いてえ人がいるんだ」
満月まで、あと二日。
拝んでいたら推しが壁から出てきたので共に暮らします 【完】
今まで本当に本当にありがとうございました!!




