最後の夜
満月をこんなに恨んだことはあっただろうか。高瀬くんとの最後の一ヶ月はあっという間に過ぎて、明日には月が丸くなる夜更けに、二人はソファに腰掛ける。
「本当に、最後だね」
「ああ、そうだな」
もう一つの発動条件である『仕事で落ち込むかひどく疲れる』が上手くいくか不安だが、とにかく業務に打ち込めば疲れはするだろう。
別の地域ではもう地方大会が始まっている。失敗は許されない。
夢乃が身を固くしていると、高瀬くんが一人ベッドに座った。そして隣をぽん、と叩く。
「夢乃、来て」
「……うん」
一緒に眠るのはこれで二度目だ。そして、最後だ。
寝転んだ高瀬くんが夢乃の髪の毛に指を通す。それが心地よくて目を瞑った。
初めて一緒に寝たときとは違う。高瀬くんがこちらを向いている。それに気がついて、夢乃は薄暗い部屋の中で高瀬くんを見つめた。
「夢乃」
寝る前の少し掠れた声で彼が名を呼んだ。その顔は緊張に満ちていた。今になって初めて知る顔もあるなんて、たまらなく切なくなる。差し出された手に向かい合わせて、指先を絡ませた。下から握り込むと、高瀬くんの手に力がこもる。
「夢乃、ありがとう。俺、絶対優勝する」
「うん。見てるね」
「その頃には違うのにハマってましたとか、やめろよ」
「ないよ。神様だもん」
布団の中で二人はくすくすと笑い合う。
高瀬くんの声が好きだ。歌声より少しだけ低くて、野球の話をする時の真剣な声が好きだ。
ああ、カラオケ行ってみたかったなあ。『空』、生で聞いてみたかったなあ。
高瀬くんの笑顔が好きだ。あんなに美しい瞳を惜しみなく細める元気いっぱいな笑顔が好きだ。
ああ、もっともっと写真に収めておけばよかったなあ。
高瀬くんの料理が好きだ。半熟卵のオムレツが特に美味しくて、ああ、明日からは何を食べようか。
やり残したことがないようにと一ヶ月間暮らしてきたのに、最後の夜になって色んな後悔が訪れる。
それでも一番強く思うのは。
高瀬くんの夢が好きだ。いつだって前を向いて夢を追う姿勢が大好きだ。時に不安に駆られ、時に挫けそうになっても、絶対に諦めないところが好きだ。
高瀬くんが、好きだ。
高瀬くんが布団の中で夢乃の肩を包んだ。子犬一匹分が入るくらい空けられた隙間に、夢乃はねだるように彼のシャツの裾を摘む。常夜灯の中で高瀬くんと目が合った。瞬きで頷くと、強く抱き締められる。
抱き締める力加減が分からない、まだ十七歳の高校生。八つ下の男の子との三ヶ月はとても濃い時間だった。
夢乃と同じシャンプーの香りが高瀬くんの髪から香る。そこに高瀬くんだけの香りが混じっていた。
高瀬くんの心音が聞こえる。とくとくと流れる音は彼が確かにここにいる証拠で、夢乃はその音に自らが混じっていくのを感じた。
「高瀬くんが優勝するところ見たら、私絶対泣くなあ」
「それはもう鼻水垂らして泣くだろ」
「否定はしないけど!」
「しないんだ」
高瀬くんの笑う吐息がくすぐったい。
「だって、推しの晴れ舞台だもの。ずっとずっと、見てるよ」
「なんで……」
高瀬くんが苦しそうに呟く。
「なんでそんなに俺のことが好きなんだよ。俺まで……」
そこまで言って高瀬くんの言葉は夢乃によって遮られた。夢乃の人差し指が高瀬くんの唇に触れる。
「ストップ。それ以上は言わないで。……お願い」
願った声は震えていた。今にも泣きだしそうだった。
高瀬くんは夢乃の気持ちを汲んでか、それ以上何も言わなかった。夢乃も何も言わなかった。痛いほど抱き締められた身体から伝わる熱を、一生忘れないようにと夢乃は心に刻みつける。
高瀬くんが少しでも自分を覚えているように。高瀬くんとの暮らしを自分が覚えていられるように。
明日にはここにいない彼と、本当の神様がくれた時間を、二人は確かに感じ合った。
明日の夜に完結予定です!もうしばらくお付き合い下さい




